第2話 始動、ハニカム計画④
玄関のドアを開くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
春の空は眩しいほど青々と晴れ渡り、遠くから小鳥のさえずりが聞こえた。
良い天気だ。
ただ、四月初めの朝は思っていたよりも寒い。すぐそこまでだからと油断していたが、上着くらいきてくればよかったと少し後悔する。まぁいい。長居はすまい
俺は今や特級呪物と化した元カノからのプレゼント類やツーショット写真が入った段ボールを抱え、ごみ集積所まで向かった。歩くたびにガサゴソする音が地獄の窯から這い出て来ようとする怨念の権化のようで実におぞましい。
そんな忌々しいノイズにうんざりした気分で歩いていると、前方にどこかで見覚えのある後ろ姿を見つけて一瞬ピタリと歩みが止まった。
「先生……?」
思い出すよりも先に、無意識に言葉が出た。
視界に映ったのは、緑色のベストに白いシャツを着た白髪の老人と、老人が押す車椅子に乗っている白髪の老婆だった。
間違いない。先生だ。
「先生! やっぱり、板垣(いたがき)先生だ!」
今が早朝であることを忘れて声を上げると、その人はキョロキョロと辺りを見回して、ようやくこちらの方を振り返った。
先生と目が合うと、俺は軽く手を振って駆け足気味に二人の元へと近付いた。
「先生、おはようございます」
「んん……? あれ、君……」
「憶えてます? ほら、昔将棋教えてもらった……」
「あぁ……! そこの、伊藤さんちの……!」
「そう! そうです! 伊藤さんちによく遊びに来てた、古賀です! 古賀衣彦!」
「お~そうだ! 衣彦くん!」
「そうですそうです!」
「大きくなったねぇ。いくつになったんだい?」
「今年で十六になります。先生、俺もう高校生ですよ」
「ほぉ……そんなになったのか。男前になったね」
「いやいや、そんなことないですって」
先生はゆったりとした口調でお世辞を言いながら、俺をしげしげと見つめた。
厳密に言うと、先生は将棋の先生という意味で、普段は商店街の仲間たちと将棋をしたり、奥さんと美術館巡りをしたりなど充実した余生を過ごしているごく普通の一般人だ。
みずほ姉ちゃんの話によると、二、三年前に入院していたそうだが見たところ今は元気そうだ。俺が埼玉の方へ転校して以来ほぼ疎遠だったので、こうして久しぶりに会えたのが嬉しかった。
「お母さんも、俺のこと憶えてます?」
奥さんは車椅子に座りながら、俺と先生の会話をぼんやりとした様子で見ていた。
目が合うようにしゃがみこんで奥さんと視線の位置を合わせると、奥さんは表情を変えず、俺をじぃっと見つめた。
「あ~…………」
「忘れちゃいました? もうだいぶ会ってないですもんね」
「ごめんなぁ。うちの女房、去年から調子悪くしちゃって……その、物忘れが酷いんだ」
「え、そうなんですか?」
内心動揺しつつも、なるべく表情には出さないようにした。
「なぁ、母さん。憶えてるか? うちで将棋やってた子。衣彦くん」
「あー……」
先生が耳元で奥さんに語りかけるも、相変わらず上の空の返事だった。昔は板垣家に行くたびにお菓子や果物を振る舞ってくれた奥さんだったのだが、どうやら俺のことは忘れてしまっているようだ。
「じゃあお母さん、もう一度俺と友達になりましょうよ。俺、衣彦っていうんで」
しゃがみながら、奥さんの顔を覗き込むようにそう言うと、奥さんのおぼろげな目に、初めて光が宿った。
目を細めて、笑ったのだ。
「イヌ彦?」
ガクッと体勢が崩れた。
「違う違う! キ! キヌヒコ! 惜しいけど! イヌじゃない!」
「はっはっは……! いや、ごめんね。年寄りなもんだから耳遠くなっちゃって」
俺が慌てて否定すると、先生が皺の刻まれた顔をくしゃっと歪めた。その横で、奥さんも一緒になって破顔している。よかった。先生の言う通り、物忘れが多くなったのかもしれないが、笑い方までは忘れていなかった。
「全然気にしないでください。むしろ助かりますよ。俺、最近伊藤さんちの下宿に引っ越してきたんですけど、すっかりにぎやかになったもんだから、迷惑になってるんじゃないかと思って……」
「いやいや、大丈夫。でも確かに、最近になって久しぶりに下宿から声が聞こえてきたね」
「え、あ、はは……すみません」
しまった、気まずい。
『騒音』という単語を成層圏よりも厚いオブラートで包んで様子を窺(うかが)ってみたのだが、やはりあのゴキブリぶちまけ大騒動の騒ぎがお隣の家にまで漏れていたらしい。あの時はなんとかその場で事態を収束できたものの、万が一、下宿から先輩の飼っているタランチュラや外来種の奇虫が逃げ出したなんてことになったら、この罪のない老夫婦の日常に悪夢をもたらす事件に繋がりかねない。
今のうち何か対策を練っておく必要があるか……と思考を巡らせていると、視界の隅に人影が映った。
八頭身のすらりとしたシルエットと整った顔立ちで、遠目で見ても誰かはすぐにわかった。
「……げ」
潤花だ。
潤花は長い黒髪をポニーテールで束ね、肩から袖下にかけてパステルカラーの幾何学模様が入ったパーカーを羽織った格好でこちらに向かって走っていた。
胸がざわめき立った。
何でこんな朝早くから走ってんだよ……! 健康優良児か……!
