6

 朝から雨が降り続く、肌寒い一日であった。篠突く雨は朝方から間断なく降り注ぎ、午後になっても全く止む気配を見せない。大学の講義が終わった夕刻、『旅烏たびがらす』へと足を向けながら、私はそっと目を伏せる。


 ――彩羽と水族館に出かけた日から、今日で十日が経とうとしていた。


 あの日、結局水族館を最後まで見て回ると聞かなかった彩羽に付き合って宵の口まで過ごした私は、水族館を出た後、彼女に対して「家まで送る」と申し出た。それは純粋に彩羽の体調が心配だったからなのだけれど、彼女は私の申し出に少し困った顔をして、首を横に振ったのだ。


『もう十分付き合ってもらったもの。そこまで迷惑かけられないわ』


 そう殊勝な口ぶりで言った彩羽は、躊躇う私にニッコリと笑って「大丈夫よ、ここからはタクシーで帰るもの」と言葉を続けると、その場で本当にタクシーを呼んでしまった。おかげで私達はそのまま水族館前で解散となり、その日はそれで終わったのだったが。


 それから一週間後、今から三日程前。『毎週この曜日、この時間に』という彩羽との約束の通りに、けれど彼女の”花”がどうなっているのかと戦々恐々としながらカフェを訪れた私は、結果として彼女に会うことは叶わなかった。閉店まで粘っても彩羽が店を訪れることはなく、帰り際、マスターにそれとなく聞いてみても、そもそも彼女は不定期に訪れる客だったため、いつ来るかは分からないとのことだった。


 それ以来、私は自分でもどうしてそこまでするのか分からないまま、毎日『旅烏』を訪れては、彩羽の訪問を待っている。


 ぼんやりと思い起こしながら歩いていると、いつの間にか店の前に辿り着いていた。私は傘を畳んで入口脇の傘立てに引っ掛けると、引き戸を大きく引き開ける。カラン、と軽やかにベルが鳴り、こちらを見たマスターが穏やかに「いらっしゃいませ」と笑った。


「こんにちは。……今日も、お邪魔します」

「えぇ、どうぞごゆっくり。お席は……申し訳ございません、カウンターでもよろしいでしょうか」


 勿論と頷くと、私はオーナーが手で示す席へと腰かけ、店内を見回す。狭い店内は、雨ということもあってか随分と混み合い、テーブル席は大入り満員だった。テーブルの間を忙しなく行き交う日向さんが、私の姿を認めるとニッコリと笑う。……そして、今日もやはり彩羽の姿はなかった。


 私は気が付かれない程度に肩を落とすと、オーナーに「ホットのブラックを」と告げてスマートフォンを取り出す。手帳型のケースには、可愛らしいラッコのストラップが揺れている。真新しいそれは彩羽が水族館の売店で買って寄越したものだった。今日のお礼に、と明るく笑っていた顔を思い出して、私は知らず、眉を曇らせる。


 ――どこにいるのか、探すべきなのだろうか。


 ここまで気にかかるのであれば、そうすべきなのかもしれないとは思う。とは言え、私が彼女について知っていることなんて名前と(恐らくは)高校生だということ、甘い食べ物とロリータ服が好きなこと、くらいで。肝心の連絡先であるだとか、どの学校に通っているなんてことはまるで知らなかった。


 ――どこまで深入りするか、決めかねている間にこんなことになってしまったから。


 はぁ、と溜息を吐く。どうしたものだろうか、とストラップをいじりながら考えていると、目の前にスッとコーヒーが差し出され、聞きなれない声が「お客さん」と声をかけてきた。顔を上げると、どことなくオーナーに似た顔立ちの青年と目が合って、私は首を傾げる。この店員とは私は初対面のはずだった。


 いやに真剣な顔をした店員は、しかし私を呼んだきり、言葉に迷うかのように沈黙している。私は仕方なく口を開いた。


「……私に、何か?」

「あぁいや……」


 すみません、と呟いて、青年は銀縁フレームの眼鏡の蔓に指を触れる。気持ちを落ち着かせるためか、ゆっくり息を吐いた青年は、私をジッと見ながら言葉を続けた。

 

「お客さん、彩羽ちゃんの友達……ですよね」

「友達というか……知人ではありますけれど」

「知人でもいいです。最近、彩羽ちゃんとは会ってますか?」

「……いいえ。でも、それがどうかしましたか?」


 私の言葉に、青年は思わし気な顔で再び沈黙する。私は青年が何を言いたいのか分からず、ただ気まずさを誤魔化すようにコーヒーを口に運んだ。マスターの腕が良いのだろう、仄かな酸味を帯びたコーヒーはこんな時でも美味しくて、思わずほぅと息を吐き出す。


 青年はそのまま暫く沈黙していたが、ややあって意を決したように「実は」と続けた。


「実は、この間病院に行く機会があったんですが……そこで、彩羽ちゃんを見かけまして。入院着を着てたもんだから、そんなに具合が悪くなってるのかと……」

「……病院?」


 言葉を繰り返した私に、青年は意外そうな顔で「知らないのか」と呟く。私がこくりと頷くと、彼は真剣な顔に戻って、私が知らなかった彩羽の事情を説明してくれた。


「彩羽ちゃんはうち旅烏がオープンして以来の常連なんですよ。ただ、その頃からずっと病院通いをしていて」

 

 青年は訥々と、彩羽が店に来るのは調子が良いときだけであること、前は長く入院してたらしいことを語った。私は青年の話を聞きながら、少しずつ自分の手が冷えていくのを自覚する。


 ――彩羽が健康体だなんて、とんでもない勘違いだった。


 川べりで私に声をかけてきた、二週間前のあの日。私に出会ったその時から、彼女は死へと片足を踏み入れた病人だったのだ。


 病院はあそこだ、と青年が挙げた名前は、地理に疎い私でも知っているような、このあたりでは一番大きい総合病院だった。私はコーヒーを一気に飲み干すと、カウンターにお金を置いて立ち上がる。青年が慌てた様子で、カウンター越しに私の腕を捕らえた。がしゃん、という大きな音に、マスターと日向さんが驚いた顔で私達を見る。


「ちょっと、お客さん! あんた、まさか彩羽ちゃんのところに押しかける気ですか?」

「……病院まで行ってみるだけですよ」

「やめてくださいよ。うっかり話を振った俺も悪かったですけど、あの子が話さなかったってことは、話す気がなかったかってことでしょう。俺が話したのも、あんたが毎日ここに通ってきてるのが気にかかっただけで……」

「……でも、私は……」


 青年に手を取られたまま、私はあの日、送られるのを渋った彩羽を思い出す。既にあの段階で、彼女は入院していたのではないか。だからあの場でタクシーを呼んでまで、私に送られることを拒んだのではないのか。


 それだけではない。思えば、初めて彩羽と会ったのは平日の昼間だった。普通なら学校がある時間にうろついていたのは、病院から抜け出して散歩をしていたからだったのでは。


 だとすれば、彩羽の”花”が今どうなっているのか、全く予想が出来ないのだ。


 ――もしかしたら、もう満開になっているのかもしれない。


 そう思うと居ても立っても居られない気持ちになって、私は青年の手を無理やり外すと店を飛び出した。外は未だ大雨で、傘を差す手も上着も瞬く間に濡れていったが、私は構わず病院に向かって走り出す。


 ――せめて一目、彩羽に会いたい。


 会って何をしたいのか、何か伝えたいことがあるのかも分からない。ただ私は何かの衝動に足を突き動かされるまま、桜並木の下を駆けて行った。

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