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窓の向こうからヒグラシの声が聞こえる。夕日が差す、ボロアパートの一室。窓ガラスには、揺れる木の葉の影が映る。
「主人公……仮にAとする。彼女はやんちゃなクソガキだ。初音は、そんなAとは正反対で、物静かで夢見がちな女の子だ。自分の世界に入り込んで、小説を描くのが趣味だった」
先生は、感情的でない、落ち着いた語り口で話した。
「初音は中学からは私立校に進んでね。公立校に入学したAとは、せいぜい休日に会う程度になった。初音はAに、ノートに描いた小説を読ませていた。かわいらしいファンタジー作品だ。学校に居場所がない女の子が、異世界で幸せになる物語」
先生の言葉は、まるで先生の本を読んでいるかのように、すっと頭に入ってきた。ふたりの少女が並ぶ姿が、目に浮かぶようだ。
「ある日、初音は数名のクラスメイトと共に、心霊スポットの謂れがある廃校に出かけた。そしてクラスメイトたちは帰ってきたが、彼女だけがはぐれた。Aは心配になって捜しにいって、そこで、遺体を見つけた」
僕は消された物語を思い起こした。物語の主人公、初音は、廃校で暴行を受けた。クラスメイトの手によって。
「初音は大人しいけれど暗い子ではなかったし、よく笑うし、人から嫌われるような子じゃない。小学校の頃はいじめなんかなかった。だから、油断した」
初音は、クラスメイトから陰湿な嫌がらせを受けていた。しかし物理的な暴行はなく、外見に怪我は見られなかっただろう。
身近な人も、初音本人から告発がなければ、気がつかなかったかもしれない。
あの物語を読んだとき、僕は強烈に、続きを描きたい衝動に駆られた。僕はあの物語の続きを知っている。
描かれていなかったはずの、物語のその先を。
抵抗したくてもできなくて、生きているのに死体のように、指先ひとつ動かせなくなる。体が拒絶反応を起こして、床が血だらけになって、それでもされるがままなのだ。
動かなくなった初音を置いて、クラスメイトたちは帰っていった。服はぼろぼろに破かれ、体は痛みで動かない。数時間倒れていた初音は、やがて痛む体を起こした。そして割れた窓ガラスを拾い、自らの喉に突き立てる――。
どうしてか、僕はそう思った。まるで自分の中に、初音が入ってきて、記憶を共有してきたかのように。
先生は置いていた缶を再び手に取った。
「代わってやりたいとは思わない。だけれど、あの子の未来が勿体なかった。彼女がAにしか見せなかった才能は、どこへ行く?」
思い切り呷り中身を飲み干して、ふう、と息を吐く。
『あのな、小鳩くん。こういうものに同情したらいけないんだぜ』
僕は頭の端で、かつての先生の言葉を反芻した。
『中途半端に優しくする奴こそ、化け物の恰好の的なんだよ』
幼馴染の遺体を見つけた、その日から。
先生は取り憑かれたように、文章を描くようになった。
「なにかに突き動かされて、Aはひたすら文章を描いた。A自身でも、なんで描いていたのか分からない。体が勝手に描きはじめた。内容は現実世界を舞台にした復讐劇ホラー。初音の作品の続きですらない」
周りから見て、気が狂ったと思われるほど。先生……いや。まだ小説家ではなかったひとりの少女、麗華は、彼女らしからぬ文章の世界に、のめり込んでいった。
先生は、ホラーに対して意外とドライな性格をしている。仕事のためだから心霊検証に興味を抱いているだけで、ホラーが好きなわけではない。怖いものを怖いと感じていない。
『心霊現象なんか、大概が脳の処理による錯覚やら思い込み等の心理的要因やらで論破できる。大真面目に信じるものじゃない』
そんなことを言う人がホラーを描くのが、僕には不思議でならなかった。
「体が勝手に、とはいえど、A自身の意識はちゃんとある。彼女は自分の内側にある衝動と、打ち合わせをしながら描くようになった。原案は初音、表現者はA。もういないはずの友人と合作をしているような感覚だ。Aはその状況を楽しんでいた」
先生は空になった缶をふらふらと振った。
「それから数年して、大人になって。Aはホームページを立ち上げた。彼女のノートに描いた物語を、ここに書き写すようになった」
以前、椋田さんから聞いた。先生の初代編集者は、先生の存在を個人のwebサイトで発掘したという。
