第二十二話 巫覡部左府

 蒲原かんばら星辰せいしんは神童だった。

 母の胎内から出てきたときには、既に呪符を握りしめていたとも言われているその才は、齢十四にしてすでに、卜部うらべの棟梁である父の蒲原天元てんげんを超えているとも言われている。

 それが天球のすぐそばにいた。


「ご無沙汰してます。庵原いはら小父おじさん」


 敵対は想定していない。大社おおやしろに群がっていたあやかしたちを祓ったのだから、利害は一致している。


「おい。この前、会ったばかりだろう」

「おや、気付かなかったふりを通そうとしたのですが」

「いやなガキに育っちまったもんだ。だが、助かった。ありがとよ」

「どういたしまして。ところで、北辰大路ほくしんおおじの妖もそちらが?」

「そうだ」

擘浦はくら大納言だいなごん殿は、大社に陣を構えるおつもりですかな?」

「詳しくは知らないが、そうだろうな」

「なるほど。疾く父に伝えます。あ、そうそう。何やら良くないものの気配が致します故、そちらもゆめゆめ油断なさらぬよう。それでは」

「ああ、ちょっと待ってくれ」

「何か?」

「ゲンタって奴を知らないか? お前とそう年が変わらない、卯の花色の衣を着てる若者だ」

「ゲンタ殿でしたら、ここの守りにつかわされてますよ」

「分かった」


 怪訝そうな顔を残して去っていく神童を見送り、いざ大鳥居をくぐったのだが、どうにも気配がおかしい。

 人がいないのだ。正確にはいるのだが、先程までの妖の群れと対するには少なすぎる。


 雪が、真っ白な雪が石畳を暗く濡らし始めた。


 その先に目を遣ると、まばらな雪の向こうで巫覡部きねべ正永まさながが抜き身の太刀を持ち、誰かと向き合っていた。

 否。

 巫覡部きねべ正永まさながが、太刀に貫かれていた。

 太刀を持っているのは、白狐面に赤紫の狩衣かりぎぬの男。

 あの夜、庵原、左兵衛さひょうえ図書ずしょの三人を見逃した男だった。

 背後から擘浦はくらの兵士たちの足音が近づいてくる。

 目をすがめて見れば、奥の暗がりから一人、嘴状の目の下頬めのしたぼおを付けた若者がつるぎを抜いて駆けてきた。

 白狐面は左、右と一瞥して、太刀を引き抜いた。

 正永がよろけながら後ろに倒れる。

 同時、若者の剣が逆袈裟に振り上げられた。だが、その軌道から既に男は消えている。


「ゲンタだ」


 庵原が皆に聞こえるように呟き、左兵衛、図書が首肯する。

 三人はその若者を一目でそう認識した。確信すらしていた。

 白狐面が大社から走り去るや否や、振分けもしていない尼削あまそぎの黒髪を振り乱し、すぐ後を追いかけるその僅かな間に。


「あ……うぅ……。図書ずしょは……佐々木図書がそこにおるであろう。呼んでくれぬか。それと、御言女おことめ様もな……頼む」


 擘浦はくら金創医きんそういが懸命に手当てを続ける中で、巫覡部正永が苦し気に図書とカヤを呼ばんとするが、ただの金創医が二人を知るはずもない。結果、そばで様子を見守り、何かあれば利用してやろうと目論んでいた擘浦長元ながもと古江ふるえ政重まさしげに命じた。

 命じられた古江は、まずは近くにいた図書を呼び、その後に、玄武げんぶ城門付近に待機しているカヤに声を掛けに、自ら向かった。


「……お主が佐々木図書殿だったか。なるほど、良き面構えよな。そなたの万神始末草子よろずかみしまつぞうしは実に良い本だった」

「恐れ入ります」


 息も絶え絶えに白練しろねり直衣のうしを赤く染める正永を、図書はどのような気持ちで見ていたのだろう。少なくともその表情からは感情を読み取ることができない。


「もうちと、近う。耳を近う。そうだ。我はもう長うない。お主を見込んで、御言女様が御言女様足りえる噤祝の儀の秘密を話そう」


 そうして耳をそばだてて聞いていた図書が、最後に目を見開いた。


「なぜ、私に話したのですか」

「さてな。気紛れかも知れぬ。万神始末草子よろずかみしまつぞうしに嫉妬した我の」

「……左府さふ様。御言女様をお連れしました」


 ややあって、古江政重がカヤを正永のもとに連れてきた。

 赤く輝く空の下で、白い雪は少しずつ積もり始める。擘浦の兵士が盛んに薪を燃やすが、正永から失われていく温度を戻すには足りず、既にその唇に色はない。


「お、お……御言女様。よく、お出で下さった。最期にこの老いぼれが謝ることをお許し下され。白葦はくいのためとは言え、声を奪ったこと、真に申し訳ありませぬ。その年頃であれば、友と語り、家族と語り、恋を語り、春を祝い、愛をうたうこともあったでしょうに、我らは不確かな未来を恐れ、それを奪ってしまったのだ。……ここで申し上げても詮無きことなれど、我らとて本意ではなかったのだ。どうか、どうか、この先に何が起ころうとも、御身の健やかたらんことを――」


 そこまで言いかけて正永は目を閉じた。

 金創医が慌てて手首に指を当てるも、険しい顔で「気を失っただけにございます」というだけだった。

 雪は細かく降り続いている。

 正永に口を封じられたことを、カヤは怒っていただろうか。彼女は終始、憐憫れんびんを顔に浮かべるだけで、それは誰にも分からなかった。

 だが、一人。その様子を不憫に思った男が、カヤに声を掛けた。


「あのう、カヤ様。どうか気を落とさないで下さい。お探しのゲンタ君も、つい先ほど見かけましたから、きっといいことがありますよ」


 小平が呑気な顔でそう言うと、カヤは真剣な表情で懐紙に筆を走らせ、小平に押し付ける。


「どこへ行ったか、ですか。あっちの方角……恐らくは大きな宮城きゅうじょう門の方に駆けていきやしたよ」


 それを聞いた彼女は、手始めに大きく息を吸って吐いた。

 そして覚悟を決めて顔を上げるや否や、猛然と駆けだしたのだ。


「え? え?」


 カヤの突然の行動に、理解が追い付かない小平の、その後ろ襟を左兵衛が掴む。


「追いかけるぞ。走れ」

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