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宿を出て川沿いの土手道を東側に歩いていく。太陽の光が逆光で眩しいが、朝の気温はまだ低く、手袋を持ってくればよかったと思った。左手をズボンのポケットに突っ込んだが、金剛杖を持つ右手はそうはいかない。


遠くに鉄橋が架かっていて、その上を右から左に三両編成の短い電車が走ったかと思うと、しばらくして今度は左側から、やはり短い編成の電車が走ってくるのが見えた。鉄道の線路を越えてしばらく歩けば本山寺はすぐそこである。


七十番札所本山寺の仁王門からは石畳の通路がまっすぐに延びていて、通路の奥の方には本堂が見えた。しかし、山門をくぐり抜けて境内に足を一歩踏み入れると、否応なしに目が行くのは本堂ではなく五重塔だ。意外にも、この塔はそれほど古い物ではなく、明治時代に建立された物らしい。


本山寺の本尊は馬頭観世音で、四国霊場でこれを祀るのは本山寺だけである。境内には本尊に因んで二頭の馬の像が並び立つが、午年生まれの私はこの像に何となく親近感を覚える。数字上、境内の面積は大きいのだが、多くの諸堂が建ち並ぶせいか、さほど広いという感じがしない。ところが、帰りしなに再び山門を見ると、これがやけに小さく感じられ、この時になって私は境内の広さを実感したのだった。


八時を回り気温が上がってきて、私はカーディガンをリュックサックにしまった。天気予報によれば日中は気温が二十度まで上がるらしい。


次の札所までは十二キロほどある。しばらくは交通量の多い国道十一号線を歩くが、じきに遍路道は細い県道に変わった。一応、地図を頭に入れ、その上で道標のステッカーをたどりながら歩いていくのだが、不思議なことに遍路道を何度となく外れてしまう。自分でも気が付かないうちに、遍路道と並走する国道に出てしまうのだ。遍路道に戻るのは別に難しくないのだが、その都度首を傾げてしまう。


アスファルトの小道を歩いていくと、十字路の先に石門が見えた。ここが七十一番札所弥谷寺の参道の入り口である。ここからは道が登り坂になっていて、弥谷寺が近づくと遍路道は左右が竹木立に覆われた小路に変わった。まるで中にかぐや姫がおわしていそうな太い竹の木がごろごろと生えているのが印象深い。


少しばかり息を切らせながら坂を登り切ると、仁王門の手前に「弥谷寺表参道 本堂まで階段約五百三十段」の立札が見える。一瞬怯んだが、よし、数えてやろうと、自分の気持ちを奮い立たせた。


「一、二、三、四……」と声に出しながら一段ずつ登っていく。声に出したのは、黙算だと数え違いしそうだったからだ。そして、十ごとに左手の指を折る。仁王門までが七十四段、そこから本堂までが四百三十二段で、私の数えた限り、階段は五百段ほどだった。どのみち、こんなのは誰かが数える度に段数が変わるに違いないのだ。

本堂は境内の最奥、一番高い所にあった。吹き抜ける風が心地良く、眺めも良い。ベンチに腰掛けて休んでいる内にすっかり汗もひいてしまった。


山に囲まれた境内には所々に岩壁があり、そこだけを見ると冬のお遍路で訪れた岩屋寺と雰囲気が似ている。岩壁に三体の仏像が直接彫られていた。


しかし圧巻は岩窟の中に置かれた大師堂である。納経所で尋ねたところによると、ここは後から掘削されたのではなく、元々あった岩窟に大師像を始めとする諸像を運んで来たのだそうだ。全体が醸す雰囲気が何とも厳かだ。お大師様と向かい合うようにベンチが置かれ、ここならいつまでも座って居られそうな気がした。


とは言え、実際にはそんな訳にもいかず、朱印を頂いてから弥谷寺を後にした。往路と同じく、しばらくは竹林に囲まれた小路を下っていく。思いの外勾配は急で、往路では意識しなかったが、実際にはかなり登っていたのだという事実に改めて気がついた。


