第17話 重なる世界(5)

『書誌も内容もわからない本だ。エーテルキャットには頼れない。エーテライズしながらその場で全てを見て、覚えろ』

 右手に日記帳を、左手にイツカを抱え、トワはエーテライズを始めようとしていた。イツカは緊張して手を震わせるトワに語りかける。

「そんなこと――」

『できる。頭で覚えるんじゃない。俺を使え。お前が見たものを俺の中に刻め』

「だいじょうぶなの?」

『この身体は覚えることにかけちゃ、人の身体よりよっぽど優秀なんだぜ』

 心配するトワにイツカは笑ってみせる。

 見たこと聞いたこと、その記憶をこの本の身体に刻み付けること。それはイツカにとって最も得意なことであり、そして生き甲斐でもあった。

「……わかった。やろう!」

 覚悟を決めたトワはイツカを強く握りしめる。イツカもその感触を確かめ、頷く。トワにだけわかる合図だ。

「にゃ!」

 そしてそんな二人に応えるようにデューイも気合を入れる。


解本リベーレ!」

 トワの声と共に右手に握られていた日記帳から青い粒子が立ち上り、ゆっくりとその手から離れ、中空へと浮かんでいく。

 そして螺旋を描くようにその本体も青い糸状に解けていく。

「!」

 直後、トワは浮かんだ日記帳を見上げて息を飲む。

 頭の中にその内容が流れ始めてきたのだ。

 もちろん今までもエーテライズの時にはいつも感じていたことであったが、それもエーテルキャットのバックアップがあった上でのことで、最初から戻すべき姿が用意されている本と、それが自分の裁量一つで決まってしまう未知の本では、緊張感がまるで違った。

『びびるな。俺も見てる』

 それはその手からもイツカに伝わっていた。

「うんっ」

 トワは頷くとゆっくりと目を閉じて、頭の中に流れてくるイメージを捉える。


 それは一人の男の闘病の記録であった。

 彼は不治の病に侵されていた。

 日記は医師からその宣告を受けた日から始まっており、家族にも言わず一人苦悩と葛藤の日々を綴ったもので、トワにはその内容を理解するにはまだ幼すぎた。

 だが彼がどんな気持ちでそれを書き続けたのか、それは日記に刻まれた文字の筆跡、筆圧から紙に残った汚れや匂い、埃、空気、その日記を構成する全てが物語っていた。


 そして濡れてしまった原因を特定し、それを分離、あるべき本の姿に再構成する。

時間タン――」

 トワはすっかり青い粒子、エーテルに分解された日記を再び綴じ始める。

空間エスパス――」

 粒子の波はトワのかざした手に収束していく。

「ほう」

 キクヲは目を見開いてその様子を見守る。。

 だが、エーテルの波はトワの手の平の上で渦巻くばかりで、いつまで経っても元の本の形には戻ろうとしなかった。

「どうしてっ――」

 トワは困惑して手を震わせる。このままではいずれエーテルは霧散し、日記は永遠に失われてしまう。

『さっきも言ったろ。時間と空間、そして書誌情報の結びつきがまだ出来ていない。それらを繋ぐものが必要だ』

「なんなのそれ!」

 トワは必死に手に力を込め、エーテルが解けないように抵抗する。しかし努力虚しくどんどん解けていってしまう。

『それは……』

 だがイツカもそれが何なのか答えられなかった。いや思い出すことができなかった。ただトワと自分の二人でやればどうにかできるはずだという根拠のない確信だけはあったのだが――