固唾を呑んで聞いていた僕だったが、ふと、口を挟んだ。
「Aは、ノートに初めから描かれていたファンタジー作品も、アップしたんですか?」
「生前見せてもらっていたものはしなかった。それはAが一切関与していない、完全な初音の作品だからね、勝手にアップしたらいけない。彼女の死後にAが書いたものだけをアップした。だからホラーばかりになったわけだが」
それも、Aだけの作品とは言い切れない。
先生は小さく、そう付け足した。
「そんなところへ、Aに出版社からオファーが舞い込んだ。しかしAは、喜ばしい以前に複雑だった。自分で描いたような気がしなかったから」
「ん……? アップしていたのは、初音さんの死後の作品だけだったのでは?」
「たしかに文字を『書いた』のはAの体だ。しかしその物語は、初音も一緒に『描いた』ものだ。Aは漠然とそう感じていた」
出版企画が持ち上がったとき、権利関係の確認があった……と、椋田さんも言っていた。当時は担当ではなかった椋田さんも、先生の幼馴染の名前くらいは耳にしただろう。
権利関係の確認といっても、実際に幼馴染の死後の作品なのだから、先生が描いたのは明確なのだ。先生からすれば自分のものではないという手応えがあったとしても、傍から見れば間違いなく先生の作品だ。
「ところで私も、実は、当時の編集者の熱意に負けて勢いでデビューしてしまった口だ。もちろん自分の意志で、自分で取材して、自分でストーリーを練っている。だが、時々意識を失って、自分のものではない文章を描いているときも、なくはない」
吊り橋の女が、僕の内側に入ってきたように。
「描いた物語は本になって、全国へ旅立つ。正直、こんなことをしていいのかと思う。自分ではない誰かが、密かに訴えていた強い感情が、物語の中に封じ込められて、各地に頒布されていくようで」
竹人形が、呪いを広げていくように。
「そしてたまに、初代担当や小鳩くんみたいに、私の文章に異様なほど食いついてくる人が現れる。私に代わって物語を描き続けそうな人が、選ばれているかのようにね」
ウツワ様が、依代を入れ替えていくように。
僕はいつの間にか、息をするのを忘れていた。今ようやく、は、と短く、脳に酸素を送る。
つまり、先生自身が――。
先生から目を逸らせなくなる僕に、先生はにやりと、夜空色の目を細めた。
「私は、もう人ではなく――この体は『呪いの器』でしかない。……かもしれないね」
ずっと不思議に思っていた。先生はなぜ、怪奇現象に見舞われないのか。
幽霊、怪異、呪いといった類のものは、それ自身よりも強い霊力を持つものに近づけない。
曰くつきの部屋も、先生がわざわざ見に行く幽霊も、竹人形の呪いも、カメラや中古車に取り憑いた霊も。先生が……否、彼女の中に宿る強い怨念が、弾き飛ばしているのか。
違う。
それらは消えてはいなかった。先生が寝ていたり、意識を失っているときだけは、姿を表していた。
幽霊、怪異、呪いといった類のものは、それ自身よりも強い霊力を持つものに近づけない。
そして、『近づこうものなら、強いものの一部として取り込まれてしまう』。
全て、先生という器の中に取り込まれているのかもしれない。そして彼女自身の意識がないときに、怪奇現象を引き起こす。
自分自身が「そちら側」の存在なら、怖い話を怖いと感じないのも納得である。
彼女は物語という呪いを生み出し、広げ、人の想いも死者の念も取り込んでいく――化け物だ。
息ができない。
恐ろしいのに、今すぐここから逃げ出したいくらい恐ろしいのに、体が言うことをきかない。
それどころか、心を絡め取られている。きっと一生、僕はこの人から逃げられない。
先生はそこで、急に軽やかに声を弾ませた。
「なーんてね。そんな物語も思いついた、という話さ。面白くないからムクちゃんには提案しない」
そして、光の消えた目で、僕を覗き込む。
「どうした? そんな怯えた顔をして。今のは君にしか展開されなかった秘蔵の物語だぞ。君は私のファンだろう。もっと喜んでくれ、小鳩くん」
僕はなにか上手いことを言おうとしたが、声を出せなかった。表情も、強張ったまま動かせなかった。
僕の酔いはすっかり醒めていた。缶に指を添えてみたが、飲む気にならない。
先生の長い睫毛が、瞳に影を落とす。
「怖いか?」
訊ねる声は、僕を試すようにも、嘲笑うようにも聞こえた。
