第46話 侯爵家にて
心を消耗させたその日の夜、カレンは寝台に身を投げ出したい気持ちを堪えてソフィアの部屋を訪れた。いつも親身になってくれる友人にこれまでのことを打ち明けて、ようやく人心地がつけるように思えたからだ。
「まぁ、そんなところまで話が進んでいるの?」
全てを語り尽くすのは難しいのでレグデンバーに想いを伝えられたこと、ソフィアの言葉でレグデンバーへの想いを自覚したこと、彼に気持ちを告げたことを掻い摘まんで説明する。
話が婚姻にまで及んでいると知り、ソフィアは驚きの声を上げた。
「まだ正式な婚約ではないけれど……」
「二人の意思は一致しているんでしょう? 副団長がお相手なら心配することないわよ」
からりと笑って言い切られると本当にそう思えてくるから不思議なものだ。
「おめでとう、カレン。幸せそうで羨ましいわ」
空色の瞳を煌めかせた笑顔が眩しい。
駆け込んだ修道院でソフィアと出会えたから、カレンは今ここにいられる。
王城勤めが出来たのも、レグデンバーに出会えたのも、自分の生き方を考えられたのも彼女との出会いがあったからこそ。
ソフィアにも幸福が訪れますように、と心の中で願いながら「ありがとう」と微笑み返した。
◇◇◆◇◇
何度かの逢瀬の後、レグデンバーから侯爵家への誘いを受けた。
唐突な申し出に返答を考え倦ねているとこんな風に言葉が継がれた。
「兄の縁談がまとまりそうなので顔合わせをしようかという程度の話です。気負う必要はありませんから」
「ですが、部外者の私がお邪魔しても……?」
気が引けた様子のカレンにレグデンバーは小首を傾げて諭す。
「カレンは部外者ではないでしょう? すでにユヴェンやゼーラさんとは面識がありますから、残りは両親と長兄だけですよ」
残りだなどとぞんざいな扱いだが、カレンを怖じけ付ける最たる存在がそこに含まれている。ユヴェンの縁談を喜んでいたレグデンバー侯爵が、貴族でもないカレンを受け入れてくれるのだろうか。
かつて夜会で感じ取ったレグデンバー侯爵とレグデンバーの間に漂っていた微妙な空気も不安を駆り立てる要素のひとつだった。
「ドノヴァさんから見たお父様はどのような方ですか?」
「私の父に対する態度を見て、思うところがありましたか?」
図星を指されてぎくりとする。あまりにも唐突な質問だったか。
しかしレグデンバーは気を悪くした風ではなく、むしろ穏やかな微笑みでカレンの疑問に向き合ってくれた。
「父は私たち兄弟に期待をし過ぎるきらいがあるのです。父自身が非常に出来る人物だったそうですから、我々にも自身と同等かそれ以上を望んでいるようで」
「騎士の道を進むことに反対はなかったのですか?」
「えぇ、その点は有り難いことに。ただ、進むならその道の上を目指せとはうるさく言っていましたね。ユヴェンはそれが煩わしくなって国境勤務の第四団を選んだくらいです」
眉尻を下げて苦笑しているレグデンバーに侯爵への嫌悪感が含まれていないことがカレンを安心させた。
「父は早婚だったんですよ。今の私の年頃にはすでに三児の親でした。ユヴェンは国境に赴いたきり、良い人を見つけるでもなく職務に没頭していましたから、今回の縁談は父が業を煮やした結果なのです。早く幸せを掴め、と」
縁談を結ぶのにそんな理由もあるのか、と内心で驚嘆する。我が子の行く末、幸せを案じての縁談。親から子へ送られる愛情のひとつなのかもしれない。
だとすればレグデンバーにも見合った縁談相手を望むのではないだろうか。
「カレンは私が心に決めた人です。誰にも否定させません」
そう力強く言い切るものだから。
彼の言葉を信じ抜くと決めたカレンは意を決して頷いた。
◇◇◆◇◇
迎えに来たのは深い臙脂色の豪奢な造りをした馬車だった。扉には天に向かって花開くユリを
