第32話・周年祭の新メニュー

 入り口の自動ドアを通り抜けた千咲の目に飛び込んできたのは、以前とはかなり異なる光景。レトロデザインの木製ベンチと、背の高い三つ編みパキラが一鉢置いてあるだけだったエントランスが、色鮮やかな胡蝶蘭と瑞々しい緑の観葉植物で溢れて、まるっきり雰囲気が変わっている。


 昨日までは無かった鉢にはお祝いの立て札が挿されていて、それぞれに会社や個人の名前が記されている。その中のいくつかに『祝三周年』の文字を見つけて、すぐさまこの状況を理解できた。


「来週からの新メニュー、めちゃくちゃお得じゃないです? これ食べるだけに来る人も多いよね、絶対」

「え、トンカツって単品で注文すると200円じゃなかったっけ? それにご飯とミニサラダでしょ? ねえ、これって原価割ってない?」


 赤字じゃないのと心配する佐倉に、さすがにそれはないでしょ、と横井が突っ込む。二人はカウンターの中で、新しく届いたというA4サイズのメニュー表を囲んで好き勝手なことを喋っていた。


 翌週から期間限定で始まる三種類のワンプレートは、よく見れば内容自体は別に新しくも何ともない。トンカツもハンバーグもすき焼き風スタミナ炒めも、どれも定食メニューとして既にあるのだから。ただ、定食に付いてくる味噌汁と漬物は無しに、一枚の皿の上にご飯とミニサラダとメインを盛りつけたランチプレートがたったの200円になるのだ。大きな文字で『激安200円ランチ』と描かれたノボリやPOPまで作ってしまったところに会社の気合いの入れ様が伝わってくる。


 とは言え、「でも、ランチだから私らは関係ないよねー」というのが、千咲も含めた女三人の見解。ただ、反響によって負担倍増が確実な日勤スタッフへと、イベント開始前から同情したくなるのは当然だ。


「ブースに半時間居たとして、ドリンク飲み放題でソフトクリームのデザート付きのランチ代がワンコイン以下なんだよ! うわぁ、しばらくは昼のヘルプは断ろう……」


 そうでなくてもいつも殺伐とした雰囲気が漂いやすい日勤。客の出入りが一番激しく、料理のオーダーはどの時間帯よりも多い。その上、ほとんど店頭には出ることがない店長がシフトの頭数として入れられているのだから、スタッフの負担は他のどの時間帯よりも大きい。千咲自身もずっと日勤だったからこそ、学生バイト達が昼に入るのを嫌がる気持ちは十分過ぎるほどよく分かっていた。


 ――夜勤でできることは、頑張らないと……。


 仕込みやドリンクの補充など、夜の内に終わっていれば朝の仕事が楽になるようなことはたくさんある。夜のシフトには河童という隠れた助っ人もいるし、少しくらい作業が増えるくらいは平気だ。


 河童はいつもどこから様子を見ているのか、佐倉達が帰った頃を見計らったようにひょっこりと顔を出しにくる。厨房に入るとキョロキョロと中の様子を確認して、「いいよ」と千咲から許可を貰えた時は、飛び跳ねながら全身で喜ぶのだ。そして、いそいそと踏み台を運んできて、それを流し台の前にスタンバイする。深夜の洗い物は任せろとばかりに、いつも張り切って水仕事に興じていた。


 ただ、河童のことが視えない他のスタッフが一緒の時は、千咲が黙って首を横に振って合図すると、しょぼんと甲羅を背負った背中を丸めて、悲しそうにシャワー室の方へと消えていってしまう。


 いつも通りに河童に食器洗いを丸投げし、千咲がミニサラダのストックを新しく作り直していると、調理台の隅から小さな妖精がひょっこりと顔を覗かせた。兄弟の中でも好奇心が旺盛な個体なのだろう、赤い紐で髪を束ねているこのコロポックルのことは最近特に見かけるようになった。

 とは言っても、身体が小さなコロポックルに手伝ってもらえそうなことは今のところ思いつかない。せいぜい、定食用のご飯に”ゆかり”を振りかけるとかだろうか。でもそれも、千咲が自分でやった方が断然早い。


 カウンターの呼び鈴が鳴る音で客の存在に気付き、千咲は小走りでフロントへと向かう。待っていた客は伝票を挟んだバインダーを黙って差し出してくる。何も言わないが、会計しろということなのだろう。

 無言を貫いたまま利用料金を支払い、静かに店を出ていく客の後ろ姿に向かって、千咲は「ありがとうございました」と控えめに声を掛けた。


 入店手続き時に希望のブース番号を答える以外は、一言も話さずに帰っていくという客は一定数いる。プライベートな時間を過ごす為にネットカフェを訪れる客にこそ、最近増えている無人精算機は喜ばれるはずだ。ただ中森曰く、「えー、無銭飲食しやすくなりそうだよね」なので、この店での導入はまだまだ先になりそうだ。


 レジ回りをさっと片付けてから、エントランスに並んだ鉢植えを眺める。いつだろうか、花屋の店先で初めて胡蝶蘭の値段を見た時、あまりに高くて言葉を失った。さらには素人では翌シーズンに開花させるのは難しいと聞いて、いろんな意味で、うわぁっと思わずにいられなかった。


 だからか、今日届いたという祝いの鉢植えは、花よりは長く楽しめそうな観葉植物の方が多かった。幸福の木と呼ばれるドラセナ、定番のパキラ、モンステラから、オリーブなど。

 その中の一鉢に、千咲は視線を止めた。ピンクと白の不織布で鉢ごとラッピングされたそれは、食材の卸業者から送られた物らしい。他に比べて背丈が低いからか、木製ベンチの上に飾られていた。複数の曲りくねった幹に丸みを帯びた緑の艶やかな葉を持つ、多幸の木――ガジュマル。


 なぜだか理由は分からないが、千咲にはこの鉢だけはここに置いてはいけない気がした。

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