第47話 忘れるな

 答えれば恥ずかしい思いをする。そうに決まっている。そろそろ頭が爆発するかもしれない。

 だが心のどこかで願ってしまうのだ。テオドールの言葉を聞きたいと。自分の感情は、矛盾ばかりだ。

 

「『あなたの前で泣いては、嫌われてしまう』と、思うかもしれないです」

「だろ?」

「……そうでは、ないのですね」

「ああ。君が笑うなら隣で笑いたい。君が怒るならその原因を消し去りたい。君が泣くなら涙を拭って抱きしめたい。俺は君の笑顔が好きだが、弱いところも見たいし、不貞腐れたところも見たい。照れてるところは他の人間には見せたくない。全部見れるのは、俺だけが良い」

「もう……勘弁してください……」


 ララはついに白旗をあげた。頑張って耐えた方だ。


「分かっただろ? 俺は君じゃないとダメだし、君ならなんでも良いんだ。だから諦めろ。認めてしまえ。君がどれだけ否定しようとも、逃げようとも、俺が君を好きなのは変わらない」


 脅迫めいた誘惑に、脳が溶けてしまいそうだった。自分のことをこんな風に想ってくれる人がいると、初めて知った。

 

「私は、どうすれば」

「さっきも言った通り、返事はいらない。君らしく生きてくれれば充分だ。……なんて格好つけてみたが、『俺のことは忘れて幸せになれ』とは言ってやれない。俺は性格が悪いから」


 髪に触れていたテオドールの手が、頬をくすぐって顎に添えられた。次の瞬間、彼の顔しか視界に入らなくなった。息を呑んで瞳を見つめる。もう逸らすことはできなかった。


「君がこの先の未来を幸せに生きて、数えられないくらい笑って、人生をやりきった時まで……」


 彼の青い瞳が、熱く、欲を滲ませ、燃えている。


「忘れるな。君の鼓動が止まる、その時まで。俺に愛されていることを」


 逃げられない。この人からは。この人の愛からは、逃げられない。

 

 ララはひとつ頷いた。精一杯の答えだった。

 その場に崩れ落ちそうになったところを、テオドールの腕に支えられた。


「大丈夫か? やっぱり疲れが残って――」

「い、いえ。そうでは、なく」


 泳いだ疲れは残っていない。この脱力感は精神的なものである。

 

「あなたが凄くて……腰が、抜けました」

「……君、本当に可愛いな」


 テオドールが困ったような表情で黒髪をかき上げた。妙な色気に当てられ、ララはテオドールの胸元に顔を埋めた。

 しばしの間、互いに呻く。


 うるさい鼓動を落ち着けようと深呼吸を繰り返したララは、洗剤の香りを嗅ぎ取った。そのせいで余計なことに気付いた。


(私、どうしてこの服を……?)


 今着ているのは、いつも就寝時に着用するワンピースである。少し前まで眠っていたのだからおかしくはないのだが、問題なのは、自分で着替えた記憶がないということだ。朝出かけた時は、当然この服ではなかった。

 

「……つかぬ事をお聞きしますが」


 暴れ狂う鼓動を無視して話を切り出すと、片手で顔を覆ったテオドールがこちらを見下ろした。

 

「なんだ?」

「……もしかして服、……着替えましたか?」


 着替えてないって言って。見てないって言って。記憶にないって言って。見てないって言って。

 心の中で願望を唱える。どう考えても叶いっこない願いだと、承知の上で。

 

「……綺麗だったから安心しろ」


 現実とは、時に残酷である。

 

「……そこは嘘でも、見てないって言ってくださいよぉ」


 泣きたい。いや、実は少し泣いている。テオドールの顔がぼやけて見えるから間違いない。今日だけで何度目か分からないが、顔から火が出そうだ。


「怪我がないか確認する必要があったんだ。医者に見られたと思え」


 テオドールは女心を全然理解できていない。正論だから許されるとか、そういう話ではない。彼が医者の資格を持っていようが緊急事態だろうが、恥ずかしいものは恥ずかしいのに。

 

「私にとってあなたは! お医者様ではなく! 男性なんです!」


 必死に訴えかけると、目を丸くしたしたテオドールが「すまなかった十秒くれ」と早口で言って黙り込む。

 罪の意識でも芽生えたのだろうか。ララが大人しく待っていると、きっちり十秒後に彼は口を開いた。


「……危なかった。君が可愛すぎてもう一回死ぬところだった」

「グラント卿って、たまにもの凄く面白いですね」


 そして平気で恥ずかしいことを言ってくる。怒る気がどこかに旅立ってしまった。

 