「お待たせしました。さぁ、どうぞ」
手を引かれ、馬車に乗り込む。
すでに職員寮に現れるレグデンバーの姿は珍しいものではなくなっていた。
時折職員たちにどんな関係なのかと問われることがある。親しくさせてもらっていると正直に答えると羨望の声が返ってくるが、それ以上騒ぎ立てられることはないので穏やかな日々を過ごせている。
「このような格好で大丈夫でしょうか?」
「愛らしい装いで素敵です」
うっと仰け反りそうになる。真っ直ぐな褒め言葉にはまだ慣れていない。
誘いを受けてすぐに紅色のワンピースを新調した。平素より幾分か割高なものを選んだが、それでも貴族家で使われる生地とは比べものにならない。対面に座るレグデンバーは優しく微笑みかけてくれるが、やはり緊張せずにはいられなかった。
「こちらの方にお越しになるのは初めてですか?」
「はい。前の……タウンハウスはおそらく郊外寄りでしたので」
カラカラと軽快に車輪を鳴らす馬車は王城に程近い整った街並みを駆け抜けている。小窓に流れていく建物は皆美しく、物珍しさで眺めているとそう尋ねられた。
「実は馬車に乗るのもこれで二度目なんです。王都に来たときに乗って以来で」
「今度は遠出の計画でも立ててみましょうか。馬で遠駆けするのも良いかもしれませんね」
少しずつ、これまでの事情を話せるようになってきた。自分自身の存在に戸惑って居場所を見つけられずにいた過去でも、けしてレグデンバーは蔑むことも厭うこともしない。ありのままのカレンを受け止め、得られずにいた経験があれば自らが進んで提示してくれる。
「楽しみにしています」
そんな彼の思いやりがカレンを素直に頷かせた。
やがて馬車はゆっくりと動きを止める。到着した屋敷は青々とした前庭を構えており、ミラベルトの邸宅に引けを取らない広大な造りが圧を放っている。重厚な大扉の前で待ち構えていた執事はレグデンバーとカレンを慇懃な挨拶で出迎え、中へと導いた。
通されたのは燦々と陽光の降り注ぐサンルーム。緊張に身を固くしたカレンは邸内の様子に感想を抱く余裕すら持てずに辿り着いてしまった。
「ドノヴァです。ただいま戻りました」
「まぁまぁ、お帰りなさい。久しぶりね」
雄大な庭に面したサンルームには華美なテーブルセットが設えられており、そこに一組の男女が着席していた。戸口に現れたレグデンバーの姿を認めて二人は立ち上がり、こちらへと歩いてくる。
「ご無沙汰しております。ユヴェンとヴォルフは?」
「ヴォルフは急な打ち合わせが入って領地で足止めよ。ユヴェンは出がけに書類を取り忘れていたことに気付いて遅れるのですって」
「
後半はカレンに向けられた言葉らしく、肩越しに振り向いたレグデンバーはそう囁いた。
そのあからさまな動作は侯爵夫妻に第三者の存在を知らしめることになる。
「あら。ドノヴァ、そちらのお嬢さんは?」
「私が親しくお付き合いしている女性です」
一歩横にずれたレグデンバーに軽く背を押され、彼の隣に歩み出る。まだ身体が覚えているカーテシーと共に挨拶をした。
「カレンと申します。突然の訪問、どうかご容赦下さい」
「私が無理を言って来ていただきました」
「なるほど」
そう声を発したのはレグデンバー侯爵。過去に二度聞いたことがある声だ。
見定めるような眼差しはレグデンバーにもユヴェンにもよく似ているが、一家の長たる威圧感は彼独特のものだと思う。早まる鼓動を感じながらもそんな印象を抱いていると、侯爵は余裕を漂わせた笑みを浮かべた。
「ようこそ、カレン嬢。私はドノヴァの父でフリオ・レグデンバー。こちらは妻のヴィクトリア。よくいらしたね」
「ドノヴァがお嬢さんをお連れするだなんて。さぁこちらへどうぞ。ユヴェンとゼーラさんが到着するまでお聞きすることがたくさんありそうね」
