第9話 精一杯生きていると言えるなら
古都の一角、大通りから外れた薄暗い路地裏ではちょっとした人盛りができていた。
騒然とした空気の矛先は、付近の壁に腰を下ろしている一人の男性。
彼の周囲にはつい数刻前まで出店としての原形を保っていた木材が散乱している。他にも鋭利な刃物で切り裂かれたブルーシートや最早商品として機能しない残骸が散乱し、動物の腸をぶちまけたが如き惨状を連想させた。
そも、男性が背を預けている鉄筋コンクリート自体にも数多の斬撃痕が刻まれている。
誰かが声高に問いかけた。
「いったい誰がこんなことを」
男性のすぐ側にはダンジョンへと通じる大穴が虚空を広げている。
ダンジョン直通の穴は得てして管理者と利用者の間でトラブルの種となり、刃傷沙汰にまで発展するのも珍しい話ではない。
特に件の管理者は外側冒険者相手だとしても暴利な条件で商売を行っていた。選択肢に殺人が頻出し易い治安で行うには強気なやり口だが、出入口を抑えている彼は気に食わない相手の脱出を拒んだことさえあると聞く。
そういう意味では倒れている男性も不思議ではない。
尤も、怨恨から来る行為にしては彼自身に刻まれた傷が少ないが。
故に誰かが声高に問いかける。
「いったい何故こんなことを」
誰かの声が引金となったのか。男性は何度か目蓋を瞬かせて意識を覚醒させた。
同時に、大口を開けて叫ぶ。
「ああぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ!!!」
悪夢から目を覚ましたかの如く、喉が張り裂けんばかりに声を震わせ、恐慌状態に陥った男性は双眸を見開く。微かに刻まれた傷跡から血を滲ませ、両手で這って逃げ出そうとするところを野次馬に取り押さえられる。
迫真の声で振り絞られる離せ、という咆哮にも動じずに動きを制する面々は口々に問いかけた。
「いったい何があってこんなことに」
「奴が、奴が来たんだ……」
か細く震えた声で絞り出されたのは、下手人の存在。
男性の脳裏に深く刻み込まれ、生涯晴れることのない影を差し込む存在を。
紫の刀身に魔風を纏わせ、触れる尽くを斬滅する殺意と剣気を剥き出しにした存在を。
「剣聖が、剣聖が来たんだッ!」
「外側に堕ちたと風の噂に聞いたが、会いたかったぞ。疾風」
「……へっ、いったい何時振りだよ。俺をそっちで呼ぶ奴に会うのは」
薄暗い神宿ダンジョンの第十階層。
加古川の前に姿を現し、あまつさえ過去の二つ名を口ずさんだのは、紫を基調とした和服を身に着けた剣鬼。
後ろで一つ結びにした黒髪は荒れ狂う殺気を反映するかの如く波打ち、少年へ注がれる双眸の色は高貴さを象徴するアメジスト。腰に帯刀する打刀に手を添えることもなく自然体の構えをこそ貫くものの、滲み出る殺気が抜刀の瞬間を待ち侘びている。
低く、重い声音は告げる。
「会いたかった、会いたかったぞ。疾風。
月光のことは残念だった、なんとも締まらない結末……いっそ堕ちてくれれば討伐の名目も立つというものを」
「……何が言いてぇ?」
月光の名が飛び出し、加古川は声色を一段階低くする。
互いにしか通じない暗号めいた言い回しに伊織が頭上に疑問符を浮かべる中、剣鬼の横に立つ少女が割り込む。
黒を基調にし、端々に彼岸花をあしらった和服を纏う小柄な少女。上から羽織る黒の外套と相反する白の和傘にも同様の花が描かれているのは、彼女の趣味か。
「ちょっとちょっと月背、二人での語らいなら後でやってよね。私もせっかくだし、あの娘と少しは話したいしさ?」
「え?」
「何言ってんだ、そこのガキは?」
伊織へと注がれる明確な敵意を前に、加古川は視線を一層鋭く研ぎ澄ます。
整備不良から来る義腕の軋みもまた、彼の気迫を後押しする。が、対峙する少女は酷薄な笑みを浮かべるばかりで意にも介さない。
「キャハハ、怖い怖ぁい。私なんかじゃ君には勝てないし、何よりそっちは月背の獲物だからね。
でも待つだけじゃ退屈だから、付き添いの君を狙うのさ」
