伊藤下宿の住人たち
愛原
プロローグ
床材、良し。
パネルヒーター、良し。
冷凍ピンクマウスの発注──良し。
これで頼まれたものはすべて揃えた。漏れはな いはずだ。
ヒヨケムシを飼い始めたばかりの頃は床材のヤシガラを誤食するのではないかという心配もしていたが、優希(ゆうき)先輩から『古賀(こが)くんだってお腹空いてても土は食べないでしょ?』と尻を叩かれたこともあって、今や給餌(きゅうじ)もケースの掃除も一人で難なくできるようになるまでに成長した。
ただ、今になって思い出してみるとあのときの発言、完全にバカにしてたな。
無意識に美化していた思い出の魔法がふいに解け、時間差で先輩への怒りがこみ上がってくる。
そんな小憎たらしい先輩からのおつかいを終えた俺は今、帰り道の商店街にあるハンバーガーチェーン店『DIGGY`MO-NALD』のレジの列に並びながら、手提げの紙袋の中身を一つずつ確認していたところだった。
平日にも関わらず店内はにぎわっていた。
キッチンからは油の弾ける音やけたたましく響く金属音がひっきりなしに聞こえてきて、カウンターでは俺と同年代くらいの学生を中心とした若い客たちがそれらの騒音を意に介さずメニューを眺めている。そこにはキッズセットのオマケに付いて来る人気アニメのミニフィギュアが大々的に宣伝されており、それを見て後ろに並んでいる母子連れの子供がわんわん喚いている理由がこれをねだって母親に怒られていたせいだとわかった。
カウンターのレジにはディギドのCMが再生されているタブレットが付属されていて、そこには国民的な人気アイドルユニット『Wake Up People』(通称・ウェカピポ)のセンターであるこばゆが軽快なダンスを踊っていた。
俺の前に並ぶ女子中学生らしき二人組はそれを見て可愛い可愛いと連呼しながらスマホを向けてはしゃぎ、横の列に並ぶ学制服を着た男子三人組もまた、同じ画面をまじまじと見つめて何やら神妙な面持ちで話し合っていた。
「さっきの髪長い子、こばゆに匹敵するレベルで可愛くね? 絶対こっち見てたよな? きっとあれだよ……俺に気があるんだよ」
「バッカお前、妄想も大概にしとけよ……俺だよ」
「なわけねーだろ常識的に考えろ……俺だ」
「は?」「おぉん?」「あのなぁ──」
『俺俺俺俺俺俺……‼』
シュババババ、と三人は宙に向けてパンチを連打し始めた。
なんて不毛な戦いだ。妄想がたくまし過ぎる。
しかしまぁ、わかる。わかるよ。君たちくらいの年頃ならみんな画面の向こう側の有名人やら街行く女子なんかを見てすぐ可愛いとか思っちゃうんだよな。うんうん。
だが……
「フン……」
腕を組みながら密かに鼻を鳴らす。
俺はお前らと違って知ってるんだよな。光の当たらない場所で、誰にも知られずに咲くもう一輪の花の美しさってやつを……。
やれやれと優越感に浸りつつニヒルな笑みを浮かべていると、先ほどのディスプレイの中で、
満面の笑みを浮かべながら両手でハートを作るこばゆと目が合った。
──いや可愛いな。
トゥンク、と胸が高鳴った。
いや待て…………
俺はおもむろにスマホを開いてそのCMを検索する。
サムネイルに表示されているのは、太陽のようにキラキラと輝くこばゆの微笑みだった。
やっぱ可愛いな?
