魔法と銀の法案編

#29「法律とシリウスの輝き -司法-」


 ルイ殿下の件が一段落し、ほんの少しだけ平穏が戻ったある日のことだった。


 午後の講義が終わり、書庫へと向かおうとした俺は、渡り廊下の途中で背後から呼び止められた。


「アルセーヌ、少しいいか」


 名を呼ぶ声に振り返ると、石造りの回廊に、冷ややかな銀の光が差していた。


 そこに立っていたのは、イヴェール・ド・ネヴェール――侯爵家の御子息にして、魔法省大臣の御曹司で知られる初等部の生徒だった。


 その髪は雪のように白く、しかし冷たい印象ではない。わずかに青みを帯びた銀糸が、清廉さと静謐を湛えている。肩に届くほどの長さを丁寧に後ろへ流し、耳元できちんと整えられているのが彼らしい。


 制服の着こなしにも隙がなく、タイの結び目は左右対称に締められ、学年章は磨き上げたように光を反射していた。


「私に、何かご用ですか?」


 そう尋ねると、彼はわずかに視線を逸らし、ためらいがちに口を開いた。


「……相談というか。話を聞いてほしいんだ」


 けれど、何より目を引くのはその瞳だった。透明な――まるで雪原の空気を閉じ込めたような、淡く冷たい灰みがかった青――透明なアイスグレーとも、薄氷のような色とも言える。


 視線は穏やかだが、芯に確かな意志を帯びていた。睨んでいるわけではない。


 だが、その目で見つめられると、自分の中の曖昧な部分が暴かれるような、そんな感覚に襲われる。


「……大抵、そういう呼び止め方をされると、ティア様にお繋ぎすべきかと悩むのですが」


 苦笑気味に返すと、イヴェールは少しだけ表情を歪め、気まずそうに吐息を漏らした。


「……いや、そこまでのことではない。君も伯爵子息だろう?」


 その声音には、わずかながら迷いが滲んでいた。


 もっとも、侯爵家の名を背負う彼が、わざわざ“伯爵家の子息”を頼るというのは──たいてい、厄介事の予感である。


 内容によっては、彼女の耳に入れておくべき話題かもしれない。だが、彼自身がティア様を呼び出すには気が引けると判断したということは──つまり、かなり面倒な火種ということだ。


「……わかりました。場所を変えましょうか」


 そうして案内されたのは、中庭に面した静かな回廊のベンチだった。ちょうど午後の木漏れ日が差し込む、人気のない一角。話をするには、うってつけの場所だった。


「それで、ご相談というのは?」


 イヴェールは軽く息を吐き、一拍置いてから口を開いた。


「……使役魔法のことで、少し妙な噂を耳にしたんだ」


 使役魔法しえきまほう。それは、対象に簡単な命令を与える初歩的な魔法だ。通常は小動物や精霊といった、“すでに契約を結んだ対象”にのみ使用が許されている。


 だが、どうやらそれを“人に対して使えるよう応用しようとしている者”が現れたらしい。


「使役魔法を……人に? それは明確に規定違反では?」


「……そう思って調べてみた。でも、学園の規則には“人間への使用を禁じる”という明文がないんだ。せいぜい“倫理的に不適切”とあるだけで、罰則も曖昧で……」


 そのあたりで、なるほどと察しがついた。


 つまりこれは、曖昧な規則の隙間を突こうとする者の出現──火種だ。


「誰かが、それを本気で試そうとしているのですか?」


「……どうやら、上級生のひとりが“催眠魔法”と称して試作を始めているらしい。それに影響されて、初等部の生徒たちも興味本位で真似を始めていて……僕が注意しても、“違法じゃない”の一点張りなんだ」


 その眉間に、はっきりと苦悩の皺が刻まれていた。


 怒っているのではない。困っているのだ。


 きっとイヴェールは、注意する際も相手を傷つけないよう言葉を選び、穏便に収めようとしたのだろう。だが、根拠を欠いた言葉は“正しさ”を伝えるには弱すぎる。そして彼は、それを痛いほど理解しているのだ。


「僕は、“それは間違ってる”って、ちゃんと伝えたい。でも……“何を根拠に?”って問われると、言い返せなくて……」


 その声が、わずかに震えていた。


 彼は貴族の名に恥じぬ誇りと矜持を尊ぶ。その誇りがあるからこそ、口にする言葉に責任を持とうとするのだ。


 ──なるほど。


 これは、悪くない素材だ。


 もっとも、俺が興味を持ったのはその精神性ではない。


 この状況を利用すれば、「条文に明記されていないリスク」を精査し、「使役魔法と契約魔法の法的境界線」を明確化できる可能性がある。


 それによって、曖昧なまま放置されてきた初歩魔法の運用基準が見直されれば、下級生の安全管理にも役立つ。


 つまり、これはただの“倫理問題”ではなく、明確に“制度設計の隙”を突く事案だ。


「……なるほど。倫理的な是非だけでは、説得には至らないわけですね」


 イヴェールは小さく頷いた。


「……君なら、どう言う?」


「おそらく、“危険性の定量化”から始めると思います。人間を対象とした命令系統の魔法は、脳の演算領域に直接作用する可能性が高く、過負荷や精神侵蝕のリスクを伴います。法的な規制が未整備でも、“被害が出れば責任は使用者にある”ことを示せば、試用に対する抑止力になるでしょう」


 言いながら、俺は懐から携帯筆記具とメモ帳を取り出し、端から論点を書き出していく。魔法の技術的構造、契約条件の分類、対象の同意要件、暗示魔法との異同、人体への干渉レベルの違い──書き出すほどに、議会提出用の論文に発展させられそうなテーマだと実感する。


 イヴェールが俺の手元を覗き込み、小さく息を呑んだ。


「……そんなふうに、すぐ考えを整理できるんだな」


「いえ。いつもは、この倍は時間がかかります。イヴェール様が論点を要約してくださったおかげです」


 そう返すと、彼はきょとんとした表情を浮かべた。


 どうやら、自分がすでに筋道立った相談をしていたことに気づいていなかったらしい。


 ──だが、それでいい。


 自分が知らず誰かの助けになっていたと気づいたとき、人はほんの少しだけ、自信を得るものだ。


 この手の火種は、どこかで必ず爆発する。だが、だが、それを誰が鎮めるかは、最初に声を上げた者の覚悟次第だ。


 俺が代わりに対応してもいいが──彼がその手で火種を握り、きちんと処理するなら、それはそれで悪くない。


「念のため、ティア様にも共有しておきます。ただし、名前は出しません」


「……ありがとう」


 彼の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。


 光に透けるような薄く透明な青灰色の瞳。その奥に、静かな決意が宿っている。


 ティア様の周囲には、無自覚に“光”を持つ人間が集まる。


 そのひとりに、彼もまた、確かに含まれているのだと──そう思った。

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