第21話 熱くて甘い応援

 

 2人が心を通わせた、二週間後。

 ウェンディの書斎の椅子を、イーサンと共有する形で座っていた。共有……というより、正確には彼の膝に座っている。


「あの……! そろそろ離してくれませんか? もう家庭教師の先生が来る時間なので」

「へぇ。ウェンディは熱心なファンであり夫でもあるこの僕より、家庭教師を優先するのか? 愛する僕との甘いひとときと妃教育、どっちが大事なんだ?」

「妃教育です」

「…………」


 ばっさりと斬り捨てるように即答し、ウェンディを拘束する腕を解こうと身じろぐ。


「全く。つれないな。……せっかく両思いになれたというのに。もっと構ってくれたっていいんじゃないか?」

「もう充分……構ってるじゃないですか」


 子どものようにむっと頬を膨らませて拗ねるイーサン。彼の頭に、子犬のようにしゅんと垂れる耳の幻が見えた気がする。


(駄目よ、駄目! 惑わされちゃ……)


 今日だって、朝早くから仕事をしていたウェンディの元にやって来てずっと傍にいたのに、これ以上どう構えというのだろうか。

 すると、彼の手が伸びてきて、頬に添えられた。目を細めた甘ったるい表情で見つめられ、ウェンディは恥ずかしくなって目を逸らす。


「まだ――全然足りないよ」


 壊れ物を扱うかのように、優しく親指の腹で頬を撫でられる。温かくて、少しだけくすぐったくて、どこか心地がよい感覚。すっかり絆されたウェンディは身を委ねるように、手に頬を擦り寄せた。


(……ああもう、またレッスンに遅刻しちゃう)


 両想いになって、イーサンは何かのタガが外れたようにウェンディのことを甘やかすようになった。その溺愛っぷりに、ルイノを含む使用人たちも呆れるほど。ウェンディはただ、注がれる愛情を受け入れることしかできなかった。


「私もずっと一緒にいたいですけど……勉強するのは、イーサン様のためでもあるんですから。我慢してください。あ、それと――朗読会にはもう来ないでください」

「どうしてだい? ノーブルプリンスマンだったときはあんなに歓迎してくれたのに」


 ウェンディの頬を弄ぶ手をぴたりと止め、ショックを受けた顔をする彼。


「プリンスマンさんはファンのひとりでしたけど、イーサン様は正真正銘、この国で最もノーブルなプリンスなんですから!」


 客の関心が全部奪われてしまうので、自分の立場を考えてほしいと訴える。イーサンは何の変装もせず、ありのままの第3王子として、大層豪奢な馬車に乗ってウェンディの朗読会に来た。そして、瞬く間に読者を奪われることになった。


 ウェンディはイーサンの膝から降りて、営業妨害ですと指を差した。


「ならまた、変装をして身分を隠そうか」

「こんなに近くにいるから必要ないじゃないですか。朗読会に来なくたって、イーサン様のためだけにいくらでも物語をお聞かせしますよ」

「そんなことまでしてもらえるのか。……僕は果報者だな」


 喜びを噛み締めるように頬を緩めるイーサンが、愛しく思えて仕方ない。

 そのまま彼の両肩に手を置き、口付けをしようとそろそろと顔を近づけていく。紅潮したウェンディが何をしようとしているのか理解した彼はわずかに目を見開く。


「目、閉じてください」


 しかし、唇が触れそうな距離になっても彼は目を閉じず、ウェンディの背後を見て苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……どうかしました?」

「えっと……うん。あなたの親愛なる家庭教師、リズベット夫人が怖い顔をしてこっちを見てるよ」

「――へ?」


 イーサンに指摘されて振り返ると、腕を組んで仁王立ちし、額に怒筋を浮かべたリズベットがそこにいた。

 ウェンディはイーサンの肩からばっと手を離し、降伏するように両手を掲げたままずるずる後ろに後ずさる。


「あの……その、ええと……」

「夫婦の仲がよろしいのは結構ですけど、わたくしを何分待たせれば気が済みますの……?」

「ひっ、違うの……これは……訳が――」


 ヒールの靴音を鳴らしながら迫るリズベットから庇うように、イーサンが間に入り自分の責任だと弁明する。


「事情は関係ありませんわ。今日という今日は許しません。時間にルーズなのは淑女としてもってのほか! 家庭教師として、いえ、親友としてみっちり指導いたします!」

「ひぇぇ……!? 後生です、説教はご勘弁を……っ!」

「言い訳無用」


 そうしてウェンディは、引きずられるようにレッスン室へと連行されるのだった。イーサンは困ったように見送ることしかできなかった。




 ◇◇◇




 リズベットの妃教育が終わったあと、彼女の叱責はウェンディだけではなくイーサンにも向いた。

 3人は応接間で、テーブルを挟んで向かい合うようにソファに座った。


「殿下が新妻を溺愛なさっていることはよ〜く分かりましたが、節度は持ってくださいまし」

「ああ、今日はすまなかった。つい彼女が可愛くて構いたくなってしまったんだ」


 イーサンはにこやかな笑みを浮かべており、その表情に反省の色はあまり感じられない。


「今日のことはあまり叱らないでやってくれ。本当に僕が悪いんだ」

「昔からウェンディは時間を守るのが苦手なのです。誰にでも苦手なことはありますし、あまり口うるさく言いたくはありませんが、時間を守るのは最低限の礼儀ですわ。……作家になってからも、どうせ締切に苦しんでいるのでしょう?」