俺はすぐさまその動画をお気に入りに登録した。
つい数秒前に店内で一輪の花がどうのとドヤ顔を浮かべていた男がいた気がするが、花はどこで咲こうと美しいに決まっている。まったく、了見が狭い。
……それにしても、笑った顔が本当にあいつそっくりだ。
画面の中のこばゆを眺めながら、慣れ親しんだ彼女の顔にふと思いを馳せる。
昨夜教えた英語の課題は無事に終わっただろうか。万が一、回答を当てられたときのために備えてリーディングの練習でも付き合った方がいいか……いや、そこまでするのはさすがに過保護か。小早川(こばやかわ)ならきっとやりたいと言ってくれるだろうが、あいつは優しいから俺に気を遣ってそう言ってくれる可能性もあるので安易な提案は避けたい。
「いらっしゃいませー! ディギモナルドへようこそー!」
声がでかいな。
いつのまにかレジの順番が回ってきた。
俺はこの声のでかい店員とのやりとりを一刻も早く終わらせるためにハイハイと食い気味に頷いて注文を済ませ、さっさと会計を済ませる。
まもなく出て来た二つのセットを受け取ってから、俺はおもむろにオマケの入った箱の中身を確認するフリをしながら後ろを振り向いた。
「これ、同じの持ってるからもらってくれない?」
「え……あ、ありがと」
先ほどギャン泣きしていた少年にその箱を手渡すと、大泣きしていた少年はピタリと泣き止んだ。しかし、その後ろでは母親が俺にお礼を言いつつも『余計なことをしやがって』と言いたげな目でこちらを見ていた。どうやら母親にとっては大きなお世話だったようだ。ハッピーエンドになれば良かったのだが、なかなか現実は難しい。
そんな一幕があったものの、窓際の席で一息つく頃にはアンニュイな感情はすっかりリセットされていた。
セットドリンクのメロンソーダで喉を潤し、ふぅっと溜め息をつく。この圧倒的解放感たるや。
あぁ……俺は今、この世界で誰よりも自由だ。
高校に入学してからというもの、下宿や学校でほぼ毎日のように下宿生の誰かと行動を共にしていたため、プライベートなんて皆無に等しかった。にもかかわらず、そんな貴重な一人時間をここで無為に消費するのはなんだかとても贅沢をしているような気がした。
「はぁ? 何? じゃあ今まで好きでもないのに付き合ってたってこと? クソ男じゃん。絶対別れた方が良いよ。ぜーったい幸せになれない」
「でも、優しいし、良い人だから……」
「本当に優しい人はそんな不誠実なことしないから。よく考えな? そんな関係は間違ってるし、周りにいる仲の良い人たちの誰にも応援してもらえないよ? そもそも彼女がこんなに悩んでるのに無神経に他の女と遊んでる男なんて彼氏としてっていうか、人間として最低じゃない? 地獄に落ちれば良いのに」
……勘弁してくれ。
バーガーに一口かぶりつこうとウキウキな気分で口を開けたとき、店内から聞こえてきた生々しい毒舌が胸に刺さった。いつぞやの悪夢を彷彿とさせる内容なだけに、俺に向かって言っているのではないかと疑いたくなる話だ。冷や汗をかきながら会話中の女子たちの顔を覗き見るが、幸いなことに他校の制服を着ている見知らぬ女子高校生だった。
疑心暗鬼に駆られるあまり食欲が一気に失せそうになったが、せっかく久しぶりにディギドに来たのだ。雑念を振り払って今この瞬間を満喫しなくては損である。
ごめんみずほ姉ちゃん……夕飯、ちゃんと残さず食べるから。
心の中で幼馴染みに謝罪しつつ、もう一度バーガーにかぶりつく。
「……んん?」
なんというか……あれだけ待ち焦がれていた念願のジャンクフードなのに、期待以上に美味くない。
こんな味だっただろうか? もう一口咀嚼してみるが、脂っこいだけで旨味がない。味が薄いというわけでもないのに……何だ? 最初からこんな味だったのか?
