第15話 石山まひろ
「女って、いつまでも子どもを生めるわけじゃないもんねぇ」
鏡に映る、お客様が笑いながら言った。
それは、心を深くえぐられるような話題だった。
お客様のお子さんの話題よりも辛い。
女性が、子を生むことができるタイムリミット。
私は、今までに何回、繰り返しその記事を読んだだろうか。
「そうですねぇ」
わかってる。
その言葉は、私に向けられたものじゃないってことは。でも。
私は馴染のお客様の話に、なんでもないふりを装って笑顔で頷いていた。
仕事に集中しよう。集中、集中!
……でないと、私は泣いてしまいそうだった。
私は、今日の天気のように、どんよりと曇った心を抱えたまま生きている。
この二年間、その曇り空が晴れに変わることはなかった。
いや、それどころか、ますます雲行きは怪しくなっていて、あたりは暗くなるばかりだった。
その原因は、私と夫との関係だ。
結婚したのは九年前、夫タケルは二十七歳、私は二十五歳だった。
『私はねぇ、お母さんが仲良し三人姉妹だったし、私も三人兄妹だから、子どもは三人産むって決めてるの!』
子どもは、望めばいつでも授かれると思っていた。
だから、あんな事を平気で言えたんだ。
あの頃は……ほんとうに輝く未来しか予想できなかった。
可愛い三人の子どもたち。かっこよくて、大好きな夫。
みんなで一緒に、なにをして遊ぼう?
お弁当持ってお花見……頑張っておいしいお弁当たくさんつくるよ!
暑くなったらプール……いろんな種類のプールがあるんだよ……私は流れるプールに浮き輪でプカプカするのが好き!
秋には紅葉狩りに行こう! 赤や黄色やオレンジ……きれいな景色をたくさん見よう!
私はタケルと二人で花を見るたびに、プールに行くたびに、紅葉を見るたびに、夢を膨らませていった。
そして、子どもたちが大きくなったら、私もおばあちゃんになる。うちのお母さんみたいに、可愛いおばあちゃんに。
私、なんて脳天気な夢を抱いていたんだろう。
結婚して七年が経っても、私たちは子どもに恵まれなかった。
私に原因が? それとも、タケルに?
二年前、私たちは何度も話し合った末に、不妊治療の病院を訪れた。
『というわけで、石山さんの場合はご主人の方に原因がありました』
検査の結果、医師の口から出た言葉。
それを聞いた瞬間に訪れた暗闇と、強い安心感。
タケルとの子は、どんなに望んでも授かれない。
でも、私には問題がないんだ。
私、子どもが生めるんだ。
湧き上がってくる、嫌な感情。
タケルを深く傷つけてしまうだろうその感情は、私がどんなに奥に押し込めようとしても顔を出した。
やめて。消えて。お願い。
そんなこと言うけど……私、ずっと悩んできたじゃない。
もう一人の私が囁く。
自分が原因で、子どもを授からないんじゃないかって。
私、お母さんになれないんじゃないかって。
私のせいで、タケルをお父さんにしてあげられないんじゃないかって。
ずっと、ずっと不安だったじゃない。
それが、違うとはっきりわかったんだもの、安心して当たり前よ。
タケルの運転する車が停まった。
窓の外は、いつの間にか見慣れた景色になっていた。
視線を運転席に向けると、ぼんやりと宙を見つめるタケルがいた。
夢は……変えることにする。
大丈夫。だって、私にはタケルがいるもの。
『私……タケルを息子だと思うことにするよ。おっきい息子! それに、私にはかわいい姪っ子も甥っ子もいるし……だから、大丈夫だよ!』
それは、強がりの混じった本心だった。
タケルと視線がぶつかる。
そこで、私の笑顔がいつものと違うんだ、というのがわかった。
タケルの瞳の、かすかな揺れ。
負けず嫌いのタケルが滅多に見せない、感情のもつれ。
忘れよう、自分の欲なんか。
抱きしめてくるタケルの体温を感じながら、私は欲の壺に蓋をして、そこに重しを何重にも乗せたのだった。
「ありがとうございました」
私は馴染のお客様を笑顔で見送り、頭を下げた。
「にゃーん」
ん? 猫?
「あれ、珍しい……君は見たことがないなあ……まだ子どもだね」
私はしゃがみこんで、すり寄ってきた茶トラの猫を撫でた。
体の大きさが、まだ大人のサイズじゃない。
「かわいいなぁ……うちもペット飼いたいな……いやいや、お別れするのが辛すぎるからやめてるんだった……あ、首輪してるから、君はどこかの飼い猫さんだね」
首輪の色は黒で、半月の形をした金色のチャームが揺れていた。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、子猫はずっと気持ちよさそうに撫でられている。
あ、ヤバい。ほんとに連れて帰りたくなってきた。
「石山さーん!」
「あっ、いけない、お客様が待ってるんだった……はーい、今戻りまーす!」
さすがに、店長から呼ばれてしまった。
平日の昼間でも、うちの美容室はわりと忙しいのだ。
「また会えたらいいな」
「にゃーん」
子猫はまるで返事をするように可愛く鳴くと、ちょこんと座って私を見た。
行ってらっしゃい、頑張ってね!
なぜか、そう言われたような気がした。
「うん、行ってくるね」
私は子猫からお店に視線を移す。
さあ、お仕事頑張ろう!
「お待たせ致しました!」
息を吸いながらお店のドアを開け、私は営業用のスマイルを浮かべたのだった。
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