私の想いの行き先は

鞠のはなし ①-A

「……倉敷くらしきさん?」


 思わず声をかけた。相手は数歩通り過ぎた先で立ち止まる。振り返る時、肩にかかる横髪が揺れてブルーのインナーカラーが覗く。サブカルチャーの街に馴染む個性的なヘアカラーだ。人違いだったか。行き交う人々は立ち止まる私たちを一瞥いちべつし、何事もないように歩き去る。


「誰ですか?」


 彼女は答えた。どこか冷ややかな透明感のある眼と視線が交わる。気温は三十度を超えているというのに、汗ひとつかいていない。真夏日の外気温が、何度か下がったような気がした。倉敷さんだ。セーラー服を校則通りに着ていたあの頃から半年も経たないうちに、ずいぶん雰囲気が変わっている。しかし、卒業してから何度も思い返した涼感ある美貌は間違えようもない。倉敷さんの声はかつてと変わらず、透明な弦を正しく鳴らしたように、繊細と緊張が同居していた。


「私、遠野鞠とおのまりです。覚えてないかな? K高校の……」


「すみません、急ぎますから」


 彼女の眉間に力がこもる。きびすを返す彼女を追いかけることもできず、かといって目的地へ歩き出すこともできない私は、その場に立ち尽くす。


『何かあったら力になるから相談してね』


 私が倉敷さんと交わした言葉は、ただのそれだけだ。もう三つ編みではなくなった軽やかに揺れる黒髪の内側には、私の知らない夜の海のような青が広がっているのだ。やがて倉敷さんの姿は、完全に見えなくなった。



**********



 昨春、大学を卒業した私は、女子校である私立K高校に赴任した。倉敷一葉くらしきかずはという三年生の生徒は、K高校の有名人だった。彼女が生徒会長をしていたから、というのが一つの理由だ。しかし漫画の世界ならともかく、現実の学校で生徒会長というのは意外と生徒から認知されていない。


 彼女には肩書だけでない校内の有名人たりうる要素があった。試験は全科目トップで運動神経は抜群、そして見目麗みめうるわしく、どこか冷ややかな透明感のある美人だった。同語反復的に言えば、彼女がフィクションの生徒会長のように全校生徒に人気を博していたのは、彼女の存在がいかにもフィクション的だったからなのだ。彼女自身の言葉少なな性格もあり、倉敷さんはどこか神格化されたような扱いを受けていた。彼女は長い黒髪を丁寧な三つ編みにまとめていて、私はそこに優等生らしい几帳面な性格を感じ取りながらも、どこか幼い印象を受けたのを覚えている。


 倉敷一葉の母親というのも、生徒の間でどうだったかはわからないが、職員室では有名人だった。彼女は週に一度は学校に電話をかけてくるか、学校を訪ねてくるかして、その度に娘のクラスの担任である三原みはら先生を呼び出した。対応を終えた三原先生はいつも、自席で憔悴しきったように天井を眺めていた。


「授業のレベルが低いって、そりゃそうだろうよ。最初から、おたくの娘のレベルがうちの学校に合ってないんだから」


 彼がぼやく通り、大手予備校の主催する全国模試で上位百位に入るような生徒は、明らかにK高校のレベルに合っていなかった。それは当時、教師一年目の私にもわかるほどのミスマッチだった。


「倉敷さんは何故うちの高校に来たんでしょう」


 誰かがそう尋ねると、三原先生は唇の片方を歪めて吐き捨てるように答えた。


「母親がうちの卒業生なんだと」


 倉敷さんの母親を、一度だけ校内で見かけたことがある。倉敷さんと二人並んで生徒玄関へ続く廊下を歩いていた。オレンジと紫を混ぜたような夕日で、過剰に立体感を演出された三つ編みがふたつ、並んでいた。二人は逃れようもなく母娘おやこなのだと、その時思った。