昔幼馴染みたちと来た時は冗談で塩が足んねーよ笑い止まんねーよと散々ケチをつけてきたこの店のバーガーだったが、それでも遊びに行く先々でこのチェーン店に立ち寄っていた記憶はある。これはもしかしたら日頃から美味い手料理をふるまわれているせいで並の外食では満足できない体質に調教されたせいかもしれない。伊藤みずほ、恐ろしい女よ……。
「あれぇ~? やっぱ古賀じゃ~ん!」
げ。
「おま、何だよそれ! ウケる! キッズメニューじゃん‼」
食べかけのバーガーを片手に戸惑っていると、見覚えのある男に声をかけられた。
小学校の頃の同級生・坂井(さかい)だった。
見慣れない制服を着ていた坂井は何故かシャツを第三ボタンまで開け、人目憚(はばか)らずにでかい声を出しながら笑っている。
こいつは大した取り得がないくせに兄貴がちょっと空手で活躍したというだけで謎の上から目線で他人を見下すので、クラス中の嫌われ者だった。こうして再会した今もその人間性がその頃から何一つ変わっていない様子に別の意味で感心してしまう。
「えー、それ一人で頼んだの?」
お前は誰だよ。
初手タメ口で突っ込んできたのは、坂井の腕にぴったり抱き着いている金髪の女だった。坂井と同じ高校らしき制服を着ており、やたら化粧が濃く、スカートが短い。校則どうなってんだと言いたくなるほど風紀の乱れた装いだが、おそらく坂井の彼女だろう。俺への対応を見るに、坂井の上から目線に便乗して俺を『格下』と思っていると見て間違いない。敵だ。
「別にいいだろ、腹減ってたんだ」
「それでガキ用のセット?」
「いいだろ。欲しくてもやらないからな」
「……久しぶりに会ったけど、お前やっぱ変わってんな」
胸元むき出しのやつに言われたくねーよ!
そう叫びたくなる衝動をぐっと堪える。
しかし当の本人は俺の尊い忍耐もつゆ知らず、隣にいる女と視線を交わしては俺に向けてクスクスと哀れみの嘲笑を浮かべていた。今この右手にサブマシンガンがあったらこいつらをくまなくハチの巣にしてから肥溜めに向かってバックドロップしていただろう。
「そういや古賀、今清祥(せいしょう)通ってんだって? 勉強ついていけてんの? イジメられたりしてないか?」
「イジメられてないし、成績も普通だ」
「へぇ、良かったじゃん。最近何か変わったこととかないの?」
ニタニタと嫌味ったらしい笑みで聞いてくる。
何を答えてもからかって来る気満々なのが透けて見えた。どれだけヒマなんだ。早く俺を解放してくれ。
しかし、ここで迂闊(うかつ)なことを言ってしまうとまた敵の思うツボだ。たとえ嘘をついてでもこいつの興(きょう)を削ぐような回答をしなければいつまでもここに居座られてしまう……が、なかなか良い答えが思い浮かばない。結果、
「…………カブトムシ飼い始めた」
『カブトムシ飼い始めた⁉』
失敗に終わった。
中途半端についた嘘が二人のツボにはまってしまった。
坂井と女は腹を抱えて笑っている。しかも、二人は通路のど真ん中を塞ぐ形でのけぞったため、そこを通ろうとしていた女子高生二人組が迷惑そうに顔をしかめていた。俺は坂井に向かって道を開けろとジェスチャーをするが、爆笑真っ最中の坂井はそれを意にも介さず、代わりに気付いた女の方が慌てて坂井を引き寄せ、道を譲った。バカ犬と飼い主のようだった。
「お前さー、もう高校生なんだから一人でそんな陰キャみたいなことしてないでもっと青春っぽいことしろよな。見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「……青春っぽいことってなんだよ」
「彼女作るとかさ」
