第18話 コーヒーのシミ

 

 ノーブルプリンスマンはもう二度と会いに来ない。それは寂しいけれど、人との縁はそういうものなのかもしれない。


(早く離宮に帰らないと。あまり遅くなったらイーサン様が心配なさるから。……それに、早くお顔が見たい)


 長い間心を寄せていた人が遠くへ行ってしまったのは悲しいが、イーサンの笑顔を見たら別れを惜しむ気持ちも和らぐような気がする。いつの間にか自分のなかでイーサンの存在が大きくなっていたことに気づいた。


 ただの契約結婚だと分かっていても、情を抱いてしまった。最初に出会ったときは嫌いなくらいだったのに、それが同情に変わり、今では特別で温かい何かに変わりつつある。


 石畳の街道の途中で、露店を見つけた。金属の細工で作られた本の栞がずらりと並んでいて。ウェンディは露天の前で立ち止まった。初めて彼と出かけたとき、ガラスのペンを買ってもらったことを思い出す。


(イーサン様はよく本を読むから……何か買って帰ろう)


 イーサンはかなりの読書家だ。ウェンディ以上によく本を読んでいて、そのときは眼鏡をかけている。眼鏡をかけると、いつもより知的な雰囲気でよく似合う。

 眼鏡姿の彼を脳裏に思い浮かべたウェンディは、恥ずかしくなって紅潮し、煩悩を打ち払うようにぶんぶんと首を横に振り振った。


 彼を喜ばせようと棚に並ぶ栞を眺める。

 花や動物をモチーフにしており、先端にタッセルがついている。ウェンディが気に入ったのは、鷹を象ったもの。そっと手に取る。


「おじさん、これください!」

「まいどあり!」


 会計を済ませ、栞を手に握り締めて帰り道を急ぐ。早歩きで歩いているウェンディの後ろから、聞き慣れた声が彼女を呼び止めた。


「――待て。ウェンディ」


 振り返るとそこに、元婚約者がいた。最後に会ったときより、心なしかやつれているように見える。


「ロナウド……様」

「探したぞ。どこに行ってたんだ?」

「サイン会ですけど」

「いつもの本屋にはもういなかっただろ」

「ああ、ちょっと寄り道をしてて」


 サイン会のあとは、ノーブルプリンスマンに会っていたが、ロナウドに話す義理はないと思い詳しくは伝えない。

 どうやら彼は、サイン会の開催情報を知って会いに来たようだが、最悪な別れ方をしておいて今更なんの用があるのだろうと不審に思う。


「まぁいい。お前にちょっと頼みがあるんだ」

「……頼み?」


 なんだか嫌な予感がして、へらへらと笑いながら近づいてくる彼から後ずさる。ロナウドは言った。――金を貸してほしい、と。

 ルリアの実家のリューゼラ侯爵家に婿入りしたはいいものの、侯爵家は多額の借金を抱えていた。騙されていたと分かっていても簡単に離婚はできない状況で、借金はロナウドがなんとかしなければならなくなったという。


(……呆れた。別れた相手にお金の無心をしてくるなんて)


 しかも、ロナウドに申し訳ないという気持ちは更々なく、ウェンディは当然協力するものであるかのような態度だった。


「そんなの、ご自分でどうにかしてください。私は早く帰らなくちゃいけないので。それじゃ」

「待て。別にいいだろ? 小説で相当稼いでるって聞いたぞ」

「…………」


 今まで散々馬鹿にしてきた小説の収入に頼ろうなんて、虫がいいにも程がある。無視して帰ろうとしたところをなおも引き留められ、ため息を吐くウェンディ。


「必要以上の収入はほとんど寄付に使ってるで、ロナウド様が期待するような額は手元にありません」

「ならその孤児院に行こう。一部を返してくれと」

「なっ……!? そんな恥ずかしいことしませんよ!」


 しかし、彼は聞く耳を持たず、ウェンディの腕を掴んで引っ張った。


「ほら、さっさと案内しろ。こっちは困ってるんだ。お前に頼らなければ立ち行かなくなるほど追い詰められてるってのに、同情もしないのか? お前は王子妃になって、困ってる人間を無視するような高慢で冷酷な女になったんだな」

「冷酷でもなんでも結構ですから、その手を離してください……!」

「相変わらず――生意気だ。下手に出てれば調子に乗りやがって……」


(いや、どこが下手!?)


 終始上から目線にしか見えなかったのだが。苛立った様子で舌打ちしたあと、腕を握る力を強める。

 その手を振りほどこうと身じろいだら、その拍子にさっき買った栞が地面に落ちた。


「あっ、」


 ロナウドは落ちたものに気づかず足で踏みつける。せっかくイーサンにあげようと思って買ったのが台無しになり、ショックを受けた。


「嫌っ……。離して!」

「いいから、大人しく言うことを聞けよ!」

「孤児院には行かないって行ってるでしょ! あなたの尻拭いなんてごめんなんだから!」


 するとそのとき、誰かがウェンディの身を抱き寄せ、ロナウドを引き剥がした。彼は耳元でウェンディに「もう大丈夫だよ」と囁いて、ロナウドをきつく睨みつける。


「――僕の妻に無礼を働くな」

「イーサン、様……」


 どうして彼が街にいるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かぶ。ロナウドは王族である彼を前にして、顔を真っ青にして頭を下げた。


