#17「港の潮騒と魔法陣アルゴリズム -負債-」
「おや、お坊ちゃん。珍しいじゃねぇか、こんなとこまで来るなんて」
ボナパルト伯爵領に滞在して、数日が経った。
市場の朝はいつも通り賑やかだった。
柔らかな陽光が路地に差し込み、潮風と共に魚の干物や焼き立てのパン、東方の香辛料が溶け合った芳香が通りを包み込む。
言葉も、衣装も、肌の色も異なる人々がすれ違い、果物を見定めたり、香辛料の量を交渉したり。この多国籍な空気こそが、ボナパルトという港町の日常だった。
声を掛けてきたのは、通り沿いで長年果物屋を営む親父さんだ。日焼けした頬の皺が、笑うたびに柔らかく深まる。
「おはようございます。今日は少し、町の様子を見て回ろうと思いまして」
「なるほどな……だったら、見とくといいぜ。今のボナパルトは、なにせ“ごちゃまぜ”だからな」
彼はブドウを袋に詰めながら、隣の屋台を顎で指し示した。木箱に並ぶ果物の横には、三種類の値札が掲げられている。東の銭、西方銀貨、そして王都の新鋳貨。すべて、同じ品に対する異なる通貨での価格だった。
「客によって使う通貨が違う。今じゃ三十種類近くあるって話だ……こっちはその場で換算してるが、正直、損しない程度でどんぶり勘定さ。いけねぇのは分かってるがな」
そう言って肩をすくめた親父さんに、俺は小さくうなずく。
当然だ。商売の最前線に立つ者が、その不便さに気づいていないはずがない。日々、目の前の客に対応しながら、利益を確保し、家族を養っている。俺の何倍も現実を見つめ、研ぎ澄まされた感覚で判断しているのだ。
「そんな暇もねぇのさ。目の前の売買で手一杯よ……俺らがもっと賢けりゃ、違ったかもな」
その言葉に、責めや諦めの色はなかった。ただ、少しだけ遠くを見るような声色だった。それでも、彼らのような人々の手によって、今のボナパルトが支えられている。
通りを離れながら、俺は思う。人の手に、心に、どこまでの負荷を強いてしまっているのだろうか──と。
屋敷へ戻る道すがら、潮の香りに代わって、徐々に熟れた果実と薬草の甘やかな香りが混じっていく。思考は自然と、これから向かう報告書の山へと移っていた。
「おかえりなさい、アル。もうお仕事だったの?」
母が整えてくれた書類は、執務室の長机の上に丁寧に揃えられていた。
「ええ。少しだけ、町の様子を見てきました」
「まぁ、偉いわね。お父様のお手伝いかしら?」
微笑む母の声は、穏やかで柔らかい。春の風のような香りを纏っていて、思わず背筋が和らぐ。
「ありがとうございます、お母様。とても助かります」
頷いた俺に、母はふっと顔をほころばせて手を伸ばした。撫でられると悟って、思わず身を引きかけたが──今度はその手を受け止めた。
あたたかく、優しい指先が額に触れる。
「……ふふ。いい子ね」
目を細めた彼女が、くすりと笑った。
「お父様は書斎にいらっしゃるわ。あなたのために、たくさん資料を揃えてくださったの」
「ありがとうございます。……すぐに伺います」
母の微笑みを背に、俺は静かに歩き出す。報告書を携え、父の待つ書斎へと向かう。
書斎はいつもと変わらぬ整然さだった。重厚な扉の向こう、机の上には更なる資料が山と積まれている。
その一つひとつに目を通しながら、思考が少しずつ形を成していく。
──税収は安定して伸びている。交易船の往来は増え、他国との交流も盛んだ。それなのに、収められている税金は、人の出入りに比してわずかにとどまっていた。
銀行の記録は手書き。
これは制度の問題ではない。むしろ、これだけの複雑な流通が破綻せずに回っているのは、人の力による奇跡だ。
だが──限界はある。
「つまり、富は流れているのに、正しく“受け取れて”いない」
その原因が“制度”ではなく、“処理の仕組み”にあるとしたら。
「ただの計算じゃない。変動に応じて、最適な換算を導き出す。自動で、正確に、迷わずに」
それができれば、ボナパルトは次の段階へ進める。混沌を整理し、チャンスを正しく掴み取る未来へ──。
「視察は、どうだった」
机の向こう、書類をめくっていた父が顔を上げる。まっすぐな問い。誤魔化しは利かない。
「収穫はありました。問題も、課題も、山のように」
資料の一部を父に差し出す。そこに並ぶのは、港の出入り記録と税収の推移。その違いに、父もすぐ気づいたようだった。
「……これは……通貨の違い、為替の遅れ、そして処理の非効率。つまり、制度ではなく、“道具”が追い付いていないと」
「はい。今のボナパルトを支えているのは、現場の人々の優秀さです。けれど、それに見合う手段が、まだ整っていない」
言葉に迷いはなかった。
「ですから、もしその解決策を実現できれば、今よりもずっと正確に──そして公平に──価値を見極められるようになるはずです。どんな通貨を誰が持ち込んでも、“同じ価値”を読み取れる世界へ」
沈黙が落ちる。父はしばらく視線を外さず、俺を見つめていた。
やがて、ひとつ息を吐く。
「……つまり、“人の優秀さ”に“道具が追い付いていない”と」
「はい。可能性があるなら、試したい。だから──」
もう一歩だけ、父の机に近づく。
「少しだけ、時間をください。この街の“勿体なさ”を、“価値”に変えるために、どうか……私の手で、挑戦させてください」
父は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。任せる。ただし、“結果”で語れ」
言葉の重みが、俺の肩にのしかかる。けれど、その重さは不思議と心地よかった。
これは「任された」重さだ。自分の意志で選べる、未来の余白だ。
俺は深く、礼を取った。
「必ず、形にしてみせます」
ボナパルトの町はまだ、成長できる。
この混沌を、正しい流れへと導くために。俺の演算式が、その一助となるのなら。
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