「彼女……」
坂井にけしかけられてぼんやりと思い浮かべるのは、もっとも身近な四人の女子。
伊藤下宿の住人たち。
「いらねぇ」
「何でお前が選ぶ立場みたいになってんだよ!」
坂井がゲラゲラ笑いながら、再び身体をのけぞらせた。
しかし、タイミングの悪いことに、たまたまそこに先ほどの少年が通路を横切ろうとしていたため、坂井にぶつかってしまう。
「あっ──」
ドン、とぶつかった拍子に少年の持っていたドリンクのカップが手から落ち、落とした弾みでその中身が勢いよく坂井の足元に飛び散ってしまった。
「うわ! 冷て!」
「わー! めっちゃ濡れてる!」
慌てふためく坂井たちを見て、少年の表情が驚きから恐怖に変わる。
「あ……! あ、ごめんなさい!」
奥から事態に気付いた母親が慌てた様子で駆けつけきて謝ってきたが、それでも坂井の怒りは収まらない。
「おい! どーすんだよこれ! 弁償しろよ!」
坂井は子供と母親に向かって怒鳴る。
ここでようやく俺もスイッチが入った。
「ガタガタうるせーんだよ! お前が通路でバカみたいにはしゃいでっからそうなるんだろうが!」
鬱陶(うっとう)しさのあまり感情を殺していた反動か、思っていたよりも口調が荒くなった。
坂井は驚いた顔でその場で硬直した。
「拭いてるからそこどけ。通る人の邪魔だ」
まさかこんなに強く言い返されると思っていなかったのだろう。坂井は呆然としたまま俺の言葉に従い、それ以上は言い返してこなかった。
俺はポケットからハンカチを取り出して坂井のズボンを拭き、紙ナプキンで床にこぼれた中身も拭く。量が多くて紙ナプキンだけでは間に合わなかったため、その分はハンカチで拭き取ってようやく床の汚れはマシになった。さっきは俺を牽制していた母親も、今度は本当に申し訳なさそうな表情で作業を手伝ってくれた。
「あ、もう大丈夫なんで。それとこれ、良かったら代わりに」
ひとしきり落ち着いてから、俺はまだ口の付けていなかったキッズセットのドリンクを少年に渡す。
何か言いたそうに唇を噛みしめている少年は、なんと言っていいのか言葉に迷っている様子で、泣きそうな顔だった。
俺はしゃがみながらにっと笑ってピースサインをする。
「ほら、遅くなる前に早く帰りな」
「あの、本当に──」
「あーいいっすいいっす。周り見てなかった俺らも悪いんで」
バッグから何かを取り出そうとする母親を慌てて制止して、俺はさっさと親子を帰した。
その間、坂井はずっと何か言いたげに舌打ちを続けていたが、ガン無視を決め込み、その横で坂井の彼女はおろおろと俺と坂井に視線を往復させていた。
「お前がクリーニング代払えよな」
親子の後ろ姿を見送ってから、坂井がこんな悪態を吐いた。
一呼吸置いてから、俺は大きく息を吸う。 多少は我慢していたが、もともとそんなに俺の気は長くない。
「いや、言っておくけどそのズボン最初っから汚かったからな? あちこちシワだらけだしフケみたいな白い粉付いてるし、俺んちで飼ってるカブトムシの同じ臭いしたぞ。そんなズボンでデートに来てこの子に失礼だと思わなかったか? 俺は思うけどな。可愛い彼女がせっかくオシャレしてきてくれてるんだから、自分もちゃんとした格好しようってさ。あー、でもあれか。いっつもママが洗濯してくれるから洗濯機の使い方わかんないか。仕方ないよな。自分で掃除もできない僕ちゃんだもんな」
わざと声を大きくして言ってやると、周囲からクスクスと笑い声が漏れた。
隣にいる坂井の女も、顔を背けて唇を噛みしめていた。
それを横目に見た坂井は顔を真っ赤にしてこめかみに青筋を浮かべた。
「っのやろ……!」
