14.『薄皮の餃子』
特に食へのこだわりを持ったことがない。
こだわりを持つほど沢山の料理を食べたことがない、というのが正解だろうか。味の善し悪しなんて分からないし、そこに使われる食材に大それた興味もない。ゲテモノは別だが。ようは気軽に美味しく食べたい、ということだ。ナイフとフォークの扱い方にあくせくしながら食べる高級フレンチと立ち食いそばだったら後者を選びたい。それだけのこと。
面倒なときはバランス栄養食でも事足りる。あれで結構美味しいからだ。だから近頃は食への関心がますます薄れつつあるように感じていた……だのに今日は中華料理屋なんかに、わざわざ足を運んでしまっている。
訳はある。
なにやら駅近に美味しい中華の店がある、と。行列ができるほどではないがいつも満席で、なかなかどうして穴場のようだ、と。小耳に挟んだのだ。
いつもならそんな噂に流されて、まんまとやって来たりはしなかっただろう。ほんの気の迷い。狐につままれたのだ、騙されたと言ってもいい。──なぜこうも被害妄想的なのかというと、この店に来たことを後悔しはじめているからだ。
立ち入った店内は、確かに満席の様子であった。ただしその客たちの背中の暗いこと。穴場だけあって随分日当たりの悪い店のようで、外は天気だというのにもう照明が付いていた。弱い明かりのそれは、時折ヂカヂカと点滅する。中華らしい回転テーブルの朱色も、この暗がりの中では荒廃した雰囲気に拍車をかけるだけだった。
四隅にホコリでも溜まっていそうな清潔感の足らなさは人気とは無縁のような気がしたが、ひとまず餃子を頼んだ。仮にも中華料理屋なのだ、餃子なら間違いないだろう。
果たして届いた餃子は、いたって普通の餃子であった。
立ちのぼる湯気はあたたかで、まさに作りたてであろうことが分かる。薄皮が売りらしく、一枚の白の裏側に肉と茹でた野菜の色が透けて見えた。しっかりと黒みがかった茶色の焼き目がついているが、そこ以外は女の肌のように柔らかく、掴めば箸先が沈んだ。ハリのある皮に歯を立てる。
ああ、うん。うまい。
いたって普通に。口の中でほろりと味と熱が崩れて、すぐに二口目を運ぶ。不味くないことに安堵して、水も飲まずに二つ食べた。三つ目をかじったところで、上顎の一部がザラザラすることに気が付いた。熱いものをいそいで食べてしまったせいか。
やけどを誤魔化すために水を飲んで、再び箸を持ったが、皿の上に妙なものを見た。
食べかけの餃子から溢れる肉汁が、赤い。
油を含んだ半透明に混ざっている赤は、ツンとした香りをまとっていた。今の今まで感じていなかったそのにおいは、食欲を誘う肉汁の香りを押しのけて鼻に違和感を届けた。公園の古ぼけた遊具に近付くと香るにおいに似ている気がした。手についた
肉汁はとめどなく流れ続けていて、皿に水溜まりを作って、赤もそこで滞留していた。粘度が違うので、うまく溶け合わずに細く糸を引いていた。よく見ると、その一つだけではなく、他の餃子にも赤が透けているようだった。この赤は、全ての餃子におそらく含まれているのだ。
左右の客を見、後ろを振り返って店の客たちを眺める。
黙々と、あるいは連れと談笑しながら、薄灰色の空気の中で一様に箸を動かしている。餃子を口を運ぶ。その客の皿にも赤が広がっていた。が、まるで気にしない。とある女の客が餃子をかじった拍子に、その唇のはしから赤が溢れ、顎を伝った。赤にまとわる肉汁は顎を濡らし、赤はその軌跡を伝うように筋を描いた。女は、わずらわしげにそれを指で拭う。指を拭いた紙ナプキンが赤く染まる。
誰も騒ぎ立てることはない。赤を見ても、何も言わない。厨房からは湯気が漏れ出て、また新しい餃子を作っている。にわかに暗い店内で客は食指を動かし続けている。
なので、そうすることにした。
半身を削られた餃子を口に放る。冷めてしまう前に、全部食べよう。
『薄皮の餃子』/終
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