「もうむ……」

 集中力の限界が訪れ、トワが手を閉じてしまおうとしたその時――

「あきらめんじゃねえ!」

 不意にキクヲがトワの肩に手をかけて叱咤する。

「!」

『!』

 その瞬間二人は理解した。このエーテライズに必要な最後のピースが何であったのかを。

記憶メムワール!」

 二人はそれを一緒に唱える。

 解けかけたエーテルは再び収束していき、やがて元の――いや新たに作り変えられた日記帳の姿となっていく。

結本リエル!」

 そしてトワの仕上げの一声と共に、ぽんっと音を立ててその手の上にゆっくりと落ちた。



 すっかり夜も更け、まだ降り続ける雪が外のアスファルトに薄く積もり始めた頃。

「クオンちゃんもうすぐ迎えに来るってよ」

 店仕舞いの準備を終えたキクヲが最近新しくした電話の受話器を置くと、畳の上に座りながら二人に声をかける。

「……すぅ」

 トワはこたつの横で眠っていた。デューイもその隣で丸くなって眠そうに瞬きしている。

「疲れちまったか。無理もねえか」

 キクヲはトワの上に毛布をかけて優しく目を細める。

『――それで、息子さんの行方の手がかりは何か書いてあったのか?』

 こたつの中に足を入れたキクヲに、イツカが尋ねる。

「おめえも『見た』んだろ? 御察しの通り何にもわかりゃしねえよ」

『……そうか』

 日記は特別な締め括りもなく、いつもの日常の記録の日を最後に終わっていた。

 だがその翌日に彼は失踪し、書斎の机の上に遺された日記帳は、開け放たれたままの窓から吹き付ける豪雨によって濡れ、開くことのできない姿になってしまった。

「しかしトワちゃんは何で急にエーテライズできるようになったんだ?」

 キクヲはこたつの上のミカンの皮を剥き始めながらイツカに尋ねる。

『……万物流転。エーテライズの真髄はそこにある。いやあったんだ。ようやく思い出せた』

「どういうことだ?」

『どんなものも常に変化を続けている。生き物はもちろん、そうでないものだって絶えず変化をしている。それは過去から今、今から未来へと続く糸に引っ張られているようなものだ』

 イツカは一つ一つ再確認するように言葉を選んでいく。知っていたことを思い出すように。

『エーテライズはその糸を解きほぐし、手繰り寄せて編み直すことに他ならない』

「つまり本の過去の情報、記憶が必要ってことか?」

『ああ、あんたがトワの肩に触れたことでその日記帳の記憶がはっきりした』

「けど俺がこの日記帳のことを知ったのはあいつがいなくなってからだぜ? 思い出や記憶なんてありゃしねえよ」

『言っただろ? 過去から今、今から未来へと続く糸だって。よく見てみな』

 イツカの言葉にキクヲは怪訝な表情を浮かべて日記帳を開く。

「うん? もしかして、こいつぁ――」

 そして気がついた。日記帳にはまだいたるところに雨水によってできたシミや汚れ、紙のへこみが残っていることに。

『過去の濡れる前の姿に戻したんじゃない。新たな今の姿に編み直したんだ』

「そりゃ一体?」

『わかんねーか? 本当に必要だったのは過去でも今でもない、未来の記憶――こうあってほしいという願いのようなものが必要だったんだよ』

「ふぁ……?」

 そこでトワが目を覚まし、寝ぼけ眼で二人の話に小首を傾げる。

『こいつがそこまで理解してやれたかは怪しいけどな』

「……そうか」

 イツカの小馬鹿にした、だが満足げな言葉に、きょとんとした顔をするトワ。それを見てキクヲはようやくこの二人が答えを見つけたことを理解した。

「夢を見た――」

 トワは日記帳をぼんやりと見つめながら呟く。まだ寝ぼけているようだった。

「この日記を書いた人が女の人と小さな女の子と一緒にいる夢。キクヲおじいちゃんもいた。みんな笑ってた」

「!」

 キクヲは目を見張る。

『日記帳の記憶――いやもしかしたら未来の記憶、かもしれないな。糸を手繰り寄せて未来まで見ちまったのかもしれない』

「俺が、それを願ったと?」

『この日記帳に関わった人間全てが、な』

「ふぁあああ」

 トワは二人の会話の意味もわからず大きく欠伸をすると、もそもそと身体をこたつの中に滑り込ませる。

『コツは掴めたか?』

「……うーん」

 イツカの問いにトワは朦朧としながら応える。

「……イツカ、くんは、わたしが……かならず……」

 そしてごにょごにょと夢見心地で呟きながら、再び眠りに落ちた。

「にゃー」

 デューイはそれに応えるかのように小さく鳴くと、同じく再び身体を丸める。

『やれやれ……』

 イツカは呆れて溜息をつく。だがその声には喜色が混じっていた。


「まあ、ありがとな」

『うん?』

 キクヲが照れ臭そうにもごもごと小さな声で呟く。

「とりあえずあいつが生きてるらしいってことはわかったんだ。それだけでも十分だ」

『……そうか。でもどうしてこれを直すのをトワに頼んだんだ? 下手すりゃ――』

 失くなっていた。唯一の手がかりが。

「さあな。何となく任せていい気がしただけだ。それにケイちゃんに昔言われたことを不意に思い出したんだよ」

『母さんが?』

「最後に来た時、別れ際に言ったんだよ。もし近い未来、何か困るようなことがあれば、小さな魔法司書さんに頼んでみてね。ってな」

『……』

 イツカはその予言じみた言葉が本気なのか冗談なのかわかりかねた。いや本気の冗談に違いない。昔から母の言うことはふざけていて、そして真実だった。

 それは先のエーテライズの時に自身に刻まれた新たなコードによって確信できた。そして思い出した。母が目指したもの、それが何であったのかを。


『神の目録――』

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