第63話 温かな気持ちと絵の依頼

「確かに、クモイがやってきたことはいいことだったとは言えないと思う」

「申し訳ありません……」


 クモイが項垂うなだれて重ねて謝る。

 だがリシュールは、自身の預かり知らぬところでクモイが何かしていたことについて、すでに気にしていなかった。


「でも、そんなことよりも、僕は君に会えてよかったって思っているんだ」

「……」


 クモイがそろそろと顔を上げる。その表情は、主人が何を言うのか、まだ怖がっているような感じだった。

 だが、リシュールは気にせず言葉を続ける。


「前も言ったけど、もしクモイに出会わなかったら、僕は毎日、靴磨きだけで終わって、おいしくない料理を食べる日々だったと思う。でも、それが学びがあって豊かな食事をする日々に変わった。そして、毎日何があったのか、話を聞いてくれる相手がいる」


 クモイが現れたことはリシュールにとって驚きの連続だった。

 だが、そのお陰でそれまでの素っ気ない世界が、リシュールがキャンバスに色を載せるように、色鮮やかなものへと変わっていった。


「リシュ……」

「それとね、一緒にいるのはクモイじゃなきゃダメなんだってことも分かった」

「それは、どういうことでしょうか……?」

「今日シルヴィスさんが家に来て、こうやって向かい合わせに座ってお茶を飲んだんだけど、なんだか落ち着かなくて。僕はクモイに遠慮なく話してしまっているっていうのもあるんだけど、そういうほうが真っすぐ言葉が届くっていうか……。上手く言えないんだけど、気負わないで話せることが、僕にとっては大事なことなのかもしれないなって。……伝わっているかな?」


 するとクモイが信じられないと言った様子で、灰色の目をまん丸くしていた。


「はい……、分かります」

「だからね、クモイ。僕と出会ってくれてありがとう」


 大きく見開かれたクモイの瞳が、うるんでくるのが分かる。その涙が盛り上がって、その場に留まっていられなくなった瞬間、一粒の涙がこぼれ落ち、彼の頬に光のような一筋の跡がつたった。


「私のほうこそ……」


 彼は少し声を震わせて言った。


「リシュに出会えて、本当によかったです。ありがとうございます」

「うん」


 リシュールが深くうなずくと、クモイが何かから解放されたように、ようやく表情をくずす。その顔に浮かんでいたのは、安堵あんどしたような、人心地ついたような笑みだった。


 話が落ち着きお互いが温かな気持ちになったころ、リシュールは「絵」についてクモイに聞いた。


「話は変わるんだけど、クモイに頼まれた絵本の挿絵の件、僕にやらせてほしい」

「本当ですか?」


 クモイは涙を持っていたハンカチでぬぐいながら、驚いた声で聞き返した。


「もちろん」

「無理なさっていませんか?」

「無理してないよ」

「本当に?」

「本当だって。疑り深いなぁ」


 リシュールはくすくすと笑ったあと、しみじみと言った。


「クモイが僕に色んなことをしてくれるように、僕もクモイのために何かしてあげたいんだ。だから大丈夫」


 リシュールはそう言ってにっと笑う。クモイが驚いたまま固まっていたが、リシュールは話を進めた。


「それでさ、絵はどんな風なものを描いたらいいのかな?」


 尋ねられクモイはハッとすると、立ち上がる。


「実は参考になる絵があるのです。持ってまいりますので、少しお待ちください」


 そう言うと、クモイは自室から数枚の絵を持ってきてくれた。質があまりよくない紙に描かれたものであるが、どれも優しい色合いの水彩で描かれ、様々な場所の風景が見る人を惹きつけるものがあった。


「風景画だね。とてもきれいだ」

「はい」


 青空と大きな雲を背景に、崖の上に一人の人が立っているような壮大なものもあれば、草原で三人の子どもたちが毛の長い大きな犬とけっこをしているものもある。


 筆の筆致ひっちは乱雑な感じがあるが、その部分から離れてみると、淡い部分から強い光が反射されているように感じられ、絵そのものに明るさがある。


 そして何故だか、どれもこれも行ったこともないような場所なのに、リシュールに懐かしさを思わせた。

 見る者にそんな風に感じさせるのは、技術力があるからなのだろう。

 リシュールはその絵を見て感動する一方で、複雑な気持ちにられた。


「ところで、この絵はどうしたの?」

「リシュに会う前、私は別の人物に絵を描く依頼を頼もうとしたのです」


 リシュールはシルヴィスの話を思い出しながら、「五十年前の人のこと?」と尋ねた。だがクモイは首を横に振る。


「いいえ。これは数年前の話です」


 リシュールは眉を寄せた。


「だったら、その人に頼んだら良かったんじゃないの?」


 リシュールに見本として見せるくらいである。それならば、最初からこの絵を描く人物に依頼したほうが早い。

 すると、クモイは表情をくもらせる。


「残念ながら、その方は床にせており、もう筆を握れぬのです」

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