 ウェンディは『締切』という言葉に過剰に反応して、両手で頭を抱えた。だらだらと汗を流しながら懇願する。


「そ、その言葉はやめて……っ。今は……今は聞きたくな"い"っ!」


 かたがたと発作でも起こしたように怯えるウェンディを見て、リズベットはほら見たことかとため息を吐いた。

 時間に関する制約は、ウェンディが最も苦手なことだ。計画性がなく、締切直前になって慌てて取り組むのがお決まりのパターン。どうにな直そうとしても、性格を変えるのはなかなか難しいのだ。


 イーサンはウェンディを慰めるようにそっと背中に手を置き、「締切を遅れても死ぬ訳ではないから」と声をかけるが、一方のリズベットは、甘やかすなと反発する。

 イーサンに甘やかされるばかりでリズベットがいなければ、ウェンディは駄目人間になっていたかもしれないと内心で思った。


 楽観的なイーサンと厳格なリズベットは正反対な性格だが、2人ともなんだかんだ言いながら仲良くなっていて、こうしてお茶の席をともにするようになった。


 楽しく会話をしているうちに、リズベットから本の話が出た。


「知人にあなたのサインを頼まれたのだけれど、お願いしてもいいかしら?」

「うん。もちろん!」


 リズベットを通してサインを頼まれることはたまにある。ウェンディが喜んで書くので、リズベットも気を使って断らずに引き受けてくるのだ。

 彼女から差し出されたのは、本ではなく蝶の刺繍が入った白いハンカチだった。


「これって……」

「最近、巷では蝶の刺繍を持ち歩くのが流行っておりますわ。相変わらず、ウェンディ先生は時流の中心ですわね」

「へへ、ありがたいことだよね」


 ウェンディはハンカチにサインを書いて渡した。蝶の刺繍を施したハンカチというのは、ウェンディの人気の本の中で登場したアイテムだ。ヒロインが恋人に贈ったもので、持っていると幸運をもたらすという設定になっている。

 そして、本を読んだ庶民たちの間で、そのハンカチに類似しものを持ち歩くのが流行中なのだ。


「少し前に別の作品を出したときは猫も杓子も赤いドレスを着るようになりましたし、ケークサレが好きな主人公を書いたらケーキ屋からケークサレが消えましたわ。これだけ影響力があれば、王にでもなれるのでは?」

「「…………」」


 彼女が些細な冗談のつもりで言った言葉だったが、ウェンディとイーサンは顔を見合せて黙ってしまった。リズベットがそんな2人の反応を不審がったので、慌てて誤魔化す。


「ちょ、ちょっとリズベット。それは謀反だわ。不謹慎な話はやめて」

「ふふ、ただの冗談に決まっておりますでしょう」


 ウェンディの力を本当に政治利用しようとした王子がいる手前、笑い事ではないのだ。

 その話が出たあと、ウェンディはエリファレットのことが引っかかっていた。




 ◇◇◇




 第3王子であるイーサンの王太子即位式の準備が進む中、次期国王の座を奪われ、反発しているはずのエリファレットがやけに大人しかった。


(エリファレット様は本当に……このまま大人しく引き下がるおつもり?)


 権力に固執する彼なら、あらゆる手を尽くして自分が王太子になろうとすると思っていたのに、このところ妙に静かで胸騒ぎがする。


(私には関係のない話……。もう全部、終わったことよ)


 ウェンディは離宮の庭園で本を読みつつ、どこか気がそぞろだった。

 おもむろにページをめくった刹那、ガゼボの奥の茂みから、かざりと音がして顔を上げる。


「相変わらずお前は、本ばかりだな」


 そう言って近づいてきたのは――元婚約者のロナウドだった。人がひとりくらい入れそうな麻袋を持ってこちらに近づいてくる。本能的な危険を感じて立ち上がると、本が手から滑り落ちたが、拾う余裕もない。


「……ど、どうしてロナウド様がここに……? ここは王族が住まう場所です。あなたが来ていい場所じゃない」


 彼をねめつけながら、早く帰るようにと促すがそこから一歩も引かない。すると、茂みの奥から「俺が許可したんだ」という声とともにエリファレットが現れた。

 距離を縮めてくる2人に底知れない恐怖を感じ、人を呼ぼうと声を出そうとした。


「嫌……それ以上近づかないで。誰か……! 誰か来て――んんっ!?」


 助けを呼ぼうとした瞬間、ロナウドに手で口を塞がれる。じたばたと暴れるが、声が出ないように布で口元を縛られ、そのまま麻袋を頭から被せられた。

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