「も、申し訳ございません。ですが、これはほんの少しじゃれていただけで……」

「どう見ても彼女は嫌がっていたでしょ」


 イーサンが牽制すると、ロナウドは挑発するような表情で顔を上げて続けた。


「……このようなところまで着いていらっしゃるなんて、余程彼女をお気に召しているんですね。どこがよろしいんです? 妄想ばかりのなんの取り柄もないようなウェンディの」


 ウェンディは俯いた。取り立てて褒めるところがないつまらない女だと言われ続けた心の傷が疼く。

 するとイーサンは、一も二もなく答えた。



「――全部だよ」



 ウェンディの全てが気に入っていると。その答えにはなんの迷いもなかった。

 ロナウドは悔しそうな顔をしたあと去っていった。ウェンディは地面に転がった栞を拾い上げて、残念そうに肩を落とした。土がついてすっかり汚れた上に、石に擦られて傷が沢山できてしまい、イーサンに渡せる状態ではなくなってしまった。


「それは?」

「……栞です。イーサン様に差しあげようと思って買ったんですけど、汚れちゃったので自分で使いますね」

「僕のためにあなたが……」


 へへと困ったように笑うと、イーサンは汚れていても構わないから欲しいと懇願してきた。戸惑いつつ手渡せば、彼は丁寧に土を手で払って大事そうに握り締めた。


「ありがとう。一生の宝物にするよ」


 幸せそうに目を細めたイーサンを見て、きゅうと胸が締め付けられる。甘い切なさに、咄嗟に胸を抑えると、高鳴る心臓の鼓動が手のひらに伝わってきた。


(どうしてそんなに嬉しそうなお顔をなさるの? まるで私のことが……好きみたいな顔)


 ウェンディは動揺した心を鎮めるように深呼吸してから、おずおずと言った。


「助けてくださってありがとうございました。……どうしてこちらに?」

「あ、ああ……ちょっと散歩に」

「散歩……」


 ここは王宮から離れているので、『ちょっと散歩』で来るような場所ではない。もしかしたらロナウドが言ったように、ウェンディのことが気になってわざわざ来たのかもしれない。彼ははっきりとした用件を教えてくれずに、一緒に王宮へ帰ろうと言った。


「王宮に帰る前に、もう少しだけ散歩に付き合ってくれませんか?」

「いいけど、どこか行きたい場所でも?」

「孤児院に行きたくて。ロナウド様が押しかけてきて迷惑をかけるかもしれないとお伝えしに」

「ああ、収益を寄付している孤児院か。この近くなんだね」

「え……? イーサン様に話したことはないと思うんですけど」

「小説のあとがきに書いてあ……るって、君が前に教えてくれたじゃないか」


 はて、本当に話したことがあっただろうかと首を傾げる。ウェンディの記憶にはないが、ふとしたときに零していたのかもしれない。


 イーサンが快諾してくれたので、2人は孤児院に寄ることに。夕暮れに染る街道を並んで歩く。彼はこちらの歩幅に合わせてゆっくりと歩いて暮れた。ウェンディはおもむろに片手を差し出す。


「どうした?」

「手を……繋ぎませんか。前みたいに」

「!」


 初めてデートに来たときに手を繋いだのは、人混みではぐれないようにするためだった。今は夕方で人も少なく、わざわざ手を繋ぐ必要はない。ただウェンディが――イーサンと手を繋ぎたいだけで。

 イーサンは瞠目し、頬を紅潮させながら「いいよ」と頷き、ウェンディの手を握る。指をそっと絡めた繋ぎ方は、恋人がするようなものだった。ウェンディも拒まず、彼の指の間に自分の指を絡める。


「……さっき、ロナウド様におっしゃった『全部』というのは……」

「僕の本心だよ」

「…………」


 顔が熱くなって目を伏せる。ウェンディはそれから、自分に大事なファンがいることを彼に打ち明けた。変わったあだ名のその人は、ずっとウェンディを励ましてくれた特別な相手で、でももう事情があって自分に会いに来ることはないと言われてしまったのだと。


「すっごく寂しかったんですけど、イーサン様に会ったら不思議と元気が出ました」

「そのファンはきっと、あなたにとって自分がそこまで大きな存在だったことに驚いていると思うよ。同時にとても……喜んでいるはず」

「そう……でしょうか」

「推している人に大事にしてもらえることほど嬉しいものはないよ。それがファンってものだ」

「イーサン様にも推しがいるんですか?」


 まるでファンの心理をよく知っているかのような口ぶりに、気になって尋ねると、イーサンは決まり悪そうに眉尻を下げて答えた。


「いるよ。今もずっと、応援している人が」


 夕日が傾き、石畳がオレンジに染まっていく。家の窓から夕食の匂いが鼻腔をくすぐる。


「へぇ。意外で、す……」


 そのときウェンディは、イーサンの服にできたコーヒーのシミに気づいた。それはさっき、ノーブルプリンスマンの服にコーヒーを零したのと同じ場所だった……。

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