#21「24時間働けますか?」
「おはようございます、ティア様。朝のお支度のご準備が整いました」
朝の陽が、東の回廊から柔らかく差し込む。
銀の縁取りが施されたティーセットが静かに並ぶ傍らで、俺は筆記具を手に、執務机に向かっていた。
──専属執事として迎える、初めての朝だ。
「……うん、ありがとう、アル。なんだか今日の挨拶、すごく……元気だね?」
「本日は執事としての“初陣”ゆえ、気を引き締めております」
ティア様の専属に任命されてから、この一週間はその準備と研修に費やされた。部屋の家具配置や動線の確認、食事や休憩の時間管理。書簡の整理、提出書類の分類、優先順位の見直し。
あらゆる状況を想定し、想定し、さらに想定して──今、万全の状態でこの朝を迎えている。
すべてが整っている。どんな事態が起きようと、すぐに対処できる──そう信じられるだけの準備を積み上げてきた。
緊張などない。ただあるのは、緻密に構築した予定と、それを支える自信だけ。
「そう……でも、あんまり気を張りすぎて、お腹痛くなったりしないようにね?」
「そのような不調は一切ございません。むしろ、快調そのものです」
「……それなら、よかった、わ?」
ティア様は小さく笑って、執務机へと歩み寄る。
彼女の机には、既にその日の学業と執務に必要な資料が整えられている。授業の予習、課題、返信待ちの書簡、そして午後に控えた謁見の資料まで──すべて分類済みだ。
「わ……すごい、もうこんなに。でも、これ……午前中に終わる量じゃないよね?」
「すべてポモドーロ単位で区切り、負荷の偏りがないよう時間割を最適化しております。午前は基礎学習に集中し、午後は休憩を挟みつつ読解課題と執務に移行する流れです」
ティア様は驚きと感嘆の入り混じった表情で資料を眺めている。
いい流れだ。表情も柔らかく、朝から順調な滑り出しと言ってよかった。
そのまま邸内を巡回する。業務指示を埋め込んだ予言の魔法陣は、昨夜のうちに俺自身が更新を済ませておいた。今朝は既に、使用人たちの手で多くの作業が終わっていた。
「おはようございます、アル様」
執務係の一人がすれ違いざまに丁寧な挨拶をくれる。
「おはようございます。進捗に問題はありませんか?」
「はい、むしろ……本日分の業務が、ほとんど完了しております」
「それは素晴らしい。午後は清掃と文書整理を中心にお願いします」
「……えっと、アル様は、まだお仕事が?」
「ええ。五分の休憩を挟んだ後、予備文書の分類、厨房の備品確認、魔力量測装置の調整を行います。その後はティア様の読解課題支援、予定調整、夜には日報の記録と──」
「そ、そうですか……。くれぐれも、お身体に気をつけて」
使用人はわずかに眉をひそめ、戸惑ったように肩をすくめて背を向けた。その背中に、微かに困惑がにじんでいる。
……おかしい。何か気を悪くさせただろうか。
その違和感が、昼前にはっきりとした形になる。
昼食後、執務室に戻ったティア様がじっと俺の顔を見つめる。
「ねえ、アル。なんだか今日は、いつも以上に楽しそうね?」
「……え?」
「ふふ、顔に出てるよ。はしゃいでる、みたいな? 多分、みんなもそれでちょっとびっくりしてるのかも」
楽しそう──俺が?
そんなつもりはなかった。これは仕事だ。初めての執事業務で、万全を期して、最適化して、完璧に仕上げて……。
……でも。
使用人たちの困惑と、ティア様の穏やかな視線を思い出して、ふと我に返る。
「……はしゃいでるように、見えましたか?」
「うん。でも、悪い意味じゃないよ? アルがうれしそうだと、わたしもうれしいもん」
──そうか。これが、嬉しさというものか。
この役目を任され、必要とされ、そして応えられているという実感。
頬の奥がじんわりと熱くなる。
「では、午後は少し肩の力を抜いて過ごすことにします。ちょうど、学園長からのお手紙が届いておりますので──この謎解き、いかがですか?」
「もちろん! ……わたし、あのお手紙、好きなんだ」
最近、学園長からは定期的に手紙が届くようになった。形式上はティア様宛だが、内容は高度な魔法理論を詩のような文体に織り交ぜたもので、俺が傍で読むことを前提としている。
“魔法とは、形ではなく意味である”。
そんな言葉から始まる詩的な一節。抽象的な文面の中に、術理の根幹を揺るがす問いかけが隠されているのだ。
手紙といえば、大商会の会長も、最近は頻繁に公爵邸へと足を運んでいるらしい。
ボナパルト領で始まった貨幣換算術式は、今やマルセイユ領に拡張され、王都での制度化を目指す法案まで進行しているという。
……あれ。やっぱり、これは──
「……やり過ぎ、だったのかもしれない」
父の言葉が、脳裏の隅でふと反響する。だが──すぐに優しい声がその思考を遮る。
「アルが正式にわたしの執事になってくれて、本当にうれしいよ」
窓辺で微笑むティア様の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
──そうだ。たとえ少し先を急ぎ過ぎていたとしても、この方の役に立ちたいと思った気持ちは、決して間違いではない。
「ありがとうございます。ですが、まずは五分の休憩を頂いた後──」
「アル?」
「……はい。午後の読解課題は、“お茶を飲みながらゆっくり”でも構いませんか?」
「うんっ」
そんなやり取りのあと、静かな午後が始まる。
陽射しは穏やかで、空気はどこまでもあたたかい。
俺はほんの少しだけ肩の力を抜いて──午後の時間に向き合うことにした。
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