理不尽を自覚しつつも最悪なタイミングで現れた潤花に、かつてノックもせずに部屋に入って来ようとした母親への怒りと同じ感情が湧いてくる。
俺は脇に抱えたパンドラの箱もとい元カノグッズを詰め込んだ段ボールをさりげなく持ち直し、潤花の位置から見えないように隠す。
完全に計算外だ。潤花と鉢合わせてしまった以上、黒歴史の処分は諦めて一刻も早くこの場を立ち去るしかない。
「あー……じゃあ先生、せっかく隣に越してきたんで、また今度ゆっくりお茶でも飲みましょう。お母さんも!」
「おぉ、また遊びにおいで」
「またね、ヒトシくん」
「衣彦ね!」
内心ハラハラしつつ踵を返し、板垣夫婦に向かってピースをしながらその場を立ち去る。
早く逃げなければ潤花に追いつかれる。焦燥感に背中を押されるように、早歩きで近くの角を曲がってから、歩くスピードをさらに加速した。
どうする。
回り込んで潤花をやり過ごすか、潤花より下宿に帰って何食わぬ顔で部屋にこもるか……いや、このまま下宿に戻ったら潤花やみずほ姉ちゃんに出くわす可能性もある。
それならいっそのこと、近所のどこかでこの段ボールを隠せる場所を探した方がいいかもしれない。いや待て。その前に、寒い。
「はっ──くしゅ!」
「大丈夫?」
「おわぁっ⁉」
俺は思わずその場で飛び上がった。
一瞬息が止まり、心臓がバクバクと破裂しそうなほど膨張と収縮を繰り返す。
声の主は言うまでもなく、潤花だ。
俺は思わず来た道を振り返る。
さきほど潤花のいた位置からは優に百メートルは離れていたはずだ。
それをわずか十数秒で追いついてきたはずなのに、息一つ乱れている様子はない。
「おはよ」
「……はよ。早──速いな……」
「なんか早く目覚めちゃって。天気良かったからとりあえず走ることにしたの」
脚力の感想だったのだが、わざわざ訂正はしない。俺は呼吸を整えてから表情を消し、平静を装った。馴れ馴れしいこいつに迂闊(うかつ)にこれ以上隙を見せてはまた面倒なことになりそうだ。
「上着くらい着てくればよかったのに。風邪引いちゃうよ?」
「どうってことない。なんだったらもう一枚脱いでもいいくらいだ」
「お願いだから今脱がないでね」
「脱がんわ」
鼻水が垂れてきそうだったので俺はさりげなく手の甲で鼻をぬぐうと、潤花はじーっと上目遣いの真顔で俺の顔を見ていた。
「衣彦はこんな時間に何してたの? さっき、私見て逃げたよね?」
「なんのことだ。俺も早起きしたから、久しぶりにこの辺りを探検してただけだ。お前なんか眼中にない」
「お前じゃなくて、ウル」
「はいはい。ウルウル」
「むー……」
潤花が不満げに目を細めたが、俺はぷいとそっぽを向いてそれ以上の追及を牽制した。
頼むぞ……あわよくば、そのままふてくされて帰ってくれ。
祈るような気持ちでいると、ふいに潤花のしかめ面がするりと緩んだ。
まずい。気付かれたか……⁉
「ケガしたところ、大丈夫?」
「当然。この通りピンピンしてる」
「ならよかった」
全然関係のない話題で俺もよかった。
「そういう、ウルは?」
「余裕っ。コンクリートブロックくらいなら簡単に叩き割れるよ。見る?」
「見ねぇよ」
「なんだー……っていうか、さっきから気になってたんだけど、それは?」
終わった。とうとう突っ込まれた。
潤花は俺の抱える段ボールを指さしながら興味深そうに聞いて来た。
当然の疑問だろう。春休みの早朝、まだ人の往来も少ないこの時間帯に、薄着で段ボールを脇に抱える男を見て不審に思わないやつなんているだろうか。しかし、俺だってバカじゃない。こんなこともあろうかと、あらかじめ考えていた言い訳を……言い訳を……忘れてしまった。
「……腐った、リンゴ……?」
「えっ。やめなよ、そんなの食べたらお腹壊しちゃう」
