◆5-7
そうして、日曜日の朝が来た。
モカは、今までで一番大人しかった。『借りてきた猫』みたいってよく言うけど、本当にそれだ。……借りてきた、になっちゃうのかな。
朝ご飯も黙って食べていた。
チキはそんなモカのことが気になって仕方がない。チラチラチラチラ、わかりやすすぎる。
でも、ハチさんも気にしているのはわかった。トラさんだけはいつも通りかな。
「……さてと」
約束の十時が近づく。今回はもう、佐田さんの家がわかるから、公園で早瀬さんと待ち合わせたりしない。
「そろそろ行こうか」
僕はキャリーケースを部屋の中央に置き、戸を開けた。モカはそれをじっと見ていて、それから無言のままに中に入った。
にゃっ。
チキが狼狽える。もう行くの? って寂しそうだ。
それに対し、モカは何も言わない。キャリーケースの突き当りに行き、そうして丸くなった。
僕はなんとも言えない気持ちでキャリーケースの戸を閉めた。その持ち手をつかんで持ち上げる。モカの重量なんてあってないようなものだ。キャリーケースが重たくなった気すらしなかった。
「皆、行ってくるよ。留守番をよろしく」
にゃあ。
トラさんが軽く返事をする。ああ、行っておいでって。
さすがにトラさんは猫生経験が豊富なだけあって、少々のことでは動じないな。
僕の方が
だけど、モカが自分でここにいるって言わない以上は駄目なんだ。
複雑な気持ちを抱えたまま、僕はアパートを出てミニバンにキャリーケースを積んだ。僕からモカに言えることはなんだろう? こんな時は本当にわからない。
お母さんとのサヨナラ。
うちの皆とのサヨナラ。
どっちもモカにとっては悲しいことなんだろうか?
「……じゃあ、少し揺れるけどすぐに着くからね」
結局、そんな当り障りのないことを言ってから僕は運転席に座った。今度は公園近くのパーキングじゃなくて、佐田さんの家の近くのコンビニに少しだけ停めさせてもらうことにした。そんなに時間はかからないはずだ。ただ停めるのも悪いから、帰りにコンビニ弁当くらいは買おうかな。
僕はキャリーケースを抱え、佐田さんの家に向かった。前に来た時と同じ赤い軽自動車が停まっている。僕はインターフォンを押した。
ピンポーンと軽快な音がして、すぐに戸が開いた。開けてくれたのは早瀬さんだった。今日は白いブラウスに淡いブルーのロングスカート。やっぱり清楚だなぁ。
「こんにちは」
僕は笑顔で挨拶をした。早瀬さんも笑顔で返してくれる。
「こんにちは、犬丸さん。モカの様子はどうですか?」
玄関から続く廊下に、佐田さんが母猫を抱っこして立っている。顔がニヤニヤ笑いだった。……何? 僕の顔に何かついてる? 早瀬さんにデレッとしたのがバレた?
でも、そのニヤニヤ笑いは早瀬さんに向いていた。
「モカって名前にしたんだってね?」
「あ、はい。この間の帰り道に早瀬さんにつけてもらいました」
すると、何故か早瀬さんはちょっと慌てた。
「と、とっさでいいのが思いつかなくて!」
佐田さんはさらなるニヤニヤで言う。
「まあいいんじゃないの、
うん?
僕が首を傾げると、早瀬さんは顔をカッと赤くした。
「お、お姉ちゃん!」
佐田さんは堪らなくなって噴き出した。
「犬丸さん、この子の下の名前を知らなかったの? この子、
モモカ、さん。だから、モカ?
なんでだか、早瀬さんはすごく恥ずかしそうだ。可愛いんだけど。
「どっちも素敵なお名前ですね。そうかぁ、モカは早瀬さんから名前をもらったのか。モカはとってもいい子にしてましたよ」
僕はキャリーケースの戸を開けた。
……モカの大人しさに皆びっくりしていたのかもしれない。それは母猫もだ。にゃあと鳴いている。
顔を見せて頂戴って。
すると、モカはキャリーケースの奥から手前に来た。僕はそんなモカを抱き上げてキャリーケースを
「あら、大人しい」
佐田さんも驚いている。まあ、一週間前のことを思えばそうだろうね。
さあ、モカはどうするつもりだろう。
こうして生まれた家に来て母猫と顔を合わせたら、もう戻るとはなかなか言えないかもしれない。そうだとしても、モカなりに色んなことを考えたはずだ。それならこの出会いは無駄じゃなかったかな。
まあ、僕が手ぶらで帰ったらチキは落ち込むだろうな。またご馳走で宥めるしかない。
なんてことを僕が考えながらドキドキしていると、モカはにゃあと鳴いた。
あたし、またどこかへやられちゃうの? って母猫に向かって訊ねた。
母猫は言葉に詰まっていた。モカは母猫を責めるつもりで訊ねたわけじゃないようだけど。
母猫はしょんぼりと、いつまでも一緒にっていうのはとても難しいことなのって、答えていた。できればいつまでも一緒にいたい気持ちはあるんだ。それでも、難しいっていう現実を知っている。
モカは、にゃあと鳴く。
そう、わかったわって。
続けて言った。
あたし、この人の家の子になる。お姉ちゃんたち皆がそうしたように、あたしもママから離れて一人前になる。だから、心配しないでって。
……ああ、モカなりに母猫が自分を心配してくれていることをちゃんとわかったんだな。
最後に自分の寂しさを押し隠して立派なことを言えた。幼いながらのその心意気に僕は目頭が熱くなったけど、ここで泣いてたら変な人だと思われてしまうから、グッと涙を堪えた。
そうして、僕は佐田さんに言った。