「たまには余計だ。君が無茶をしない限り、もう着替えたりしない」

「そのようにお願いいたします」

「君も無茶するなよ」

「はい、肝に銘じておきます」

「ん。夜中に長話に付き合わせて悪かった。今日は休め」

 

 言われるがまま横になったララは、ベッドに腰掛けるテオドールの顔を見上げ、昔のことを思い出した。生前の彼と過ごした時間を。


「逆だな。あの時と」


 どうやらテオドールも同じ時を思い出しているようだ。それだけで心が、満たされる。


(私のグラント卿への気持ちは、憧れなのだと思っていたけど……)


 もしかしたらずっと前から、間違えていたのかもしれない。


「最後まで、お供させてくださいね」

「こっちが頼む立場なんだけどな」

「グラント卿のおかげで毎日楽しいので、こちらからお願いしたいくらいなんです」

 

 与えられたものが多くて、大きくて、全てを返すには時間が足りない。

 だが、後悔はしたくない。

 

「本来の願いは仕事ではなくて、その……」

「君の隣にいること」

「……の、よう、ですが。他にも何かあれば、全力で叶えますからね」

「あー……、じゃあ一つ、頼みがある」

「なんでしょう?」

「テオって呼んでくれないか」


 意外な要望に、ララは目をぱちくりさせた。

 

「いまさらですか?」

「ヒューゴたちとは会った日から名前で呼び合ってるのに、俺はずっとグラント卿だぞ?」

「そ、それは、……捜査局に来た時、私には婚約者がいませんでしたし」

「ジャスパーなんて様すらついてないじゃないか。俺はグラント卿なのに」


 この男、駄々をこねる子供のようである。

 

「ジャスパーは開発局の局員なので良いんです」

「……へぇ」

「あと、一回名前呼びを断ったら大泣きされました」

「あんのクソ噓泣き野郎め……」

「え?」

「こっちの話だ。気にするな。――で、嫌なのか?」


 テオドールはちょっと不安そうに視線をさまよわせる。

 気恥ずかしいなとか、捜査官たちに揶揄われそうだなとは思うが、嫌だなんて、そんなことあるわけないではないか。だって――、


「聞いてくださいグラント卿」

「ん?」

 

 口元が緩むのを堪えきれず、ララは破顔した。


「私、人を愛称で呼ぶの、初めてです!」

 

 嬉しい。これから眠らないといけないのに、飛び跳ねたいくらい嬉しい。

 喜びが伝わるだろうかとテオドールの顔を覗き込むと、彼は眉間に深いしわを寄せた。


「……殺す気か?」

「なぜ?」

 

 予想外の反応に戸惑う。しかしじっくりとテオドールを観察してみると、形の良い耳が真っ赤に染まっていた。喜びが伝わりすぎたようだ。


(こんなことで、赤くなるんだ……)


 なんだか自分の耳まで赤くなっている気がして、ララはすっぽりと布団を被る。


「お、お名前は、明日から呼ばせてください」

 

 今の呼び方にも、愛着があるから。

 

「おやすみなさい、グラント卿」


 小さな声で言うと、布団の上から頭を撫でられた。


「ああ。……おやすみ、ララ」


 心地よい声に耳を傾け、ララはゆっくりと目をつぶった。









(眠ったか……?)


 規則正しく上下する布団に、テオドールは耳を近付けた。中から微かに寝息が聞こえて、癒される。


 やっとララに自分の気持ちを伝えられた。出会ってから約三年、隠し続けてきたこの気持ちを。

 テオドールは山になった布団をちらっと見る。頭まで被ったままだと苦しいかもしれないしな、と適当な言い訳をして、布団をそっとめくった。

 幸せそうに眠るララが現れ、テオドールは目を細める。――どうしようもなく、愛おしい。


 願わくば、この先彼女が超えるいくつもの夜が、幸福で満たされますように。


(まさか俺が、こんなことを願うようになるとはな)


 過去に戻れるのなら、ララと出会った日の自分に教えてやりたい。


『――その可愛くて挙動不審なご令嬢が、お前の最愛になる人だ』と。

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