第6話 新生活のはじまり
「第3王子と結婚した!?」
「しっ、声が大きいってば」
街のお洒落なカフェで、ウェンディは親友のリズベットに相談をしていた。リズベットは昔からの幼馴染で、作家ウェンディの読者でもある。元伯爵家の令嬢で、今は侯爵家に嫁ぎひとりの男の子の母親をしている。
イーサンとの結婚が契約であることは、守秘義務があるからもちろん伏せているが、イーサンと結婚したその日に、第1王子エリファレットからも求婚を受けたことを打ち明けると、リズベットは皿のように目を見開いた。
「……最近ちょっと色々ありすぎて、私どうしちゃったのかな? 何か悪いモノが取り憑いてたりするんじゃ……」
婚約破棄から始まり、現実味のないような出来事が立て続けに起きている。
周囲の人たちには聞こえない声の大きさに抑えてこそっと尋ねると、リズベットはチッチッ、と人差し指を振ってから何もかも分かりきったように言った。
「いいえ。これは――モテ期ですわ」
「モテ期!?」
確信をついたような口ぶりで突飛なことを告げられ、口に含んでいた紅茶をぶっと吹き出す。ごほごほと咳き込んでいると、彼女は、人は人生で3回のモテ期が来るのだと続けた。そんな通説、当てになるのかと首を傾げる。
「それに。運命の人に会うとき、その前兆として、病気や失恋などの大きな不幸が起こることがあると言われておりますのよ?」
「……まぁ、大きな不幸ならあったけど……」
大勢の人の前で婚約破棄された、心の傷が疼く。
「2人の麗しの貴公子から言い寄られるなんて、物語の中だけのお話ではなかったのですわね。人気作家様の次作の内容は、禁断の三角関係かしら」
呑気な彼女は、「1ファンとして楽しみにしておりますわ」と優雅にふふと笑った。
リズベットは、小説を書く度に女性目線で感想をくれる。原稿を修正する前に、カフェで話を聞いてもらうことも。
ケークサレをひと口口に運びながら、彼女が言う。
「それで……ウェンディは2人の貴公子のうち、結婚できなかった方のことで悩んでいる――と」
「ち、違……っ」
「わたくしが気づいていないとでも? 感情は理屈ではどうにもならないものです。決して口外はいたしませんわ」
思い入れのあるファン『ノーブルプリンスマン』の正体がエリファレットだったことが引っかかっていることを、リズベットは早々に見抜いていた。
「分からないの。どうしてこんなに胸がざわめくのか。プリンスマンさんのことを考えると、切なくなって……」
どうして自分が結婚したのが、エリファレットではなくイーサンだったのか。なぜ自分はこんなに悩んでいるのか。ウェンディには何も分からなかった。
「……難儀なことですわね」
彼女は同情した様子で眉をひそめる。彼女にはノーブルプリンスマンのことも何度も話しており、ウェンディが彼に思い入れがあることをよく知っている。
すると、リズベットは紅茶のカップをそっと持ち上げ、「これは聞き流していただいて構いませんが」と前置きしてから言った。
「わたくしが思うに……ウェンディ。あなた、そのお方に恋愛感情のようなものを抱いていたのでは?」
「……!」
「あなたが悩んでいる理由は、ファンだったエリファレット殿下のことが気になるから。だから一緒になれるチャンスを逃したことに深く傷ついている」
「…………」
リズベットの推察が、心にぐっさりと刺さる。今までの人生、小説を書くばかりで恋とか愛とかそういうものは一切放ったらかしにしてきた。恋愛経験に乏しいから、自分の感情もよく分からなかったが、彼女の言葉が刺さるということは、その通りなのだろう。
「エリファレット様が気になってるのは……事実。でも、結婚した以上……イーサン様への不義理はできない」
「――なら、エリファレット殿下への想いは心の奥におしまいなさい」
「そう……だよね」
親友であるリズベットは、ウェンディが今日ここに彼女を呼び出した理由を、本人以上に見抜いているのかもしれない。『諦めろ』と言ってほしかったのだ。はっきり言われて、心が少しすっきりする。
「……わたくしも同じでしたわ」
「……」