ヴィクトリアがしなやかな手つきでサンルームのテーブルを指し示す。レグデンバーにも「さぁ、行きましょう」と促され、カレンは柔らかな絨毯を踏み締めた。
「親しく、というのは
「はい、伴侶としてゆくゆくは彼女と家庭を築くつもりです」
繊細なレースクロスを掛けた丸テーブルには見るも華やかなティーセットが用意されていた。侯爵夫妻の斜向かいに腰掛けた途端に本題へと触れられる。
あら、と喜色を浮かべるヴィクトリアは栗色の髪が艶やかな溌剌とした女性だった。カップを口元に運ぶ所作まで美しい。
「カレン嬢はどちらの生まれで、どのような暮らしを?」
あくまで穏やかな態度を保ちつつも核心を突いた質問がフリオから飛んでくる。必ず触れられるだろうと予想していたので静かに息を吸って口を開いた。
「元はイノール子爵家の出です。修道院でお世話になり、今は離籍しております。数ヶ月前から王城の食堂でお仕事をいただいております」
「貴族家を離籍して王城務めに。なかなか珍しい経歴をお持ちのようだね」
「カレンは国王陛下主催の夜会に代表職員として選出されています。父上もお会いになっていますよ」
レグデンバーの補足を受けてフリオが僅かにその目を見開いた。
「……ミラベルト卿にお声掛けしたときにいたお嬢さんかな?」
「はい、あの場におりました」
「なるほど。ミラベルト卿が機嫌良く皿を受け取っていらしたから記憶しているよ」
二度三度頷くフリオの隣ではヴィクトリアが片手を頬に添えて考え込む素振りを見せていた。
「イノール家には体調が優れずに領地で静養なさっているご令嬢がいらっしゃると耳にしたことがあるけれど……あなた、ご姉妹はいらっしゃるのかしら」
「いえ、おりません」
「……そう、色々事情がおありなのね」
ヴィクトリアもまた慈しみに満ちた眼差しで二度頷く。
カレンはそんなレグデンバー侯爵夫妻の様子にとても不思議な感情を抱いていた。いや、厳密には隣で静かに見守っているレグデンバーも含めて、だ。
(家族ってこういうものなのかしら……)
様々な形態があるだろうが、ごくごく一般的な親子のやりとりとはこんな形で行われるものなのだろうか。
談話の場に父がいて、互いの言葉を交わして、相手を
人の言葉に耳を貸さないことも、一方的に抑え付けることも、誰かを悪と断じることもない。カレンの知らない世界だ。
「これまでのことは承知した。これからはどうするつもりかな?」
妻に迎えたいと願われ、それに頷いた。約束したのはそこまでで、先の展望を語り合ったことはまだない。
レグデンバーを仰ぎ見る。何を語るでもなく、ただ凪いだ眼差しでカレンを見つめ返してくる。素直に本音を伝えれば良い、と言われている気がした。
「自分自身の力で出来ることが少ない私にとって、王城でのお務めは毎日を生きる糧であり、矜持でもあります。可能であれば食堂での勤務を続けたいと考えております」
フリオに向き直って思いの丈を伝えた。
「お前はどう思っている? ドノヴァ」
「異論はありません。彼女の職務中の懸命な姿に心を奪われましたから、反対するつもりは毛頭ありません」
あら、とヴィクトリアが黄色い声を上げた。
彼が自身の夢を否定しなかったこと、カレンはそれだけで胸がいっぱいになる。
「我々が口を挟む余地もないのだな。さぁ、出すものがあるなら出しなさい」
フリオが呼び水を向けるとレグデンバーは胸のポケットから綺麗に畳まれた紙を取り出し、父親の方へと差し出した。
「ペンとインクをここへ」
命じられた執事が機敏に動く。すぐさま用意されたペンをインク瓶に浸したフリオの眼差しがすっとカレンに向けられた。
「私が
(婚約の半分? 認められる?)