「ま、待ってッ。です。ぼ、僕は戦う気も……!」
「あれ、知らないの。
そしてその際に起きた殺傷に関して、余程悪質でもなきゃ罪には問われない」
「そんな……!」
喜々として語る口調には人を狩るという行為への忌避感はなく、むしろ絶望を顔に示す伊織を嘲笑っている節すらも感じられた。だからこそ少女は恐怖に身を竦め、加古川の背へと隠れる。
少女は肩にかけてあった和傘を閉じ、手首を捻ってボールペンでもそうするかのように軽々と振り回す。空気や周囲の粉塵を巻き上げる様に重量を感じることはできず、手慣れているといった印象を眼前の少年へと与えた。
そして待ち切れなくなったのか、横に立つ男も腰を落とすと柄を硬く握り締めて居合の構えを取る。
「これより先は己が得物を以って語らおうか、疾風」
「俺はそれでいいが、こいつは関係ねェ。勝手に獲物カウントしてんじゃねェ!」
「知ったことではない。外側の駆逐は内側の使命……元より無許可でダンジョンに潜った時点で言い逃れは聞かん」
加古川の主張を一刀の下に切り捨て、月背と呼ばれた男は剣気を研ぎ澄ます。
薄く、長く。
肺に蓄積した呼気を残らず排出したのではないかと思う程に長く息を吐き、剣鬼は秘めた刃を解き放つ。
「
煌めく紫刃は一つと言わず、二つと言わず。
一振りにあるまじき刃の乱舞が加古川、更には彼の背に隠れる伊織へと殺到する。
「クソがッ!」
「キャアァッ」
加古川は背後で怯える伊織の手を掴み、半ば引っ張る形で飛来する刃幕の軌道から離れる。刃は数瞬遅れてダンジョンの壁面へと着弾し、怖気の走る程に鋭利な斬撃痕を残した。
視界の端に収めた刃の痕跡に、伊織は半ば錯乱染みた調子で言葉を走らせた。
月背が握る紫の打刀は、彼女すらも切先に捉えているのだから。数多もの死線を潜り抜けた加古川はともかく、数日前まで日常を過ごしていた伊織の許容範囲を超過して有り余るというもの。
「何アレ何アレ何アレェッ?!!」
「マジでなんなんだろな、あの才能マンはよォ?!」
刃の射線から逃れる中でスターターを引き、虚乃腕の出力こそ戦闘用に向上させた。が、それだけで勝てる相手ならば逃げの一手を打つ必要などない。
少年がヤケクソ染みて吐いた疑問に答えたのは、ダンジョンを吹き抜ける風に乗って飛翔する和服の少女。
「
和傘で器用に風を掴んで揺れ動く様は、さながら風に舞う木の葉の如く。しかして壁面に沿って逃走を図る二人へ追随する軌道は決して風に揺れ動くのみにあらず。
酷薄な、軽薄な、人を人とも思わず軽い笑みを浮かべ、少女は二人の頭上で和傘を閉じる。
先端を、地面へ振り下ろす形で。
「キャハハッ。この程度で死なないでよ?」
「クッソ、ガキがッ」
応じるは、咄嗟に掬い上げる右の拳。
鳴り響く甲高い衝突音は伊織の鼓膜を激しく刺激し、思わず両手で耳を抑えさせる。
如何に重力を加味しても本来ならば押し合いの形すらも成り立たず、秒と経たずに弾き飛ばされるのが道理。だが、少女はなおも酷薄な笑みを崩さずに加古川の必死な表情を頭上から観察し続けた。
「そういえば名乗ってなかったね。
私はブラッドルーズ、本名は訳合って秘密さ。君も男の端くれなら、実力で名前をもぎ取ってみようか!」
「誰でもテメェに興味持つと思ったら……!」
「お?」
均衡が崩れる。
動力部が唸りを上げ、剥き出しのシリンダーが人ならざる出力を発揮。軋みによるロスこそあれども、人一人を吹き飛ばすだけならば致命的な支障はない。
「大間違いなんだよッ!!!」
放熱フィンから白煙が噴き出すと同時に、ブラッドローズの華奢な体躯が天井目掛けて乱回転。目を回す彼女に受け身を取れる余地などなく、異様に広い縦幅を通過して空を覆う岩肌へと直撃する。
「がッ……!」
血反吐を漏らし、一瞬意識を飛ばすブラッドルーズ。
しかして、敵は彼女だけではない。
意識が逸れた隙に低く身を滑らせ、加古川の懐へ跳び込んだ月背。剣鬼の握る紫刃が煌めき、横一文字に薙がれた一閃が少年のインナーを切り裂き、内に控えていた胸部からも薄く血を滲ませた。
