第37話 誰がための

 店員が押し開く扉を潜って石畳を踏む。まだ高い位置にある太陽が目に眩しい。


「素敵なお店をご紹介下さってありがとうございました。とても美味しくて楽しい時間を過ごせました」

「気に入っていただけたのなら何よりです」

「いつかソフィアを誘っても構いませんか? キャラメルソースできっと驚くと思うので」

「ええ、もちろんです」


 目を輝かせるであろう親友を思うとその日が待ち遠しい。あのケーキを選んだカレンを見るレグデンバーもこんな気持ちだったのかもしれない。


「少し通りを歩きませんか? この職人街には実売している店舗もあるので散策に向いているのではないかと思います」


 そう言われて立ち並ぶ建物を改めて見回せば、通りに向けて大きなガラス窓を設えている店舗が多い。


「観劇の日には気付きませんでした」

「夜道ではわかり辛かったでしょうね。気になる店舗があればゆっくりご覧になって下さい」

「はい、楽しみです」


 カレンが店舗側になるように立ち位置を変えたレグデンバーと歩き始める。独特な作業着姿の職人やお仕着せを身に着けた使用人らしき人影が行き交うこの通りは食堂で働くカレンにはどこか居心地が良い。


(ここはお皿の専門店かしら……こっちのお店にはナイフとフォークがたくさん並んでいるわ)


 通り過ぎざま、窓際にずらりと並べられた商品を眺めていく。それぞれが専門店だけあって陳列された品々の豊富さは目を見張るものがある。

 カンカンと金属を叩く音が微かに響く中、食器や調理器具を扱う店を横目に歩いているとレグデンバーが屈むようにして話し掛けてきた。


「この先は服飾の品を扱う店舗が並ぶのでカレンさんの興味を惹くものがあるかもしれませんね」

「私、衣類にそれほどこだわりは……」

「仕立屋ももちろんありますが、紡績や染織の工房もあるので品揃えは随一ですよ。例えば刺繍糸とか」


 はっと目を見開いた。

 ドレスや装飾品ならガラス越しに流し見るだけで十分だけれど、刺繍糸ならじっくりと手に取って見てみたいし、気に入るものがあれば購入したい。

 ソフィアに教えるついでの手慰みで再開した刺繍だったが、材料を購入し仕上げた作品を形に残すことは、労働で給金を得る自分自身を認めることにも繋がっていた。


「是非見てみたいです」

「そう仰ると思っていました」


 あっさり掌を返した自分を恥じるものの、カレンが気に入るだろうと提案してもらえたことを素直に嬉しく思った。

 予定を決めずにその時々で思うままに行動する、とはレグデンバーの談だが、ケーキにしろ刺繍糸にしろ彼が差し出すのはカレンの好みを考慮した上での選択肢ばかりだ。


(素晴らしいお人柄だわ。それに……)


 多種多様の帽子が展示されたガラス窓を通りすがりに覗き込み、その刹那ガラスに反射したレグデンバーの表情を窺う。

 彼からすれば後頭部を見せているカレンなのに、向けられている視線は優しく緩んでいる。

 どうして、と思う気持ちは未だ拭えない。しかし彼に伝えられた想いを疑う気持ちはもう薄れつつあった。


「あっ、こちらのお店でしょうか?」

「そのようですね。入りましょう」


 いくつかの店舗をやり過ごした後、目的地に辿り着いた。窓際には見るも鮮やかな色とりどりの布地が天井から吊るされている他、艶やかな糸や縫い付け用の天然石、繊細に彫られたボタンが並べられており、ひと目で目当ての店だとわかる。

 レグデンバーが開いてくれた扉の内側にそっと足を踏み入れると思いの外に店内は広く、カレンの想像を上回る量の生地や刺繍糸が商品棚を埋め尽くしていた。


「いらっしゃいませ。何をお探しでございましょう?」

「好きに見させてもらっても?」

「もちろんでございます。ご用の際にはお声掛け下さいませ」


 身なりの整った老齢の店主は朗らかにレグデンバーとやりとりすると、カレンにもにっこりと一礼して店の奥に引き下がっていく。


「私は門外漢ですし、ゆっくりご覧になりたいでしょうから別行動にしましょうか」

「はい、あの、レグデンバー副団長のご迷惑にならない形でお願いします」


 カレンに合わせてもらっている自覚はあるのでそう答えれば、ふっと吐息で笑われた。


「どう転んでも迷惑にはなり得ませんけれどね。店内を回っていますので気の済むまでどうぞ。後で落ち合いましょう」


 見送るように言われてしまえば行動に移す他ない。軽く会釈をしてからぐるりと視線を巡らせて、少し先に刺繍糸の棚があるのを見つけてそちらに移動した。


(あぁ、なんてたくさんの数……)


