第39話・狐の嫁入り

 夜勤明けの帰宅途中。最寄り駅から伸びる大通りを、千咲は人の流れとは真逆に歩いていた。通勤には少し遅めの時間帯だから、歩いている人の多くは登校中なのだろう。千咲の通っていた短大以外にも、この辺りは学校が多い。


 徹夜後にはとても眩しい日の光を、目を細めながら仰ぎ見る。雲はあるが、洗濯物もそこそこ乾いてくれそうな天気だ。

 と、太陽がはっきりと姿を見せているにもかかわらず、ぽつりと頬に水滴がかかる。ぽつりぽつりと雨粒は増え、自宅まであと少しというところなのに、と慌てて歩を速めた。霧のようにさーっと振り始めた雨の中、照り続けている太陽。


 千咲は思わず、呟いた。


「あ、狐の嫁入りだ……」


 何となく子供の頃から聞いたことがある天気雨の名称。一番初めは誰に聞いたかまでは覚えていない。親か祖父母か、とにかく当たり前のように知っていた。ふざけた同級生は「じゃあ、狸の嫁入りには何が降るんだろ?」なんてことを言い出していた。


 自宅マンションまで着いた時もまだ、小雨は降り続けていた。でも、この雨はきっとすぐに止むはずだ。だって、電車の中で見た天気予報アプリでは今日の降水確率は10%だったのだから。


 帰ってシャワーを浴び、洗濯機が終了のブザーを鳴らした頃には、天気予報通りの青空が広がっていた。洗い立ての洗濯物をベランダに並べて干し終わると、千咲は遮光カーテンを閉め切る。シャワーでさっぱりとリセットしたはずの身体を、疲れと眠気が夢の中へ完全に落とし込んでいく。


 通勤にはまだかなり早い時刻に家を出て、千咲は勤務先の最寄り駅を越えてさらに電車に乗っていた。ネットカフェ『INARI』の看板が遠くなって行くのを車窓から眺め、さらに駅を二つ越えてから下車する。


「おつかれー、千咲」

「会うのは久しぶりだねー」


 駅前にある商店街の一角を地下に降りて、チェーン店の居酒屋の暖簾をくぐり抜ける。あらかじめ聞いていた席を覗くと、短大時代の友人二人がほろ酔い顔で待っていた。


「もしかして、もう出来上がっちゃってる?」

「まさかー。まだ二杯目だよ」


 恐る恐る確認すると、ユリが首と手をブンブン振って否定してくる。その変な動きをする時点で、すでに怪しい。とりあえず無暗に絡まれても困ると、まだ酔いの浅そうな香苗の隣を選んで腰を下ろす。


「あ、私はウーロン茶で」


 メニューを見ながら、サラダと揚げ物を注文し始める千咲に、香苗が意外だという顔をしている。


「ちーちゃん、何か雰囲気変わったね。社会人って感じがする」

「え、そう?」

「うん、注文の仕方とか、前とは全然違う」


 会って数分で雰囲気が変わったと言われ、千咲はきょとんとする。自分では何の成長もしてなくて、相変わらずだと思っていた。


「そうそう、学生の時はもっと、私は何でもいいよー、みたいな感じだった。自分では決められないっていうか――」


 ユリの言葉に、そう! と香苗も大きく頷く。


「っていうか、ウーロン茶って何? もしかして今日、仕事あった?」

「うん、だから一時間くらいしかいられない」


 それでも私らに会いたいって思ってくれたんだねぇ、とユリが目を潤ませ始める。どうやら彼女の泣き上戸スイッチが起動してしまったみたいだ。とは言え、基本的には二人とも明るい酔っ払いにしかならないので、ユリが泣こうが香苗もケラケラと笑っている。


 短い時間だったけれど、陽気な飲み会で気分転換が出来た後、千咲は普段とは逆のホームで電車を降りて勤務先へと向かった。月も星も出ている夜道はいつもより明るく感じる。


 365日常にライトアップされているネットカフェ『INARI』の看板は、国道沿いまで出ると遠くからでもよく見える。宿代わりにふらりと泊まりに来る客達はこの看板を目印にやってくるのだ。


 その、見慣れたはずの看板がいつもとは違って少し揺らめいているのに気付く。正確には看板自体がではなく、看板を照らしているスポットライトの光が揺れているのだ。道沿いの立て看板ではなく、建物の上部に設置されている看板の方だ。


 ――電球、切れかかってるのかなぁ?


 さすがにこの時間帯に屋根に上って交換する訳にもいかない。電球のことは明日の朝に店長に報告すればいいかと、心に留める。


「ゴミ捨て行ってきますね」


 オーダーストップの時刻も過ぎ、厨房を片付けてゴミをまとめると、千咲は建物の裏にあるゴミ置き場へと向かう。生ごみがメインだから見た目よりも重量のある袋を引き摺らないよう気をつけながら運び込むと、ゴミ置き場の軋む扉を両手を使って閉めた。


 そして、駐車場をぐるりと回って戻りかけ、耳に届いた異音に立ち止まる。シャンという鈴の鳴るような音色。弱く可憐な鈴の音に、辺りをキョロキョロと見回した。


 と、遠くに揺らめく光が一つ。そしてまた、一つ。

 千咲が目を凝らして見ていると、光は徐々に数を増やし、それらはゆらゆらと揺れて列をなしていく。その揺れる光の行列は、千咲がこれから戻ろうとしていたネットカフェの入り口の方角へ向かっているように見えた。


 シャンという鈴の音は、ゆっくりと進むその行列を誘導する音色のようで、確実にエントランスへと近付いていく。


「し、白井さんっ、何か近付いてきてるんですけど……」


 護符に守られている店の中はまだ安全だと、千咲は自動ドアが開き切る前に飛び込んだ。そして、フロント裏にいる先輩社員の名を慌てて呼ぶ。


「ん、あー……そうか、今晩か」


 面倒だなぁという声が漏れて聞こえてくるかのような、やる気の無い表情の白井が長めの前髪を掻きながらフロントへと姿を見せる。


「何かあるんですか、今日?」


 千咲の問いに、白井は外を指差す。示された方を見て、千咲は息を飲みながら目を見開いた。自動ドアの前にずらりと並んだ、黒留袖と紋付き袴を身に着けた黒色の集団。ゆらゆらと揺れていた光の正体は、彼らを導いていた松明の炎だ。そして、それらの中央に控えているのは、白無垢を身に着けた花嫁の姿。


 ただ、彼らが異様に映ったのは、体型こそ人のものだったがどの顔も狐そのものだったからだ。着物の裾からはみ出している尻尾は二本の者もいれば、三本の者もいる。

 自動ドアを開いて白井が外に出ていくと、一同が深く頭を下げて迎えた。


「九尾殿。此度は我が娘の祝儀を行わせていただくことになり、親族一同にてご報告に参じました」

「ああ」


 畏まった挨拶に、白井は短く返事すると、何でもなかったかのように店の中へと戻ってくる。途中何度も、溜め息を吐いていたところを見ると、本気で面倒だと思っているようだった。


 白井が戻ってくると同時に、先ほどの大行列はすっと消えていった。まるで霧にでも掻き消されたかのように。


「一体なんだったんですか、あれ……?」

「狐の嫁入りだ。いまだに、ご丁寧に挨拶に来るやつがいるし、困る」


 嫁入りでも婿入りでも勝手にすればいいのに、と白井がブツブツとぼやく。「せっかくのお祝い事なのに」と白井の態度を非難する千咲へ、「はっ?!」と睨んで返したが、対応が悪い自覚はあるのかそのまま黙り込んだ。

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