反撃とばかりに振り下ろされる文字通りの鉄拳は短い跳躍で逃れると、月背は改めて踏み込んだ上で刃を振るって追撃。
「テメェ、傷を……!」
「戦の傷は誉れであろう」
「時代錯誤なんだよッ!」
義腕に刻印された一陣の刃傷に、ただでさえオーバーホール代の捻出に苦労している加古川は表情を怒りに歪める。次いで激情のままに振るわれる拳は空を切り、月背を捉えることはない。
「テメェと違ってこっちは金がかかんだよッ。才能マンが!」
「才覚ある者が先を行く……いつの世も不変の理よ」
「ウッセェッ!」
言葉に乗せて放たれる殴打の連続も、紫の眼光は全てを見切って服を掠めることすら皆無。
返しに空を薙ぐ刃は、刀身に走らせた風を撒き散らすことで広範囲を切り刻む。無論、拳を振るうべく距離を詰めていた加古川に防ぐ術はない。
「ガッ、グゥ、アァ……!」
解き放たれた無数の刃が皮膚を切り裂き、衣服を抉り、血を噴き出させ、義腕にさえ擦過傷を重ねる。
魔鉱ドライブより生成したエネルギーを各部へ行き渡らせるチューブにこそ傷はないものの、刃幕の濃厚さから何時被弾するか分かったものではない。
だが、加古川が意識を注ぐべきは自らに関することのみではない。
「キャハハッ」
「あぎぃッ!」
「飛田貫ッ」
鈍く生々しい打撲音に振り返れば、伊織の脇腹に和傘がめり込み小柄な体躯が宙を舞う瞬間。喜々としたブラッドルーズの口端にこそ血痕が僅かに残るものの、彼女が傷を負わせたとは考え難い。
咄嗟に落下する少女と地面の間に割り込むべく身体を滑らせんと駆け出すも、背後より迫る剣鬼は隙を見逃さない。
「余所見とは、無粋!」
「このッ……!」
地を這う剣閃を紙一重で回避する少年。だが、一刻を争う状況下で最短経路を走れないのは致命的。
「がっ、は……!」
受け身の一つも取らず、乱暴に地面へ叩きつけられた伊織は数度バウンドする度に肺から空気を吐き出す。跳ねる度にカーディガンやチェック模様のスカートは傷つき、出っ張りに引っかかった布が破れる。
地面を僅かに濡らす朱を目の当たりにし、加古川は目を見開いた。
張りついた表情を戦意喪失と解釈したのか、剣鬼は失望を顔に浮かべて柄を握る。地を滑る踏み込みは数秒と経たずに距離を詰め、刃の射程に少年を捉える。
「他愛ない」
「……あ゛ぁ゛?」
掬い上げる斬撃の軌跡に被せ、神速の拳が甲高い音を響かせる。
反撃を考慮していなかったのか、あるいは不利な姿勢で無理に鍔競り合うのを嫌ったのか。
押し込まれる力で距離を取り、月背は地面に轍を刻む。僅かに吊り上がる口角に喜色を滲ませ、反撃を心地よいとすら謳うように。
一方の加古川は拳に刻まれた斬撃の跡を気に止めることもなく、ただ見開かれた双眸を以って男を凝視する。感情の抜け落ちた無の表情は、一級冒険者として想像にも及ばぬ経験を蓄積した月背でなければ後退りの一つもしそうな程に。
少年の左手が、スターターへと伸ばされる。
「こうなりゃ出し惜しみは抜きだ……とことんやってやんよ」
「我はそれを所望している」
素早く引かれる数は二度。
途端、唸りを上げるエンジンが一層激しく音を掻き鳴らす。
何度もアクセルを踏み抜いて急速に温めるにも似た不安定な唸り声は、白熱化する放熱フィンと相まって正常な動作とは言い難い。のみならず、常ならばフィンからのみ発せられる白煙がフレーム全体から噴出し、加古川の肉体をも熱を以って歪めた。
「
尋常ならざる熱量に彼自身も痛苦を覚えているのか。汗が滴る側から気化していき、奥歯を噛み締めた表情はやせ我慢とも評せられた。
自壊すらも連想させる状況を前に、剣聖は一層に笑顔を口端に刻みつける。
「良き、良き……実に良きッ。
性は月背、名は勝児ッ。一級冒険者としての字名は剣聖、我が刃の錆となれッ!」
「勝手に喚いてろ、才能マンッ。
外側冒険者の加古川誠ッ。テメェもそこのガキも吹っ飛ばしてやるよ!!!」
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