 レグデンバーの手前、落ち着いた態度を装っていたが、入店してからというもの心がずっとそわそわしていた。

 ソフィアと出掛ける商店もそれなりに充実した品揃えだと思っていたけれど、それを遙かに上回る糸が色の波を作っている。圧倒的な色彩が目に眩しい。


「綺麗……」


 持ち上げた一束を眼前にかざせば、思わず感嘆の言葉が口をついて出た。

 日頃購入するものに比べれば値は張るが、この絶妙な色合いと光沢を見れば納得もいく。微妙に移り変わっていく多様な色を目で追いながら、頭の中ではどんな刺繍を刺すかという算段に意識は飛んでいた。


(三角巾に刺すのもいいけれど……)


 そっと背後を窺う。逞しい背中をこちらに向けたレグデンバーはゆったりとした動きで飾られた商品を眺めている。


(私の刺繍をお礼にだなんて、おこがましいかもしれない)


 過去の自分なら、そう押しとどめてしまっていたと思う。


(でも、レグデンバー副団長はきっと受け取って下さる)


 ソフィアに贈ったリボンの刺繍を羨ましいと言ってくれた。

 男性への贈り物じゃなくて良かった、とも。

 観劇の日には自らの意思でカレンをエスコートしてくれたし、今日の外出も彼からの誘いで美味しいケーキまでご馳走になった。


(私にはこれくらいしか出来ないけれど)


 再び陳列棚に向き合う。

 彼に似合う色はどんな色だろうか。まぶたの裏側に思い浮かべたレグデンバーを透かすように並ぶ糸に目を走らせる。


(そうだわ、生地も買わないと……ハンカチが良いかしら。騎士様が持つならしっかりした生地? そちらの色は何色が……)


 どんどんと思考は広がっていくが、それでもカレンは緑がかった灰色の瞳を懸命にこらす。

 レグデンバーのことを思って、ひたすらに色を探し続けた。



◇◆◇



「……申し訳ありません。随分とお待たせしてしまって」


 頭を下げて謝罪するカレンの手には買ったばかりの刺繍糸とハンカチが収められた小さな紙包み。

 選び抜いたそれらを持って会計に向かったとき、レグデンバーは店主と談笑していた。おそらくカレンが悩みに悩んで取捨選択している間、店内を見回っても尚時間を持て余したのだろう。壁の掛け時計はすっかり針を進めていた。

 待たせてしまったことへの申し訳なさに加え、贈る予定の張本人に購入品を見られまいと挙動不審になるカレンをレグデンバーは咎めることもせず、「真剣に見入っていましたね」と温かく迎えてくれた。

 そして今、店から出て改めて謝罪するカレンに彼は再度笑顔を向けた。


「気の済むまで、と言ったでしょう。カレンさんがどれほど刺繍に熱意を注いでいらっしゃるかを知れて嬉しいですよ」


 あなたに贈るものを選んでいたから、知らず時間を掛けてしまったのです。 

 そう言ったなら彼はどんな顔をするのだろうか。

 もちろん、刺繍を仕上げるまでは内密なので打ち明けることは出来ないけれど。しかしレグデンバーならきっとそんなことですら、嬉しいと応えてくれそうな気がした。


「私一人で楽しんでしまって恐縮ですが、満足のいくお買い物が出来ました。連れてきて下さって本当にありがとうございます」


 自然とこぼれる笑みで礼を述べれば、レグデンバーの目尻も一際下がる。

 日射しに照らされた甘いチョコレート色の髪、睫毛の影を受けて濃く輝く藍色の瞳。普段の騎士服よりも簡素で落ち着いた色合いの衣装。

 見慣れたはずの笑顔なのに、食堂で見掛ける彼とはどこかが少しずつ違う。


 カレンもまた自分自身に確実な違いが生じていることを自覚していた。

 ただ優しいとばかり思っていた笑顔を見せられると胸の奥底からほかほかと温かい気持ちが沸き起こり、同時に鼓動が早まっていく。ばっちりと視線が絡み合ってしまえば刹那挙動を忘れてしまう。

 

「このまま散策を続けますか? 少し歩けば噴水で有名な広場もありますが」

「他のお店も気になるのでもう少し見て回っても構いませんか?」

「もちろんです。疲れたときは仰って下さい」


 また肩を並べて歩こうかと動き始めたとき、通りに一台の馬車が入ってきた。道幅は狭くないのでそのまま店舗際に沿って進んでいると、二人の進行方向で馬車は停車する。

 御者が扉に張り付く様を見て違和感を覚えた。通りを行き交う人々の多くは職人かお仕着せ姿の使用人で、御者に丁重な扱いをされるような人物像とはかけ離れている。

 不躾だとわかっていても何となく視線を外せずにいると開かれた扉から年嵩の男性が降り立った。その身体の影に女性が続く。

 金髪の女性だった。

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