カレンの位置からでは書面は読めない。思わずパチリと瞬くとレグデンバーがフリオの言葉を継いだ。
「婚約証明書です。正式な書類を提出すれば私たちの婚約が国中に公示されます」
「半分というのは、どういう意味でしょうか?」
「本来なら証人として両家の当主が署名するのだけれどね。空欄はどうするつもりだ? ドノヴァ」
テーブルに置かれた一枚の書類がカレンとレグデンバーの行く末を決定付けるという。その鍵の半分をフリオが握っているとも。
「ミラベルト様にお願いする予定です」
「ミラベルト卿に? 勝算は?」
「もちろんあります」
ミラベルトの手まで借りようと言うのだから驚かされる。
何よりもカレンを驚愕させたのはレグデンバーがこの書類を用意し、この場に持ち込んでいたことだけれど。
「ミラベルト卿を後見に付けるとは、どんな手管を弄したんだ」
「人聞きの悪いことを仰らないで下さい。私ではなくカレンの人柄故ですよ」
ね?と甘い笑顔でカレンの顔を覗き込んできた。そんな息子を見つめる侯爵夫妻は仰天と言わんばかりの表情を浮かべている。
「お前が
「はい、よろしくお願いいたします」
レグデンバーによく似た顔で再度確認され、カレンは背筋を伸ばして目礼する。間もなくフリオの握ったペンがさらさらと音を立てて紙面を走った。
「しかしユヴェンに先駆けて証明書を持ち込むとはどういう了見だ?」
「上手く運べば署名まで、とは思っていましたが。ユヴェンが
「それにしてもあなたが婚約まで手筈を整えているだなんて驚きだわ。そんな素振り、今までなかったでしょう?」
親子の会話が始まった。
フリオが書類をひらひらと揺らしているのを見て、侯爵でもあんな風にインクを乾かすのか、とカレンはどうでも良いことを思ってしまう。
「カレンの前では言い辛いことですが、子爵夫人が厄介な企みをお持ちなので真っ向から守れる立場が早々に必要でした。あとは父上のお陰です」
「私の?」
意外そうな顔色でフリオが問い返す。レグデンバーの眼差しが幾分冷ややかなものに変わった。
「公の場でまとまってもいない縁談話を軽々に口にされるそうですからね、自分のことは自分で纏めるべきかと判断しました」
似た顔立ちの父子がじっと見つめ合う。ぴりついた空気にヒヤリとしたが、齢を重ねた者の余裕でフリオはカレンに微笑んだ。
「こんな愚息だけれど、よろしく頼むよ」
「とんでもありません。こちらこそよろしくお願いいたします」
「伴侶を守りたいと言うのなら二番手などで満足しているわけにはいかないな? せいぜい高みを目指しなさい」
同じ微笑みで息子に声を掛けている。対するレグデンバーが珍しくうんざりとした表情を見せたとき、扉がノックされ本日の主役の到着を告げた。
「さあ、大切に持っていきなさい」
署名の入った婚約証明書がテーブルを滑ってレグデンバーの手元に戻る。
数ヶ月前、運命の分かれ道となった子爵家を飛び出したあの日。
同じ手続きを踏むために用意された両日だというのに、様相はまるで違う。
「婚約披露のドレスを一緒に選びましょうね」
ぽん、と軽やかな手をカレンの肩に置いたヴィクトリアがにこやかに告げて、ユヴェンたちを迎えに戸口に向かっていく。
膝に置いたカレンの手が隣から差し出された大きな掌に包まれた。
「疲れていませんか?」
見下ろす藍色も、穏やかな声も、伝わる温もりも、その心遣いも。彼だけに限らないこの場の空気の温かさがカレンの深くに染み渡る。
じんわり浮かぶ涙で煙る視界の向こう、レグデンバーはやはり優しく微笑んでいた。
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