二年後の野口マイナ

1

〈歌舞伎町みんなの相談室〉

 そう書かれた手書きの表札を玄関のドア横に飾った。

 隣にいた新宿警察署の山根さんが「これで僕たちの仕事も楽になるといいなぁ」としみじみ呟いた。


「山根!こんな所で油売ってていいのか?勤務中だろ!」

 草間さんがそう言って、山根さんの頭にげんこつをくれるポーズをした。

「そんなに怒るとお腹の古傷にさわりますよ!いやぁ、一度生死の境をさまよった人はたくましいですね!」

 山根さんは嫌味ったらしくそう言って笑った。私も釣られて笑った。草間さんはぶつぶつと文句を言いながら部屋の奥へと入っていた。

 草間さんと山根さんの関係性は微笑ましい。二人のやり取りをずっと見ていたくなる。

「それじゃあマイナちゃん草間さんをよろしくね。頑張って!」

 山根さんはそう言うと、ファイティングポーズを私に見せた。そして勤務へと戻っていった。

 私も部屋の中に入る。


 テーブルに椅子、ソファーが並べられている。誰もがゆっくりくつろげそうな空間を作った。お菓子とジュースと医薬品。それに生活雑貨、雑誌、スマホの充電器。壁にはかわいい絵が飾ってある。

 部屋の一番奥に小さなデスク。そこに草間さんが仏様のように鎮座していた。


 歌舞伎町の雑居ビルの一室。そこに草間さんが〈歌舞伎町みんなの相談室〉を今日、オープンさせた。路上売春をしている女の子たちの駆け込み寺のような施設だ。


 草間さんは警視庁を定年退職したあと、路上売春をしている女の子を支援するNPOを立ち上げた。

 積極的に街に出て女の子たちに声をかけ、なにか困っている事や悩み事はないかを聞いて回る。そこで困り事があるという子を見つけたら、相談室に呼んでじっくり話しを聞き、問題解決に向かって動くというのが支援の内容だ。

 困り事など何もないと拒否されても、女の子たちに相談室があること、誰でもいつでもそこを訪ねることができるということを教える。助けてくれる人が近くにいるということを知ってもらうだけで意味があると草間さんは言っていた。

 草間さんが警察でやっていた仕事にとても近い。警察にいても出来ることじゃないかと山根さんは言っていた。再雇用の打診もあったそうだ。でも草間さんは、警官のままだと警戒されてしまって女の子はなかなか心を開いてくれないから、こっちの方がいいとNPOを立ち上げるという形を選んだそうだ。

 

 私も最初は草間さんに心を開いていなかった。

 それでも草間さんは親身になって私の話を聞き、相談にのってくれた。そのおかげで私は立ちんぼとホストから足を洗う事が出来た。

 草間さんから紹介された団体の支援で私は准サービス介助士の資格を取り、今は老人ホームで働いている。そして、その傍ら草間さんの活動を手伝っているのだ。

 

「あの事件から二年か。早いねぇ」

 草間さんがデスクでパソコンを操作しながらしみじみと言った。

 草間さんがミズキに刺されてから、第六コーワビルからミズキが飛び降りてから今日でちょうど二年だ。

 そんな日に相談室がオープンというのも運命的というか、なにかの縁を感じる。


 「歌舞伎町、西川口連続刺殺事件」は、容疑者のミズキがビルの屋上から飛び降りて死亡という形で幕を降ろした。

 センセーショナルな事件だっただけに、しばらくはマスコミもこの事件を大々的に扱った。路上売春やホストクラブの売掛金制度も深刻な社会問題として取り上げられ、国会でも議論されたそうだ。

 でもそれから二年。ほとぼりが冷めたかのようにどのマスコミもその事を話題に出さなくなった。そして路上売春に手を染める女の子は今も後をたたない。

 私はミズキをあの時引き留めらなかったことが、被害者の命もミズキの命も奪ってしまうことになってしまったのだと今でも悔やんでいる。

 だからこそもう二度と、ミズキのような女の子を生み出さないために、私は草間さんを手伝うことを決めたのだ。


「マイナちゃん、これから見回りに行くけど一緒にどう?」

 入り口の所から部屋を眺めて物思いにふけっていた私に、草間さんがそう言った。

「すいません。今日は鬱鬱少女の武道館コンサートにこれから行かなくちゃいけなくて」

「えっ!あの鬱鬱少女が武道館でやるの?」

 草間さんはパソコン画面から顔を上げて、私を見ながら目を見開いて驚いた。

 私はその顔が面白くて思わず吹き出してしまった。

「そうか分かった。じゃあ楽しんできてね」

 そう言うと草間さんは再びパソコン画面に視線を戻した。


 地下鉄に乗って新宿から九段下へ。

 きつい坂を登って、歴史を感じさせる門をくぐると武道館が見えてくる。

 正面玄関の上部に横長の看板が掲げられていた。そこには〈鬱鬱少女ばっきゅん!武道館〉という紫色の文字が、毒々しいフォントで書かれていた。私はそれをスマホカメラで写真に納めた。