国道と県道を交互に歩き、七十二番札所番曼荼羅寺に着いたのは正午を回った頃だった。小ぶりで静かな境内には早咲きの枝垂れ桜がピンク色の花を咲かせていた。納経所で朱印を頂いた後に境内で休んでいると、ご住職に話しかけられた。


「これはあなたの物?」


指差す方向には私の金剛杖があった。危ない、危ない。気を抜くとすぐに忘れてしまうのだ。ご住職に感謝である。


七十三番札所出釈迦寺は曼荼羅寺の目と鼻の先だ。坂道を十分も登るとすぐに出釈迦寺の山門である。小ぢんまりとした境内は特に印象的でもなく、私にとってこの寺の存在感はもっぱら、次の伝承による。曰く、弘法大師が願をかけて谷底へ身を投げること三回、いずれもお釈迦様が現れてお大師様の身を受け止めたという。叶うならお釈迦様が現れて私の命をお救いください、と願をかけたのだ。


このエピソードを聞いて、私はマタイによる福音書を思い出した。悪魔がイエスを神殿の屋根へ連れていき、神の子ならここから飛び降りても天使が助けてくれるだろうと、イエスを挑発したという話である。しかし、イエスは飛び降りなかった。「あなたの主である神を試してはならない」という訳である。


お大師様とイエスの置かれた状況は違うが、イエスならきっとお大師様をたしなめたことだろう。例え庶民の救済を求めたのだとしても、願のかけ方は他にもあるでしょう。お釈迦様を試すようなやり方はもってのほかですよ、と。


今しがた来た坂道を戻り、再び曼荼羅寺の前を過ぎ、今度は甲山寺へ向かう。出釈迦寺ほどではないが、甲山寺も近い。田園風景の中を歩いていると、土佐の大日寺から国分寺へ向かう途中のあぜ道を思い出した。去年の春は天気が曇りがちだったが、今日は一面緑色の田畑が青空によく映えている。


田園風景を楽しみながら歩いていると、唐突に七十四番札所甲山寺の石門に到着した。そのすぐ先には赤茶色に塗られた小さな山門がある。鐘楼の鐘を一回撞いて本堂に行くと、本堂の軒下に小さな鐘が吊り下がっていた。これも誰かが撞くのだろうか。


甲山寺は兎に縁があるお寺のようで、卯年の今年は参拝者の人気を集めているように見える。そう言えば、一昨日会った台湾女性は、色んな札所で卯年限定の朱印やらグッズやらを集めていると言っていた。彼女が甲山寺に着いたら、きっと嬉しさで跳び上がるだろう。私は兎に特別な関心を持たないので、通常の朱印を頂くに留めておいた。


さあ、本日最後の札所へ向かう。と言っても、ここからはわずか二十分の道のりである。


七十五番札所善通寺に着くと、私は規模の大きさに圧倒された。所在地の地名となり、同名の鉄道駅があるのは観音寺と同じだが、とにかく札所の存在感が違う。それもそのはずで、善通寺は弘法大師の生誕の地、言わば八十八か寺の元締めのような存在なのだ。境内は東と西に分かれ、西院には本堂と五重塔、東院には大師堂と納経所がある。もちろん、それ以外にも色んな堂宇が立ち並んでいる。お堂とは違うが、東院の山門付近には屋台が並び、松山市にある石手寺を私に思い出させた。そして、院の東西を問わず、多くの参拝者が広い境内を埋めていた。


今夜は善通寺の宿坊に宿泊の予約を入れており、この後はもう歩かない。予定よりも早く到着したことでもあり、私は境内を散策することにした。


その中で私がまじまじと目を凝らしてしまったのは、諸堂ではなく、大師堂の前に立つ幼き頃の大師像だった。奈良時代や平安時代は「しもぶくれ」が美人顔とされたという話をどこかで聞いたことがあるが、この大師像もそんなしもぶくれ顔をしている。私が不思議に思ったのは、これまでに見てきた青年以降の大師像で、このようなしもぶくれ顔の像を見た記憶がなかったということだ。この幼少の大師像がいつ、またどのような資料に基づいて作られたのか、私には分からないが何とも興味深い。


私は今後、弘法大師像を見るたびに、顔の輪郭に注目しようと心に決めた。

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