 彼女は九月に生徒会長の任期を終え、今年の二月に最高学府と名高いT大学を受験した。K高校からは合格者はおろか、受験者すら久しくいなかった大学だ。誰も、彼女がT大学を受けることに反対しなかった。反対などするはずがなかった。教職員は、今後いつ聞けるかわからないT大合格の報告を心待ちにした。


 そして、彼女はT大学に落ちたのだ。



**********



 この場所は私に全く向いていない。ライブハウスに初めて足を踏み入れた私は、すぐにそう感じた。いや、踏み入れる少し前、地下へと続く薄暗い階段を降りている時からそんな気がしていた。ライブハウスは「ショコラ」という可愛らしい名前でありながら、アンダーグラウンドな空間であることを隠そうともしていない。音楽に疎い私が素人の奏でる音を楽しめるはずもなく、常に何かしらの音が破裂的に、金属的に鼓膜を揺らしている環境では、考え事もままならない。やはり誘いは断るべきだった。昼間にかつての教え子とわずかな言葉を交わして以来、騒つく心は落ち着かないままだ。沙梨さりに一声かけて帰ろうかとも思ったが、彼女はステージの上で演奏しているか、客席のバンド仲間と思しき男女と談笑しているかで、割って入ることは憚られた。教職課程を共に乗り越え、学生時代には「さりまり」なんてセット扱いされたこともある親友を半ば無理やり誘い、フォローなしとは。その薄情さは忌々しい。


 アルコール飲料の提供があったのは救いだった。何杯かお酒を入れると、ささくれだった感情は丸みを帯び始めた。周囲の騒々しさが、かえって内面を静めてくれる。氷がいっぱいに入った三杯目のラムコークが汗をかきながらぬるくなっていくのにあわせて、私は現在と過去の淡い境界を漂い始めた。


 かつての教え子か。そんな呼び方は烏滸おこがましいかもしれない。私は倉敷さんの担任でもなく、授業を持ったことさえない。


『倉敷なら来年は受かるんでしょうけど。それにしてもこうなっちゃうと、何のためにあの母親の面倒見たんだかって感じ』


 倉敷さんのT大不合格を知った三原先生の言葉を思い出す。職員室に「受験も最後は運」という教訓めいた空気が流れ始めていたところだった。三原先生は周りの空気から、さすがに失言だったと気がついたのか


『いやぁ、来年は頑張ってほしいね』


 と不必要に明るく言った。私は少なからず失望した。三原先生にも、「確かに」と苦笑した何人かの先生にも。


 倉敷さんは、「高い確率でT大に合格する女子生徒」でしかなかったのかもしれない。パンダはパンダでさえあれば十分なのと同じように、彼女はそうでさえあれば十分だった。倉敷さんが倉敷さんである必要はなかった。そして、神経質な母親の相手をするのは、そのための必要コストでしかなかった。周りも、それを口にするのは憚られても、おそらくは同じなのだろう。失言ではある。でも、気持ちはわかる。ということだ。


 もちろん三原先生の思いとて、そんなに単純なものであるはずがないのはわかっている。それでも私にはそうとしか思えなかった。


 彼女は今、どうしているだろう。曲が終わり、やや物足りない密度の拍手が鳴る。沙梨と目が合い、仕方がなく手を振ってやる。


『娘はT大に行きますから、必要ありません』


 滑り止めの大学を受験しては、と勧めた三原先生に倉敷さんの母親はきっぱりと答えたらしい。その場面を想像しようとすると、そこにはいつも母が現れる。私の母が。


『娘は大学には行きません』


 アイボリー調の細長い箱みたいな面談室。仮設住宅を思わせるチープな椅子と机。まっすぐに固定された母の視線は、毅然とした決意というよりも、他のものは見ないという意思表示に見えた。他人の人生を勝手に決めるというグロテスクさから目を逸らしているのか、それとも娘とは母にとっては他人でなく自分なのか。


 私なら倉敷さんの気持ちをわかってあげられるのかもしれない。そんな思いが常に頭にあった。しかし教師一年目の私には、自発的に特定の生徒にどこまで踏み込んでいいのかわからなかった。