「食わねーよ! 捨てんだよ!」
「だって、確か今日って生ごみの日じゃなくない?」
「へ⁉ あ、えっと……」
誤算だ。ゴミ収集の曜日なんて全然把握していなかった。
付け焼刃の言い訳で墓穴を掘ってしまい、内心動揺する。
これ以上変なごまかし方をするとゴミではなくウソに収集がつかなくなってしまう。ここは大人しく過ちを認めて早めに話題を打ち切る方が得策かもしれない。
「そうか……じゃあ……持って帰る、かな」
「庭に捨てさせてもらったら? お姉ちゃんとみーちゃん、生ごみを肥料にしてるみたいだよ」
「こんなもん庭にばら撒いたら俺の高校生活終わりだろ! 殺す気か!」
「リンゴで⁉」
「これは俺にとって猛毒なの! かつて無垢でピュアだった少年に死の宿命をもたらした禁断の果実なの!」
「何言ってるのか全然わかんない! やっぱりバイクから落ちたときに頭強く打ったんじゃないの⁉ 散歩なんかより先に病院行こうよ! 病院!」
「だーかーら! 元気いっぱいだっつーの! こんなんで健康保険に頼ってたら保険料納めてる皆様に申し訳立たねーだろ! おら! 見ろ! ふんぬ!」
俺は手を差し伸べようとしてきた潤花から距離を取り、段ボールを片手に即興のダブルバイセップスとモストマスキュラー(ボディービルのポーズ)を見せつけて健在ぶりをアピールした。窮地に立たされた俺の鬼気迫るポージングに気圧されたのか、潤花は半ばドン引きの表情でその場から後ずさる。狙い通りだ。突然の逆ギレと話題のすり替えによってなんとか注意を逸らすことに成功した。その代わり人間としての何かを代償にした気がするが、今は気にしないでおく。
「わ、わかった。わかったけど、体調悪くなったらすぐ言うんだよ……?」
「こんなの余裕だ。とにかく、これは大変な爆弾だから、俺の方で処理させてもらう。腐って
も俺の心の肥料みたいなところはあるしな」
「えぇ……腐ったリンゴずっと置いとくの? やめなよ」
「いいんだよ。お前みたいな陽キャには関係のない話だ」
「……じゃあ、もういい」
あ。しゅんとした。
「えぇ……っと……」
自分から突き離しておいて調子のいい話だが、罪悪感がすごい。
潤花の表情から笑顔が消えただけで胸がズキンと痛んだ。
言い過ぎたか……いや待て。これはむしろ俺たちの関係性をはっきりさせておくためのチャンスだ。俺たちはたまたま同じ下宿に住むことになっただけの他人で、俺はもう女と関わりを避けたい。心配してくれる気持ちはありがたいが、こいつにあまり馴れ馴れしくされると、困る。
中途半端に情が移る前に、壁を作るなら今しかない。
……ような気も……しないでもない。
「そういえば、さっきのおじいちゃんとおばあちゃん、知り合い?」
「え? あ、おう。そう、知り合い」
あれこれ逡巡しているうちに潤花がすぐにけろっとした表情に戻ったため、面食らった。おかげでこっちの感情の整理が追いつかず、気持ちの切り替えに一瞬の時間を要した。
「板垣さんって言ってな。ずっと前から伊藤下宿の隣に住んでる夫婦で、俺やみずほ姉ちゃんたちのこと、子供の頃から知ってるんだ」
「へー、だから仲良さそうにしてたんだ」
「まぁな。将棋教えてくれたり、お菓子ご馳走してくれたり、夫婦で俺たちのこと本当の孫みたいに可愛がってくれたよ」
「いいね、そういう老後。憧れる」
「いいよな。別に結婚願望とかはないけど、あの二人みたいな年の取り方してみたいもんだよ。本当、友達みたいでさ。夫婦でよく台所に立って、お互いの作った料理を美味しいって褒め合ってたよ」
「そういうのすっごくいいよね! うちのお父さんとお母さんもそんな感じなんだけど、すごいなって思うもん。友達付き合いだって難しいのに、夫婦でずっと仲良くいられるなんて尊敬するよ」
