7
「うわ! やっぱり撮れてなかった」
写真店の店主から受け取った、写真入りの封筒。先生はその中身をランダムに確認し、肩を落とした。僕の手には、直したカメラが入った紙袋。横を歩く先生は、現像された写真を封筒に戻してしょんぼりしていた。
あれから数日。先生の部屋に泊まった日を最後に、僕は幽霊の女を見なくなった。
あのあと僕は、抜けた腰を奮い立たせてなんとか立ち上がり、部屋の明かりを点けた。明るくなった部屋で壁に背中をつけ、先生の傍で蹲って夜を乗り切った。数時間も膝を抱えて過ごすと、先生の部屋は静かな夜明けを迎えたのだった。
朝日を見る頃、先生も二日酔いの頭を押さえながら起き上がり、「幽霊を見逃した」と嘆いていた。そしてそれからは何事もなく、日常が過ぎていったのだった。
カメラの修理が終わったのはその一週間後で、僕は先生と一緒にカメラを回収しに写真店を訪れた。僕らは今、ふたりで帰り道を歩いている。先生が僕に封筒を手渡してくる。僕も数枚、ピックアップして見てみた。
出かける前に試し撮りしたアパート周辺の風景は撮れていたが、山で撮った写真は全て真っ黒だった。僕はいちばん手前の一枚を、先生に向けた。
「心霊写真ではないですけど、この写真、結構良いですね」
試し撮りの、アパート前の写真がとてもきれいだ。先生の部屋の前から撮った、暮れなずんだ町と茜空だ。古いカメラだから画質が悪いが、それが却って空の色を優しく滲ませて、レトロな雰囲気を醸し出している。
僕の横では、先生が肩を落としている。
「気に入ったなら持ち帰っていいぞ。はあ……心霊写真欲しかったな。撮れてたとしても、周りが暗くて撮れなかったのかも。でも幽霊にフラッシュ焚いていいものか……心霊写真って難しいんだな」
先生は首を捻り、ため息をついた。
「幽霊は見逃すし心霊写真は撮れないし、小鳩くんもその後はなんともないし……どうしてこうも、私は幽霊に嫌われるんだろうな」
「羨ましいですけど……」
ただただ散々な目に遭った僕は、ぼそりとぼやいた。
「そういえば先生、カメラも車も曰くつきって言ってましたね。でも先生にはなにも起こっていないんでしたっけ」
「うん。事故物件に住んでても、なに起こらない」
先生がつまらなそうに唇を尖らせる。そうだった、カメラと車だけでなく、先生の部屋も曰くつきなのだった。
「手首を切って、自殺した人がいたとか」
「そうそう。単にすっと切った程度じゃ失血死はできないから太い脈を切らなくちゃならなくて、手首を骨ごと糸鋸で切り落としたらしい。首吊ったほうが楽そうなのになあ」
それを聞いて僕はピシッと固まった。手首……あの夜、先生の部屋に落ちていた奇っ怪な手を思い出す。幽霊のどさくさに紛れて忘れていたが、あれはどこへ行ったのか、それから見ていない。
先生の作品のための資料、と思っていたが、まさか……。
青くなる僕を気にもとめず、先生は軽やかに語った。
「同じ部屋を借りた歴代住人たちはみんな、口を揃えて、『夜中に手首が落ちてくる』と言っている。私は見たことないんだけどな」
僕の顔の真横に落ちてきた、あの手。
僕は口を結んだ。ここであの現象について先生に話したら、あれの存在を認めてしまい、現実として受け止めなくてはならない。それに心霊現象が起きたと知ったら、先生はまた僕を部屋に泊めて検証しようとするだろう。もうこの手合いはたくさんだ。なにより、誰にも話さずに、自分の中でなかったことにしてしまいたい。
アパートに戻ってくると、外で落ち葉を集めている大家さんと遭遇した。先生が大家さんに挨拶する。
「よう、大家さん。聞いてくれ、またカメラが壊れた上に、心霊写真を撮り損ねた」
「そうかい。そりゃ残念だったね」
「私は資料の写真が欲しかっただけで、こんなに仕事熱心なのに。報われないな」
それから先生は、僕の手から、直ったばかりのカメラ入り紙袋を取った。
「小鳩くんはこのあとバイトだったな。今日は特に頼むこともないから、これで上がってくれ」
先生はそのまま背を向け、外付け階段を上がっていった。写真の入った封筒は、僕に持たされたままだ。先生は封筒に入っている夕焼けの写真を僕にくれたわけだが、真っ黒な写真は撮れていないとはいえ不気味だし、帰ったら処分しようと思う。
竹箒を片手に、大家さんが呟く。
「その『やたらとカメラが壊れる』という時点で充分心霊現象だってのに、あの子は……」
僕はしばし、扉の閉ざされた先生の部屋を眺めていた。
吊り橋の女の幽霊は、どうなったのだろうか。あれから見なくなったけれど、どうしていなくなったのかは、はっきりと分からずにいる。
先生曰く、幽霊も人間同様に驚いたりするらしい。先生の部屋で自殺したという先住の人の幽霊に驚いて逃げたのだろうか。それとも、「成仏して幸せになったほうがいい」という先生の言葉を聞いて、納得して成仏したのだろうか。彼女が僕についてきていて、あの夜も先生の部屋の隅に佇んでいたのだとしたら、先生の発言を聞いていてもおかしくはない。だから僕は、後者を望む。彼女の悲しみが癒えたのだとしたらいいなあと。
ああ、同情したらいけないのだった。先生がそう教えてくれたし、下手な同情でどうなるかも分かったのに、僕は学習しない。
幽霊は死んでいるだけで、元は人間だ。だから人間と同じで大きい音に驚くし、悲しみも怒りも、人間と同じ感情だ。
幽霊といえど、そこにあるのはひとりの人間の人生であり、物語だ。
先生は小説の中でそれを描いている。だから取材をする。死者がなにを思ったか、対話で聞き出そうとする。
そう考えたとき、月日星麗華の描く物語がどうしてあんなに魅力的なのか、そのヒントが見えた気がした。
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