「ねぇ、ちょっと、やめなよ……!」
「っせぇな! 離せ!」
怒り心頭になっていた坂井は、彼女の制止の振り払おうと手を上げる。しかし、あろうことかその手は彼女の顔に当たりそうになったため、俺は咄嗟に手首を掴み、ギリギリのところでそれを止めた。
「他人のこと笑うやつに限って自分が笑われると怒るんだよな」
狼狽(ろうばい)する女に向かってわざとそう言うと、坂井の顔がみるみる内に赤くなっていった。
来るなら来い、やってやる。
わざと坂井に向き直り、顔を近付けて睨む。
先に一発でも殴らせておかないと正当防衛の言い訳が立たない。
俺はゆらりと歩幅を広げ、いつでも反撃できる体勢を作る──と、
「あーあ、いっけないんだー」
すぐ横から声が聞こえた。
「──っ⁉」
その場にいる全員が息を呑んだ。
不意の闖入者(ちんにゅうしゃ)に意表を突かれたからというだけじゃない。
目の前に現れた制服姿の少女に、目を奪われているのだ。
「……ウルか」
「こんなところ寄って、晩御飯入らなくなっても知らないよ?」
子供のようなあどけなさと女優のように凛とした佇まい。その二つを同居させながら、少しの邪気もない微笑みでこちらを見つめているのは、俺と同じ伊藤下宿で暮らす下宿生・美珠潤花(みたまうるか)だった。
目鼻立ち通った小顔に惹き込まれるような杏眼(きょうがん)。青みがかった幻想的な色艶(いろつや)の長髪を纏(まと)うスレンダーなシルエットは作り物かと疑いたくなるほど完璧なプロポーションで、さっきまで怒りの感情に満ちていたはずの坂井は半ば放心状態で潤花に釘付けになっていた。力が緩んでいたので手を離してみると、坂井の腕は油圧式の機械のように静かに下りた。
「遊んでから帰るんじゃなかったのか?」
「可憐(かれん)がお婆ちゃんの体調が悪くなったって言って帰ったから、また今度になったの。で、帰りに喉乾いたなーって思いながら歩いてたら外から衣彦見えたから、私に貢がせてあげようと思って」
ドリンクのカップを片手に茶目っ気溢れるウインクをしてくる潤花。まるでアイドルみたいな仕種だったが、俺はそれを冷たくあしらう。
「乞食(こじき)」
半眼でそう返すと、隣のバカップルはぎょっとした表情で俺の顔を見た。何故か焦っている。まるで不敬罪を犯しているかのような視線だ。
しかし当の潤花は俺の憎まれ口に対してフフンと余裕の笑みを浮かべ、勝気な態度でこう言った。
「日本書紀」
「古事記じゃねぇよ」
即答のツッコミに対して潤花はあっはっはと大笑いして俺の肩を叩いた。自分で供給したボケで誰よりも笑っている。アクロバットな自給自足だ。元ネタをわかっていない様子の坂井たちは未だに口を開けたままぽかんとしていたが、潤花が坂井と目を合わせると、坂井は戸惑いつつも口角を上げていた。
「衣彦の友達なんだよね? 私も一緒に座っていい?」
「あっ、おう、あ、おう! なんだよ衣彦、待ち合わせしてたのかよ!」
破顔一笑。坂井はオットセイみたいな声を出して急に表情をほころばせた。情緒が心配になるほどの変わり身だ。そんな坂井の調子の良さに呆れていると、隣にいる女は般若のように鋭い目つきで坂井のことを睨んでいた。
「私、帰る」
「はぁっ? 何でだよ。まだ何も頼んでねーじゃん」
「触んないで!」
「ってぇな! おい!」
坂井が半笑いで彼女の手を掴むと、彼女はさらに眉間に皺を寄せ、坂井の手を振り払った。
「私が来たせい? いいよ、私の方が帰るから」
「いい……!」
潤花の進言に鋭い目つきを返す女。
そして女は無言で歩き出し、肩を怒らせながら出口へと向かっていた。