 もしも、何かの偶然が重なって彼女のクラスの授業を持ったら。もしも、彼女が私に助けを求めたら。そうしたら、必ず助けになってあげよう。

 そして、そんな「もしも」は起こらなかった。


 エネルギッシュなハイトーンボイスが響き渡り、現実に引き戻された。わずかでもバランスの調整を間違えれば、金切声かなきりごえとも呼べそうだが、そこにあるべき耳障りな不快感は丁寧に取り除かれている。派手な柄のシャツと、照明に照らされて輝くふわふわと癖のある金髪が印象的だ。沙梨のバンドではない。女の子なのだろうが、どこか外国の少年のような雰囲気もあった。ほろ酔いしたように揺れる力の抜けた歌い方をしながらも、大事なところで響かせる。歌の巧拙はわからないが、魅せ方のうまいボーカルだと思う。

 もう一杯飲もうか迷い、バーカウンターを振り返る。バーカウンターのかたわらで女の子が一人、壁にもたれていた。ステージ上を見つめる目が静かに私の方へ向く。カラフルな照明を跳ね返す瞳が、こちらを向くまでの間に緩慢に光を失った。「あっ」と私が声をあげるのと、倉敷さんが出口の方へ歩き出すのはほとんど同時だった。


 慌てて彼女を追いかける。何を話すというのだろう。彼女はついさっき、私を覚えていないと意思表示していたではないか。彼女は振り返ることなく、ライブハウスの扉に手をかけていたが、重たい扉に苦労しているようだった。追いついた私は扉に手をつく。


「外出る?」


 彼女は扉に目を向けたまま答える。


「出ます」


 二人で扉に体重を預けると、途中から嘘みたいに感触が軽くなった。倉敷さんが数歩先を歩き、私もそれに続く。彼女が階段を一段上がるたびに、肩にかけた小さなバッグのチェーンストラップがシャラシャラと鳴った。見上げると褪色したデニムのショートパンツから細い脚が無防備に伸びていて、目のやり場に困る。


「どうしてついてくるんですか」


 階段を上り切って地上へ出ると、彼女は振り返った。ほの明るい夜の街の光を背景に、艶やかな黒髪に混じった青い髪が鮮やかに映える。耳に垂れ下がるいくつものピアスが星のように輝いている。


「ごめんね。ひさしぶりだったから、少し話がしたくて」


 私は四段下から彼女を見上げる。彼女は無表情に見下ろすだけだ。


「あ、倉敷さんは私のこと知らないよね。私、遠野鞠って言って去年は一年生の副担任をしていたから倉敷さんとはあんまり……」


 黙ってしまえば倉敷さんはどこかに行ってしまうような気がして、私は説明的に補足を続ける。倉敷さんはそれを「知っていますよ」と遮った。


「『何かあったら力になるから相談してね』の人」


 そう言って彼女は初めて笑顔を見せた。しかしそれは、冷たい嘲笑のように見えた。私と倉敷さんが、あの校舎で交わした唯一の会話を、彼女は覚えていた。彼女から再び表情が消える。私は口角を引き上げる。ゴムボートで急流を逆さに上るみたいに、今この場が流れ着こうとしている場所から少しでも遠ざかろうと藻掻もがいた。


「覚えていてくれたんだ、うれしいな。結局、何も力になってあげられなかったけど……」


「もうやめてください」


 ぴしゃりと言われた。果たして哀れで貧弱なゴムボートは転覆したのだ。


「私、もう卒業したんですよ。先生方とは他人です」


 彼女はひとつ息を吸い込んだ。


「というよりも最初から他人です。同じ校舎にいただけで教師面するのはやめてください」


 私に返答の猶予を与えるかのようながあった。しかし私の口から言葉は出ない。私とあなたは他人ではないと主張するだけの論理がない。彼女はもう私を見ていなかった。

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