リズベットは同情した様子で目を伏せた。彼女は侯爵に嫁ぐことが小さなころから決まっていたが、別の男が好きだった。侯爵家に嫁いでまもないころの彼女はげっそりと痩せて、見ていられないほどの落ち込み方だったのを覚えている。
リズベットはその男への片思いを引きずっていたが、いつの間にか侯爵のことを愛するように。そして、例の男は実は過去に犯罪を起こしていて、それが露見し今は捕まっていると語った。
「……世の中には縁というものがあります。これにも何か意味があるとわたくしは感じますわ」
そして――リズベットの直感は、後々当たることになる。
◇◇◇
輿入れの日。ウェンディは荷物をまとめて王宮に引っ越した。迎えに来てくれた馬車は、ウェンディが今まで乗ったことがないほど立派で、乗り心地もよかった。
王族が居住する王宮に到着し、更にそこから連れて行かれたのは、本宮から遠く離れた離宮だった。敷地の端っこにぽつんと佇む屋敷。ウェンディはここで、イーサンが姓を与えられ公爵位を叙爵するまでの間を過ごすことになる。仮の妻として。
3階建ての大きな建物を見上げながら、ここまで案内してくれた召使いアーデルに尋ねる。
「……イーサン様は本宮にお住いにはならないのですか?」
「イーサン様は、他の王子様とは出生が異なりますので……。王宮でも少々難しいお立場なのかと」
「……なるほど。理解しました」
気まずそうに答えた彼女に、難しい質問をして悪かったと謝罪する。イーサンは3人の王子と1人の王女の中で唯一母親が違う。そして――婚外子だ。彼の実母は娼婦をしていたとかで、イーサンが生まれてすぐに病死した。
この国の宗教では、不貞は忌避されており、イーサンは世に出るべき存在ではなかった。けれど国王は、議会や王妃の猛反対を受けてもなお、イーサンに他の王子と同じように王の子としての地位を与えた。
離宮の玄関に入ると、イーサンが向かい入れてくれた。
「よく来てくれたね。ウェンディ」
「あ、えっと……これからお世話になります!」
「ふふ、ご丁寧にどうも」
ぎこちなく淑女の礼を執ると、彼は愛想よく微笑んだ。彼は離宮までウェンディを案内したアーデルに対しても「ご苦労だったね」と労いの言葉をかけた。
「これから身の回りのことはアーデルを頼るといい」
「は、はい」
アーデルが今後の世話係になるらしい。よろしくお願いしますとお辞儀すると、彼女も挨拶をしてくれた。
イーサンの後ろには騎士が控えていた。そちらの方は誰ですかと尋ねれば、彼は自己紹介した。
「私はルイノと申します。イーサン様の近衛騎士を任されております。何か困ったことがあればお気軽にご相談ください」
「……よろしくお願いします」
真面目で硬い雰囲気のルイノはそれだけ言って、すぐにイーサンの後方に戻った。
「さ、屋敷を案内すよ。行こうか」
「はい……!」
背を向けたイーサンの後ろを着いて行く。まず、1階は食堂に厨房、使用人たちの居住空間になっていた。だだっ広い食堂を眺めながらウェンディは思いを巡らせる。
(イーサン様は、いつもここでおひとりで食事をされていたのかしら)
彼以外の王族は皆きっと本宮の大食堂で揃って食事をしているのに、彼だけが参加を許されないなんて気の毒だ。イーサンは飄々としているが、ウェンディは少しの同情を抱いた。
2階には浴室、衣装室、執務室、そしてイーサンとウェンディそれぞれの寝室があった。
「寝室は別なんですね」
「契約の通りさ。あなたは仮の妃だからね。妻の務めを強いることはしない。ああでも――」
すると彼はこちらを覗き込みながら、いたずらに口角を上げた。
「――あなたが望むなら応えようか。契約の通り」
「なっ、なななな何を……!?」
契約には、イーサンはできるだけウェンディの要望に応えるという旨が書かれていた。書かれてはいたけれど。
「あはは、冗談だよ。顔が真っ赤」
ぼんっと熟れたりんごのように紅潮したウェンディは、慌てて顔を逸らした。イーサンはタチの悪い冗談を言う人だ。
そして、次に案内されたのは――。
「わぁ……」
そこは、ウェンディのための書斎だった。奥に大きな格子窓があり、その前に執筆机と椅子が置いてある。机も椅子も熟練の職人が作った1級品だった。机と椅子だけではない。毛先の長い絨毯にソファ、それから壁一面の本棚。部屋に備えられた調度品は全て上等な品々だ。