その後ろを追いながら坂井が何やら説得しているようだったが、女はガン無視を決め込んでいるらしく、坂井に一瞥(いちべつ)もくれずにそのまま立ち去っていった。
「やっぱり私のせいだね、あれ」
「あんなの自業自得だろ」
自分のせいと言うわりに、潤花の表情に悪びれた様子はない。
ストローに口をつけながら涼し気に二人の後ろ姿を眺める潤花の横顔は、それだけでも絵になっていた。
「っていうか、こうなることをわかってて来たんじゃないのか?」
「だって、衣彦の昔話聞きたかったんだもん」
「そんなのいつでも聞けるだろ」
「嘘だぁ。聞いたって教えてくれないじゃん」
「教えてやるって。まずおばあちゃんが川で洗濯してるときに、大きな桃がどんぶらこどんぶらこ──」
「いやそっちの昔話じゃなくて!」
肩を揺らして笑いながら、潤花は当然のように隣に座り始め、俺を席の奥側へ追いやった。何でわざわざ隣に来たんだと思ったが、潤花にしてみれば下宿の食卓で慣れた俺の右隣の方がしっくりきているのかもしれない。
「それ、美味しい?」
「あと全部やるよ。思ってたより美味しくなかった」
「美味しくしてあげよっか?」
「ハッ○(ピ)ーターンの粉でもあるのか?」
潤花はにやっと笑みを浮かべ、ポテトで宙にハートを描く。
どこかで見た事ある仕種だと思ったら、さっき見たディギドのCMの振付けだった。
「はい、あーん」
「っ……!」
なんとなく予感はしていたものの、いざ本当にやられると動揺してしまう。小っ恥ずかしくて顔が赤くなりそうだ。
潤花はにまにまと挑発的な笑みを浮かべながら首を傾げている。完全にからかっている。
俺は内心を悟られまいとあくまでポーカーフェイスを貫きながら、潤花に差し出されたポテトを途中からちぎって自らの口に運んだ。
「ひっどーい! 衣彦が乙女の純情弄(もてあそ)んだー! 商店街のみなさーん! ここに! 最低な! 男が! いまーーっす!」
「おいやめろバカ! 楽しそうに被害訴えてんじゃねーよサイコパスか!」
やっと落ち着いたと思っていたら、今日一番のモンスターが本性を現した。
俺は慌てて潤花の口を塞ごうとするが、潤花はキャハハハハと狂人のような笑い声を上げながら俺の両手首を掴んで抵抗した。万力に締め付けられたように痛い。冗談抜きでこいつはすごい握力なのだ。マジで痛い。
「慰謝料にこれ、もらうから」
俺をからかうのにも飽きたのか、やがて大人しくなった潤花は一言も良いと言ってないのにキッズセットの残りを勝手に食い出した。もともと一人で食べるにはしんどい量だったので助かると言えば助かるが、こいつはやることなすこと自由過ぎてまるでガキ大将だ。俺の周りってこんなやつばっかりだな……と、半ば呆れながらため息を吐く。
「まぁまぁ美味しいじゃん」
ウソだろ、と言いかけるが、余計なことを言って残されても困るので言葉を飲み込む。
坂井との絡みでただでさえ疲れているのに潤花の悪ふざけにまで付き合わされて無駄にメンタルが消耗してしまった。
俺は嘆息して再びメロンソーダを飲むと、店内のあちこちからチラチラと視線が向けられていることに気付いた。先ほどは潤花に注目が寄せられていたが、今度は俺に対してだった。
軽薄で、物珍しそうな、好奇の視線ばかりに見える。
「…………」
「眉間に皺寄ってるよ。どうしたの?」
潤花に指摘されてはたと我に返る。
「いや……青春ってなんだろうなって考えてた」
「漫画のセリフみたいなこと言うね。何か悩み事?」
「別に、悩んでなんてない。ちょっと気になっただけだ」
「今してるじゃん。青春」
「は? 今?」
「学校帰りにディギドでだべるなんて、青春じゃない? 私はそう思うけど」