 グッズ売場でパンフレットを買い、開演を待つ間にスタンド席に座って読んだ。そこには鬱鬱少女が武道館へとたどり着くまでの紆余曲折、苦闘の歴史が書かれていた。

 やはり、あの事件のあとは苦労したようだ。メルちゃんの冠ラジオ番組は打ちきりになり、メルちゃんのテレビ出演の回数も激減した。グループの活動も三ヶ月間停止した。

 活動休止、解散の話しも出たそうだが、メンバーの直訴によってそれは回避されたようだ。

 メンバーはさらにプロデューサーにもっとポップで前向きなムードの曲を作ってほしいと直訴。それに応えるように作られた曲がまさかの大ヒットを飛ばすことになる。そこからあれよあれよいう間に鬱鬱少女は大人気アイドルとなったのだった。


 パンフレットを読みふけっていると照明が落ちて会場が真っ暗になった。コンサートが開演するのだ。ガタガタとした機械的な音楽に乗せてメンバーが出てくる。まりなっぺの「こんばんわ!鬱鬱少女です!」の掛け声を合図に『ばっきゅん!少女の抵抗』のイントロが流れ出す。客席のボルテージが一気に上がった。

 

 あっという間の二時間だった。武道館のステージでも鬱鬱少女はかっこよかった。メルちゃんも気合いの入った最高のパフォーマンスをしていた。私は感動で涙が出たほどだ。

 次でラストの曲というタイミングで、メルちゃんが「ちょっと私からお話しがあります」と切り出した。

 会場にいるファン全員が固唾を飲んでその言葉に耳を傾けた。隣の席のファンが「えっ?卒業?」と今にも泣き出しそうだ。メルちゃんはひとつ大きな溜め息を吐くと喋り出した。

「私、南雲メルは来年に公開する映画への出演が決定しました!女優デビューです!」

 客席から歓声が上がる。おめでとうという声もそこかしこから上がった。まりなっぺをはじめ他の鬱鬱少女のメンバーがメルちゃんに駆け寄り、メルちゃんを祝福した。それを見ていたら私まで幸せな気持ちになった。


 終演後、ファンでごった返す駅への道を歩きながら、本当に良いコンサートだったとしみじみ余韻に浸っていた。周りのファンは一緒にコンサートを見にきた人たちと感想を語り合っている。私もそんな仲間が欲しいな。そう思った。その時私の頭の中で、ミズキの顔がぼんやりと浮かんだ。


 九段下の駅に着いた。

 改札をくぐりホームで列に並んで電車を待っていると、私の右隣に一人の女の子が立った。スマホの画面を見るため下へと視線を移すと、視界の右端に何かがちらついた。私は横目でそれを何気なく見た。熊のぬいぐるみだった。ミズキが持っていた物とよく似ている気がした。そういえば、あの呪いの熊のぬいぐるみは今、どこにあるのだろう?処分されたんだろうか?右隣の女の子は熊のぬいぐるみを左手で大事そうに抱えていた。

 

 私は思わず右隣の女の子の顔を見た。女の子はそんな私の視線に気づいて、同じように首を振り私の顔を見た。

 知らない女の子だった。見たこともない女の子だった。私は「すいません!」と謝って再びスマホへと視線を戻した。

 しばらくすると右隣の女の子が私に話し掛けてきた。

「お姉さんひょっとしてぬいぐるみが気になってます?もし良かったら、このくまちゃんにご挨拶してもらっていいですか?」

 満面の笑顔で女の子はそう言った。

「えっ?いや……あのう……」

 突然の申し出に戸惑う私をよそに、女の子はぬいぐるみを両手で持って、ぬいぐるみの顔が私に見えるように差し出した。

 ぬいぐるみと目が合った。目眩がした。周りの景色がぐるぐると回転した。いつか味わった気味悪さが私の胸に蘇った。

 私は思わず目を閉じて、手で額を押さえた。回転が止まり再び目を開けて右を見た。そこには誰もいなかった。

 

 

 


 


 



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