「……以前の居住者が文章を書く人でね。あなたが使えるように改装させたんだ。好きに使ってくれて構わない」
「本当に!?」
くるりと振り返り、目をきらきらと輝かせながらイーサンを見上げるウェンディ。彼女の感激した様子に、イーサンは一瞬だけ驚いたあと、ふっと目元を和らげた。
「ああ、もちろん。この書斎はもうあなたのものなんだから」
「……! 私の書斎……!」
もう一度書斎を見渡し、ウェンディは喜びを噛み締め、年季の入った味のある机を手で撫でた。そんなウェンディをどこか愛おしげに後ろから見つめるイーサンの眼差しに、本人は――全く気づかない。
「……家族にも元婚約者にも、文章を書くことをよく思われていなかったんです。俗っぽくていやしい趣味だと……」
だから、書斎を持つなんて夢のまた夢だった。家族にバレないように布団を被って深夜にこっそり書くこともあれば、公園のベンチで書くことも。涙ぐましい日々を送ってきたが、こんなに素敵な場所なら落ち着いて創作ができそうだ。
「ここでは思う存分、執筆してくれていい。誰も咎めないし、むしろ僕も読みた――ンンッ」
「?」
気まずそうに咳払いする彼。「むしろ僕も」の後に続く言葉はよく聞き取れなかった。
そして、書斎の次に案内されたのは3階だった。螺旋階段を登った先は別世界で。書斎を目にしたとき以上の感動に立ち尽くす。
「素敵……」
3階は全てが図書館になっていた。中央が円形のホールになっていて、白亜の4本の支柱が天井に伸びている。壁や本棚、至る場所に所狭しと本が収まっていて。
「ここは僕も気に入っている場所なんだ。離宮の主は代々、こよなく本を愛していた。どの本も綺麗な状態で管理されている」
イーサンはおもむろに本棚から1冊を引き出した。彼の言う通り、古い本ではあるが大切に扱ってきたことが分かる。
見渡す限り、本、本、本……。天井や壁紙、床まで美しい絵画が施され、贅を尽くしてある。本を愛する人が作った、本のためのお城のような理想の空間だ。近所の本屋にだって、これほどの数は置いていない。数千、いや数万冊はありそうだ。
言葉も出ずに、図書館の荘厳豪華さに圧倒されていると、イーサンが隣で小さく笑った。
ふたりで図書館の中を一周歩いて回る。背の高い本棚がずらりと並んでいるのを眺める。ウェンディは1冊を引き抜き、目を輝かせた。
「この本! 私が大好きな本です!」
「へぇ?」
「私が尊敬する作家さんの10作品目で、普段は推理小説を書いていらっしゃるんですけど、これだけ恋愛の物語なんです。ご本人の経験を元に書いているっていう噂もあって……。ああ、病気で余命がたった1年しかない花屋の女性店員さんと、そのお客さんの恋なんですけど、淡々と時間が過ぎていく中に切なさがあって……」
夢中になって本の内容を話していたが、途中で我に返ってはっとする。
「ごめんなさい。つい夢中になって語りすぎちゃいました」
「いや。君の好きな本の話を聞けて嬉しいよ。僕もこれを読んでみよう」
彼はウェンディから本を受け取り、優美に微笑んだ。大衆小説は貴族からは軽視される。それなのに彼は、読んでくれるらしい。
「大衆小説が……お嫌いではないんですか?」
「僕は、作家たちが魂を込めて書いた物語に、良い悪いはないと思うんだ。僕は面白いと思った作品を読むよ」
ではいつか、ウェンディの本も読んでくれる……だろうか。彼が読んだら、どんな感想を言ってくれるだろうか。しかし、そんな思いは喉元に留める。
「読み終わったらぜひ、感想を聞かせてください」
「うん。分かった」
図書館を見回って一周してから、入り口に戻る。上機嫌のウェンディに彼が言った。
「気に入ってくれたようだね。ここも自由に出入りしていいから」
気に入るとか、そういう言葉で表現できる感情ではなかった。
「私……こんなに幸せな思いをしていいんでしょうか……」
これから始まる生活に、期待で胸が膨らんでいく。ふいにそう口にすると、彼はなぜか困ったように眉尻を下げる。
「……それは僕のセリフだよ」
彼の言葉の真意が、ウェンディには図りかねた。
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