第44話・黒の鬼姫

 今回の騒動は表立っては、運転手の不注意による単独事故という扱いになる。あれほど大きな衝突音を出していたにも関わらず、店にいた客達が騒ぎ立てることはない。少し野次馬な客が駐車場を覗いて、うわっと短い声を出したくらいだろうか。

 外は冷えるからとエントランスの隅で行われていた聴収にも、レッカーで運ばれていく事故車にもほとんど興味を示さない。


 警察が撤収し、事故を起こした運転手が家族の迎えで帰って行った後も、白井は外の様子を窺い続けていた。桜の木の被害はそれほどでも無いが、稲荷を奉った社祠は本来あった場所からは大きく吹き飛ばされ、完全に破壊されている。修復というレベルではなく、一から建て直すことになるだろう。


 社祠が建っていた場所でしゃがみ込むと、白井はその土台となる礎石に手を触れ、顔をしかめた。この場に封印されていたはずのモノが居なくなっていることに、焦りから冷や汗が滲みだす。ただの残り気だけでも身震いするほどの強さを持っている。運転手を操ってここを破壊したモノの狙いは、まさにこれだ。社祠はただの隠れ蓑でしかなく、肝心なのはその下に封じられていた存在。それを解放する為に、先ほどの事故は何者かによって仕組まれたと考えていい。


「……黒の鬼姫、か」


 疑心暗鬼の象徴でもある黒鬼。その頂点ともいえる力を携えた、黒の鬼姫。既に長い年月により実体は消滅しているはずだが、その霊魂はまさに今解き放たれたばかり。その力を味方に、恐怖による現世の支配を望むモノ達の仕業だろう。昨夜に千咲が目撃したという百鬼夜行もその一味。今、周辺に感じる数十のあやかし達もおそらく同じ。


 かつて感じたことの無いほどの強い力の存在に、白井は勢いよく後ろを振り返った。駐車場全体に漂っているのは黒いモヤ。それらが徐々に一か所に集積してぼんやりと具現化してみせたのは、銀糸の刺繍が施された黒色の十二単を纏う、長い黒髪の女。頭上に一対の角を生やした鬼姫は艶やかな微笑みを浮かべながら、落ち着いた様子で周囲をゆっくり見回している。


「おお、鬼姫様」


 どこから現れたのか、濃灰の着物で杖を手に持つ老爺が鬼の前へかしずく。その左目には眼帯をしているが、喜びに溢れた右目で鬼の姿を見上げている。その男の顔には見覚えがある。


「わらわの封印を解いたのは、お前か。ぬらりひょん」

「いかにも」

「ふん、つまらぬことを考えたものよ」


 ゆらゆらと朧気な輪郭だが、その艶やかな笑みは見るものの心を惹きつける。力と美しさ、その両方を兼ね備えた鬼姫はぬらりひょんを見下ろした。所作の一つ一つは優雅だが、この上ない威圧感。唾液をごくりと飲み込んで、ぬらりひょんは深々と願いを口にする。


「どうか、鬼姫様のお力を我らに――」


 老爺が深く頭を下げる。鬼の力を手に入れれば、この世などどうにでもできる。人々があやかしに怯えていた、かつての世を再び取り戻すのだ。我々は忘れられた存在などではないと知らしめるべきだ。

 だが、下を向いてほくそ笑む老爺の横を、鬼姫はするりとすり抜ける。


「見つけた。見つけたぞ」

「鮎川っ、出てくるな!」


 鬼姫が満足気に呟いたのと、エントランスから覗いている千咲に向かって白井が叫んだのは、ほぼ同時だった。

 遠目からは黒いモヤにしか見えない鬼姫が、『INARI』の入り口へ向かって移動していくのを、白井は急いで追いかける。


「え、なんですか?」


 店内からは白井が何を言ったのかまでは聞き取れなかった。ただ千咲の名前を呼んで何か言っていたのは分かったから、咄嗟に自動ドアを開けて顔を出した。


「?!」


 こちらに向かってくる黒い衣装の豪奢で美しい鬼の姫。千咲の目には一瞬だけそれが視えた。視えたと思った瞬間、それが自分の中へとすっと同化していくのを感じた。息を飲むよりも短い間だった。


「これは良いの。これほど落ち着く器も珍しい」

「鮎川に憑依したのか。護符、持ってたはずじゃなかったのか……」


 思っていた以上に千咲の身体との波長が合うと、鬼姫は感嘆の声を漏らしている。強い力が千咲の身体を通して発せられていて、この至近距離なら弱いあやかしだと気を失ってしまうモノもいるだろう。実体を得た今は、封印が解けたばかりの先ほどとは比べ物にならないくらい強さを増している。


 遠巻きに様子見しているあやかし達の、低いどよめきの声が聞こえてくる。警戒からか無意識に狐耳と尻尾が出てしまっていたが、それをいちいち指摘してくる後輩は今はいない。千咲の姿を乗っ取った鬼姫は薄笑いを浮かべている。


「護符? ああ、これか。こんな紙屑、わらわには効かぬ」


 エプロンのポケットから取り出した護符を、千咲ではなく鬼姫がぽいっと投げ捨てる。エントランスの石張りの床へ、稲荷神の小さな護符はひらりと落ちていく。


「さすがですぞ、鬼姫様。それこそ我らが望んだ存在」

「なんだ、ぬらりひょん。お前らはわらわに何をさせたいのじゃ?」

「そのお力で、この世を戻していただきとうございます。かつての、あやかしの支配する世へと」


 鬼姫が憑いた千咲の前で頭を下げながら、ぬらりひょんは横目で白井のことを睨みつける。

 あやかしの総大将とも呼ばれることのある、ぬらりひょん。貫禄のある落ち着いた風体で弱いあやかし達を従わせて、村一つを占拠しようとしていたところを鬼火の妖狐によって制圧された。その時に失った左目は今も時折シクシクと痛むことがある。ようやくあの時の恨みを果たす機会がやってきたのだ。


「いつまでも狐に威張り腐らせておくわけにはなりません」

「片目だけで許してやった恩を忘れたようだな、爺」

「この程度で負かした気になっておったとは、情けないのぉ」


 老爺の挑発に、白井の尻尾がぶわっと九尾へと枝分かれする。

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