「夫婦はさておき、お前だって仲の良い友達の一人や二人ならいるだろ」
「ううん、いないよ一人も」
「冗談」
「本当だって! 私、超短気だからすぐ喧嘩になるし、仲良かった子も怖がってみんな離れて行っちゃうんだもん」
「……ヤンキーなのか?」
「違いますー、売られた喧嘩買っただけですー」
「それにしたって何か、理由があるだろ」
「それもこれも全部、私が可愛すぎるから……!」
「そうか。じゃあな」
両頬に手を当てながらわざとらしくモジモジする似非(えせ)ぼっちを置き去りにして、俺は歩き出した。
「ちょっと! 待ってよー!」
潤花はすぐに追いついてきた。
すたすたと歩く俺の隣でぶつくさと文句を言いながら口を尖らせているが、顔の良さに注意を引きつけられていまいち内容が頭に入ってこない。同じ人種とは思えない美貌だ。顔が小さい。睫毛が長い。走って汗をかいているはずなのに、シャンプーか何かの良い匂いしかしない。なんなんだこの女。
「ねぇ、衣彦は彼女とかいないの?」
「いねぇよ」
「好きな人も?」
「いらねぇよ……!」
「そんな怒らなくっていいじゃん。私もそうだし」
「あっそ」
まるで同族みたいに言ってくるが、勘違い甚(はなは)だしくてイラッとする。
これだけ綺麗なんだから、こいつがその気になったら男なんて選り取り見取りだろう。
すべてを持っているくせに、何も持っていない凡夫の俺と対等だと抜かす。その特権者特有の傲慢な無神経さに腹が立った。
「もし衣彦に好きな人できたら教えてね。私、世界一応援するから」
「そういうお節介はもううんざりなんだよ。何でそんなに俺に絡みたがるんだ」
「幸せになるべき人の幸せを守るのが私の使命だからね。衣彦が将来あのおじいちゃんにとってのおばあちゃんみたいな人と一緒になるまで、潤花お姉ちゃんが衣彦のことを守ってあげるから」
「そんな将来は百パーセント来ないし、余計なお世話だ」
「何でー⁉ 諦めるには早過ぎるじゃん! これから一度きりの高校生活なんだよ⁉ 衣彦なら絶対かわいい彼女できるって!」
「そういう価値観の押し付けがもう面倒臭いんだよ。恋人や家族を作ることこそが人間にとって唯一の幸せで絶対的な正解みたいな風潮、大嫌いだね。一人でずっとゲームやって漫画読んでるみたいに自由気ままに過ごす人生だって幸せだろ。それに仲良い友達と将来も付き合っていけたら俺はそれで満足だ。ストレスを抱えてまで新しいものを手に入れようだなんて思わない」
「ふーん……そっか、衣彦はそういうのが楽しいんだ」
「…………」
潤花が興味深そうにうんうんと頷く。
てっきり反論されるかと思ったが、どうやらそこまでの熱意はないらしい。しかしいざそう簡単に納得されると、果たして本当にそうだろうかと自問自答してしまう。
俺の幸せの価値基準って、一体……。
「……ねぇ今度さ、衣彦があの板垣さんって人の家に行くとき、私もついて行っていい?」
「はぁ? なんでだよ」
「楽しそうだったから」
「嫌だよ。ウルは別に先生たちとは関係ないだろ。それだけの理由で連れて行きたくない」
「お願い! 私は黙ってそこにいるだけでいいからさ!」
「何しに行くんだよ」
「そりゃもう、幸せそうにしてる人たち見てるだけで幸せだからね、私。何もしなくたって、同じ空気吸ってるだけで本望なの」
「ぼーっとしてないでせめて何かしろよ」
「じゃあリンゴでも持っていって剥いてあげようかな。衣彦のだけそのリンゴね!」
「腐ったの食わそうとすんな! 殺す気か!」
俺が叫ぶと同時に潤花は笑い、電線に止まっていた数羽のカラスがカァと鳴いて空へと羽ばたいていった。
いつしか段ボールの雑音は、潤花への悪態でかき消されていた。
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