「……そうか?」
「うん。そもそも私、下宿入るまでこういうことしたことなかったから、今すっごく楽しいよ」
「あー……なら、まぁいい」
腑に落ちなかった。
こんなことは、特別でもなんでもない。
青春っていうのはもっと明るく輝いていて、憧憬の眼差しが向けられるような存在のはずだ。そしてそれはどうしてか不平等で、必ずしも誰にでも訪れるものじゃない。訪れているようで、実際は辛い思いをしている少女もいたし、深いことなんて絶対何も考えずに生きているであろう坂井にだって、青春はあった。
けれど、潤花にここまで真っ直ぐな目でそう言われると、不思議と信じてしまいそうになる。
こんな近所のファーストフード店の中にも、それがあるのかもしれないと。
──騙されないようにしなければ。
「何でそんなこと聞くの?」
「いや、もう何でもない。それよりウル、知ってるか? これは俺がスキンヘッドだった頃、姉ちゃんの友達から聞いた話なんだけどな……」
「待って待って。今すぐスキンヘッドの話に戻って。前置きの主張強過ぎ」
それから俺たちは他愛ない話ばかりした。
両親が引っ越し先のマレーシアの屋台で食べたチャーハンを絶賛していたら、ある日その屋台の親父が大量の冷凍チャーハンを買っている現場を目撃してしまった話。
みずほ姉ちゃんがお魚をくわえたドラ猫を裸足で追いかけるという奇跡の現場を見た話。
カップル割引のあるカフェに小早川と優希先輩とで連日別々で行ったら、店員から信じられないカスを見るような目を向けられ俺だけ冷たい接客をされた話。
どれも取り留めのない話題で、喋るのはずっと俺ばかり。潤花はそれに適当な相槌を打って笑って、驚いて、突っ込む。
それが下宿にいるときと変わらない、俺たちのいつもの会話だった。
「そろそろ行こっか」
話しの区切りが良いところで、潤花が腕時計を見た。
気が付けば、あれだけあったポテトとバーガーがなくなっていた。
不味くて躊躇していたのに、だらだらと話している間にいつのまにか平らげてしまったようだ。
潤花の言葉を合図に、俺たちは席の後片付けをして席を立った。
その途中、壁際の窓ガラスの向こうで、じっとこちらを見ている視線の気配に気付いた。
何かと思ったら、さっきの少年が母親の前を歩きながら、俺の方を向いて遠慮がちに手を振っていた。俺も手を振り返した。
「そういえば」
少年に気を取られていると、数歩先を歩いていた潤花は前を向きながら言った。
「さっきの子のこと可愛いって言ってたの、本気?」
さきほどの坂井とのやりとりが聞こえていたらしい。
俺は潤花の後ろ姿に向かって首を振った。
「なわけないだろ。ただの煽りだ」
「そっか」
そっけない即答に、そっけない返事。
それだけだった。
潤花はそれ以上の追及をすることなく、鞄から取り出したリップクリームを塗りながら、淡々と話し続ける。
「『計画』の約束、忘れてないよね?」
「おう」
「もし衣彦に好きな人できたら、一番最初に私に教えてね」
「……憶えてたらな」
即答できなかった。
潤花は鞄にリップをしまいつつ、まるで俺の反応を見透かしていたかのように、顔だけこちらを向いて、どこか満足そうに微笑んだ。
「うん。憶えてたらでいいから」
やがて出口まで辿り着くと、自動ドアの扉が開いた。
「衣彦も大変だもんね」
そして潤花は店の外へ一歩踏み出すと、こちらに向かって踵を返した。
「彼女が四人もいたらさ」
そう言いながら潤花が振り向くと、手元の鞄から、とぷん、と液体の弾む音が聞こえた。
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