「あの、うちの猫たちともモカは仲良く過ごせていたんで、これなら大丈夫だと思うんです。このまま引き取らせて頂いてもいいですか?」
すると、佐田さんだけじゃなく、早瀬さんも嬉しそうだった。
「ええ、そうしてもらえると嬉しいわ。これからも犬丸さんの猫カフェに行けばモカに会えるのよね?」
僕は思わず笑った。
「そうなりますね。でも、それがなくてもまたモカを連れてお邪魔しますよ。お母さん猫もたまにはモカに会いたいでしょうし」
「あら、なんて優しい。よかったね、スモモ」
お母さん猫はスモモさん……。
にゃあ。
ありがとうございます、とスモモさんも喜んでくれた。
ようやくほっとひと息つけた。
これで家に帰っても皆から責められずにいられそうだ。いや、責めているわけじゃないんだろうけど、チキの目が切なくてつらいから。
「じゃあ、そういうことで」
「犬丸さんの猫カフェ、オープンしたら絶対に教えてね」
佐田さんに念を押された。お客さんが二名確定だ。
「ありがとうございます。精一杯おもてなしさせて頂きます」
僕がというより、猫スタッフの皆が。
そうして、モカをキャリーケースに戻してから佐田さんの家を出た。早瀬さんが外まで見送りに来てくれた。いや、自分も帰るつもりなのかな。
「早瀬さん、今日も車ですか?」
「あ、はい」
「どこに停めてあります?」
なんならそこまで送ろうかなって思った。もう少し喋りたいだけとも言う。
そうしたら、早瀬さんはとても言いづらそうにすぐそばにある赤い軽自動車を指さした。
「ここに……」
この車、この間もここにあったよな? あれ?
……なんか、あんまり深く思い出さない方がいい気がしてきた。アホなことを言ったかもしれない。
僕が慌ててポケットからキーを取り出そうとしたから、誤って運転免許証まで落としてしまった。
片手にキャリーケースを持っている僕より、早瀬さんの方が素早くそれを拾った。
それは親切心からだっただろう。そこは間違いない。
でも、僕は心で叫んでいた。大絶叫していた。
早瀬さんが僕の免許証を見てしまったからだ。
「そういえば」
と不思議そうに小首を傾げる。僕の体中から冷や汗が噴き出した。
「犬丸さんのお名前って、なんて読むんですか?」
来たよ。ほら来た。
自分で言うのもなんだけど、僕の名前はすごい。
『虎』と『龍』って書く。
犬丸虎龍。
それが僕の名だ。
言いたくはないけど、早瀬さんの問いかけを無視するわけにもいかない。僕は心で泣きながら答えた。
「コタツ、と……」
字面はすごいのに、音にすると大体笑われる。
『
真冬に嬉しいあったかいコタツだ。
今に早瀬さんが噴き出すかと、僕は身構えた。でも、早瀬さんはゲラゲラ笑ったりはしなかった。
優しい微笑で言ったんだ。
「ああ、どうりで猫ちゃんたちと相性がいいわけですね」
…………あの、好きです、とか口走りたくなった。
もう、笑わないでいてくれただけで嬉しい。
やっぱり早瀬さんは素敵だ。
「あの、カフェをオープンする時には絶対に連絡を入れますから、ぜひいらしてください。サービスしておきますから」
サービスってなんのだ。浮かれた僕の発言は自分で言っておきながら意味がわからない。
それでも早瀬さんは笑顔でうなずいてくれた。
「ありがとうございます。必ずお邪魔しますね」
そうして僕は早瀬さんと別れ、浮かれながら車を運転して家に帰った。
モカが正式に仲間に加わることで皆も喜んでくれるだろう。
「ただいま!」
僕は上機嫌で家の戸を開けた。
入り口でずっとそわそわしながら待っていたのはチキだ。ハチさんとトラさんは落ち着いて丸くなっている。
にゃっ!
モカ! って呼びかけている。キャリーケースを開ける前からチキには匂いでわかったのかもしれない。嬉しそうに飛び回っている。
すると、トラさんがクールににゃあと鳴いた。
最初からこうなることがわかっていたからねって。
トラさんは、モカがこちらを選んでくれるって確信していた? だからあんなに動じてなかったのか。さすが猫又手前……。
僕がキャリーケースを部屋に置き、戸を開けると、中からもじもじとモカが出てきた。
いつもよりもしおらしく、にゃあと声を上げる。
これからよろしくねって。
「うん、よろしく。モカ、これからは皆で頑張りながら楽しく過ごそう」
すると――。
ところで『テンチョ』って何? とモカが訊いてきた。
僕は苦笑する。
「店長っていうのは、猫カフェの責任者ってこと。一応世間的には僕が皆の飼い主でもあるんだ」
モカにはちょっと難しかったかな?
ちょっと首を傾げると、ボソッと言ったんだ。
コタツがテンチョ? って。
「…………」
早瀬さんと二人っきりと思っていた僕は、キャリーケースの中にいるモカのことを忘れていた。
にゃあ?
コタツってなんだい? 炬燵好きなトラさんが耳をピコンと動かす。
「い、いや、そのっ」
しどろもどろになった僕に構わず、ハチさんがにゃあと告げる。
店長は犬だと。……それも違う。
モカはにゃあ! と僕と早瀬さんとのやり取りを告げ口したのだった。
僕のなけなしの威厳が吹き飛んだようで、ちょっとヘコんだ。
それでも、皆が楽しげにしているからよしとするべきだろうか……。
*To be continued*
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