「身の危険を感じるなら、今のうちに逃げなさい。上から異動を命じられる初代担当とは違って、君には強制的に引き剥がしてくれる人がいない」
汗が滲む。心臓がどくんどくんと音を立てる。
逃げたいと告げるなら、今なのだろう。これまで散々なし崩しで言うことを聞かされてきたが、今ははっきりと、僕に選択の余地が与えられている。
僕は短く、息を吸った。
「ひとつ、お願いしてもいいですか?」
「なんだ?」
僕は意を決して、震える声を絞り出した。
「僕の描きたい物語のプロット……入院中に、仕上げました。椋田さんに見せる前に、先生にも見てほしいです」
「どういう意味かな」
「そのまんまの意味です。忘れたんですか? 僕が先生のアシスタントに就いたのは、もう一度小説を描くためです。傍でいろんな経験を積ませてもらって、勉強させてもらうためです」
怖くないといえば、嘘になる。この先も、先生といれば間違いなく怖い思いばかりする。旧シバチクでの騒動のように、命の危険もあるかもしれない。
それでも僕は、どうしても、この人の傍を離れられない。
「先生が何者であっても、尊敬しているのは変わりません。同時に、私生活のだらしなさが心配でもあります。怖いのは嫌だけど、それを上回って、僕は先生の隣にいたい」
自分の胸の内を、上手く言葉にできない。ただ、離れていく気はないのだと、それだけは伝わっていてほしい。
「先生にも、僕を気にかけてほしいです。僕も、もう一度小説家を名乗れるように、胸を張って先生の隣にいられるように、頑張るから。だからまずは、プロットを見てほしいです」
先生は、黙って僕を眺めていた。やがてふうんと鼻を鳴らし、満足げに目を細める。
「鳥カゴを開けてやってるのに、出ていかないとはね。覚悟はいいんだな?」
「そもそも先生は、僕に覚悟を決める機会も与えずに振り回してきたじゃないですか」
ようやく初めて自分の意志で、先生に引きずり回される覚悟を決めた。決めてしまった。
先生の黒髪が、夕日で赤く煌めく。先生から逃げ出して、なにも知らなかった素振りで平和に暮らす――その選択肢も、僕の正常な判断力も、眩しい赤い輝きに焼き切られた。もう、後戻りはできない。
先生はふはっと笑った。
「いい根性してるじゃないか。分かった。私はホラー以外描いてないし本も殆ど読まないし編集者でもないが、君の仕事をひとつ、監修してあげよう」
「唸らせる自信があります。……とは言えないけど、先生のアシスタントのプライドにかけて、全力でぶつかりにいきます」
強気な素振りを見せる僕に、先生はどこか嬉しそうだった。
意地悪なような優しげなような目で僕を見つめ、彼女は勢いよくお酒を喉に流し込んだ。
「君が乗り気なら遠慮は要らないね。アシスタント契約は続行だ! 次はどこへ行こうか? なにをしようか?」
「『怖いのは嫌だけど』って僕言いましたからね。それは大前提ですからね」
言っても無駄だろうが、僕は悪あがきだけしておいた。先生はご機嫌だ。今まで見てきたどの瞬間より機嫌がいい。
僕はやや呆れつつ、訊ねた。
「そうやって、先生が取材と称して怖い話を集めてるのって……」
『"経験"が大事』
多分、そんな理由ではない。あんなのは建前だ。
きっと、突き動かされているのだ。彼女の中に住む永遠の少女が、この世の怪奇を先生という器に取り込んで、自身を増幅させていくために。
先生は上機嫌でお酒を呷った。
「最高のホラーを描くためさ」
もはやどこまで先生の意思で、どこからが彼女の内側に棲む者の意思なのかは分からない。だが、僕みたいな奴を怖がらせて楽しんでいるのは、間違いなく先生自身の意思だろう。
先生は、描き続ける。自分の中に親友が宿っているならば。その体を捨てるわけにはいかない。
彼女は稀代の天才小説家・月日星麗華として、文学界に君臨し続ける。
そして僕は、彼女に飼い慣らされる。もう一度小説家に戻りたいから。そのために仕方がないから――そう、自分に言い訳をして。
「さあ、小鳩くん。次はどんな"経験"をしようか」
先生が終わりのない呪縛に身を置くならば、僕はそれに寄り添う。他に選択肢はない。僕はこの人に、とっくに狂わされているから。
彼女の物語に魅了されたその瞬間から、僕の運命は決まっていたのだ。
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