第2話 ささやかな幸せ①


 犬飼理市は、そこそこのワルだった。


 中学生の時から日常的に、万引きやカツアゲをしていたし、高校生になると仲間とつるんで、盗みをレジャー感覚で楽しんでいた。仲間の連中は全員バカで仕様のない連中だったが、毎日おもしろおかしく過ごしていた。


 だが、さすがに二十歳を過ぎると、いつまでもバカばかりやってはいられない。理市は急遽思い立って、就職活動の真似事を始めた。仲間からは「裏切り者」と呼ばれたし、「おまえなんかに会社勤めができるか」と、罵倒ばとうされた。


 案の定、ろくな勤め先はない。理市がもぐりこめたのは、薄暗く不潔な工場での過酷な12時間労働だけだった。学生アルバイトのような安月給でこき使われ、たまの飲み会では、同僚と上司の悪口を言い合うばかりの日々である。結局、理市に我慢できたのは、一ヵ月だけだった。


 手っ取り早くカネを得るために、ふたたび恐喝と窃盗に明け暮れた。仲間のもちかけてくる儲け話には貪欲に取り組んだ。だから、大金を稼げる特殊詐欺に加わったのは、ごく自然な流れだったのだ。


 理市はタコ部屋のような狭い部屋で、毎日、電話をかけまくる作業に追われた。だが、すぐに後悔するはめになる。祖父母のような年配者たちが、爪に火をともすような暮らしで蓄えてきた財産を失い、幾人か自殺したものもいる、と耳にしたからだ。


 人殺しの片棒をかつがされるのは御免である。心を削り取られて、ストレスが半端なかった。時機を見て抜けようと思ったところで、突然、仲間たちが消えた。暴力団の上納金トラブルで全員殺された、という噂もあったが、理市には何もわからない。


 やはり、地道じみちに稼ぐのが一番である。理市は小さな配送会社で働き始めた。仕事はハードだったが、元々身体を動かすことが嫌いではない。最初は見習いで安月給だが、頑張って勤務していれば、正社員への道も開けるという。


 真面目に働いていると、時折、上司や同僚から褒められるようになった。もしかすると、外見とのギャップがプラスに働いたのかもしれない。


 恥ずかしいような、胸の奥が熱くなるような感覚。うれしすぎて、涙がこぼれそうだった。理市が久しく忘れていた感情である。


 そうか、ささやかな幸せは、どこにでも転がっているんだな、と理市は思った。


 アットホームな職場だったが、若い男性社員は全然いなかった。同僚は40代,50代のおっさんばかりである。配送車両でコンビを組む彼らの話は、もっぱら可愛い息子か娘の自慢話だ。同じ話を何度も繰り返すので、相槌を打つだけで理市はぐったりと疲れてしまう。


 もう一つ厄介なのは、「うっとうしいから髪を切ってこい」と、言われることだ。両耳にかぶるほどの長さだが、おっさんたちには暑苦しく見えるらしい。これまでは笑ってごまかしてきたが、社長からも言われたので、聞き流してはいられなくなった。


「よかったら、私がカットしてあげようか?」

 そう言ってくれたのは、職場で唯一の女性,仲村江美だった。

 事務を担当するパート勤務。小柄なので幼く見えるが、理市より年上である。20代半ばだろう。職場のムードメーカーであり、アイドル的存在だった。


「こう見えても元美容師なんだよ。任して、カッコよくしてあげる。もちろん無料でいいから」大きな瞳をくりくりさせて、可愛い笑顔を浮かべている。


 理市は早速、仕事終わりに、駐車場の片隅で切ってもらうことにした。

 おっさんたちから「絶対に手を出すな」と念を押されていたが、江美の方から話しかけてきたのだからセーフだろう。理市にとっても、江美は気になる存在だった。


 サワサワと優しく髪を触られる感触、シャクシャクとリズミカルなハサミの音、トクントクンと高鳴る胸の鼓動。


 理市は至福の時間を過ごしていた。この時、江美に恋をしたのかもしれない。翌日、男らしく直接告白をして、交際を申し込んだ。


 江美は少し考えてから、

「じゃあ、まずは、遊び友達から始めましょうか」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 理市は何度も頭を下げた。


 休みの度に、一緒に食事をしたり、映画や遊園地に行ったりすることが日課になった。時には、同僚の車を借りてドライブもした。(おっさんたちは最初こそ怒っていたが、理市の真剣な態度を見て、応援してくれるようになった)


 気になることがないわけではない。例えば、江美は時折、憂いを秘めた横顔を見せる。もしかしたら、彼女には何か、深刻な問題があるのかもしれない。


 だが、思い悩んでも仕方がない。その時はその時だ。とりあえず、理市の日常は、ささやかな幸せに満たされていた。



 

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