第33話 真っ向勝負

 折原との勝負の日、鶴見北高校のグラウンドはお祭りのような賑わいだった。 


 ホームベースから外野スタンドに向かって、七月初旬の乾いた風が吹いている。 


 バッターにとっては絶好のホームラン風だ。 


 当たり損ねの外野フライでも、風に乗ればフェンスを越える危険性がある。向かい風ならば強気で攻めていけるが、今日の風では制球には細心の注意が必要だ。 


 七海はキャッチャーの菜穂子を相手に投球練習に余念がなく、折原は三塁ベンチ前で金属バットをぶんぶんと振っている。 


 しかし、真剣勝負モードなのはバッテリーと打者バッターだけだった。 


 ホームランか三振かでなければ勝負が決着しな変則ルールであるため、ランニングホームランさえ防げばいい外野陣は軽くキャッチボールをしているぐらいで、内野陣に至ってはぺちゃくちゃとお喋りを交わしている。まるでピクニック気分のような気楽さだ。 


 自慢の赤髪を少年のような短髪にカットしてきた柚希は、赤橙色を基調とした母校のユニフォームに身を包み、背中に十五キロ超の移動販売用直出し式生ビールサーバーを背負っている。


 折原対七海のガチンコ対決の見物に訪れたギャラリーに、ちゃっかり生ビールを売りつけている。 


 審判役を買って出た北大路荒野は、いつものチロリアンハットにトレンチコートという出で立ちで、その上から審判用マスクとプロテクターを装着しているものだから、見た目からして暑苦しい。


 左手に団扇を持ってぱたぱたと扇いではいるが、ブルドッグのように舌を出してはあはあと喘いでおり、暑さで今にもぶっ倒れそうだ。 


 三塁側ベンチには司とこつり嬢、ギャラリストの曾根崎一二三の藝大組が仲良く並んで座っていた。司の膝の上には大きめのスケッチブック、手には鉛筆が握られている。


 曾根崎は三脚にビデオカメラを取り付けており、涼しげな麦わら帽子をかぶったこつり嬢はかき氷をもしょもしょと食べている。 


 柚希は移動販売用のビールサーバーだけでなく、この日のために業務用のかき氷機まで購入しており、バタフライ・シャドウの仰木店長まで呼びつけて、かき氷をせっせと作らせている。 


 勝負の言い出しっぺである春日は、誰も頼んでもいないのに「友情出演だ」と言い、一塁ランナーを買って出た。七海がピッチング練習をしている間、たぷたぷの腹を揺らしながら、盛んに一、二塁間をダッシュしている。 


 折原の打撃をアシストすべく、ご自慢の盗塁を披露するつもりなのだろうが、「投手の手からボールが離れるまでは離塁してはならない。離塁即アウト」というソフトボール特有のルールを知っているのだろうか。 


 春日が一塁にいても勝負にはなんの関係もなく、ただ目障りなだけなので、ベンチに座ってかき氷でも食べていて欲しい。 


 生ビールをぼったくり価格で振る舞っていた柚希がビールサーバーをベンチにおろし、ベースボールキャップを逆向きにかぶった頭にグローブを乗っけて、ショートの守備位置に就いた。


 足取りがやけによたよたしているな、と思ったら、右手に生ビールの注がれた使い捨ての紙コップを持っていた。 


 柚希は紙コップを高々と掲げると、大宴会での乾杯の合図のような大声をあげた。


「さあ、しまっていこうぜぃ!」 


 左手にグローブすらはめず、あろうことか酒を飲みながら守備位置に就いているってどういうことだよ。


 いくらなんでも不真面目すぎるぞ、と七海が内心で憤慨しながら、右打席に入った折原に対峙した。


「しまっていこうぜ」という掛け声には「気持ちを締めていこうぜ」という意味合いがあるが、半ばお祭り会場と化したグラウンド内で気持ちを引き締めているのは、七海と菜穂子、そして折原だけだ。 


 菜穂子が三本指を立て、初球のサインを出した。


 七海がこくりと頷く。 


 浮ついた空気の中で、七海が第一球を投げ込んだ。 


 右手から放たれたボールはインコースに食い込み、折原の手元で急激にホップした。 


 胸元から一気に浮き上がったボールは、打者の顔面に直撃せんばかりの勢いで迫った。折原は思わずバットを取り落とし、尻餅をついて倒れ込んだ。 


 ストライクゾーンを外れはしたが、七海が投げ込んだボールのえげつなさを目の当たりにして、グラウンドを取り巻いていた軟派なムードが一変した。


 菜穂子の背後に突っ立っていたお飾り審判の北大路まで、折原と同じようにのけ反っていた。


「へいへいへーい、バッターびびってるぅ!」 


 紙コップをグラウンドの外に向かってポイ捨てした柚希が大声で野次を飛ばした。左手にグローブをはめ、腰を落として、真面目に守備態勢に入っている。 


 たった一球投げただけなのに、菜穂子がピッチャーズサークル内まで近寄ってきた。 


 七海がグローブを突き出すと、菜穂子はボールを手渡してから、ぽんと右肩を叩いた。


「現役のときよりも浮き上がっていたよ。今まで受けた中でも最高のボールだった」


「まさか。昔のボールはこんなものじゃなかったよ」 


 七海が真顔で否定する。菜穂子はマスク越しに笑っていた。現役のときに比べれば十キロか十五キロは遅くなっていただろうし、浮き上がり方だって満足のいくものではない。 


 でも、また投げることができた。 


 右肩がぴりっと痛んだが、まだ平気だろう。 


 菜穂子は三塁側ベンチにちらりと視線を送った。


 司はスケッチブックに鉛筆を走らせており、曾根崎一二三はビデオカメラのファインダーを覗き込んでいる。


「七海がこんなものじゃないのは私がよく知っているよ。ズバッと三振にとって、最高に格好いいところを見せてあげよう」 


 こちらをちらちらと仰ぎ見ている司をもろに意識してしまったからか、続く球は高めにすっぽ抜け、三球目はプレート前でワンバウンドし、四球目は外角に大きく外れた。 


 一球もストライクが入らず、フォアボール。 


 これ見よがしに打席を外した折原は素振りを繰り返した。 


 おいおい、ストライクを投げてこいよ、という挑発だ。 


 ショートを守っていた柚希と、一塁ベースの上でふんぞり返っている春日が声を揃えて野次ってきた。


「へいへいへーい、ピッチャーびびってるぅ!」 


 春日はともかく、味方のはずの内野手から野次られるなんて初めての経験だ。


 七海が振り返り、鬼のような形相を浮かべて威嚇すると、柚希は口笛を吹きながら知らん顔をした。 


 菜穂子が間を取りに、またピッチャーズサークルまで駆け寄ってきた。 


 正式な試合では、守備側・攻撃側ともに打ち合わせは一イニングにつき一回と定められているが、これは正式な試合などではない。 


 公式ルールに準ずる必要もなく、菜穂子の好きにすればいい。 


 菜穂子に肩を組まれ、深呼吸するように言われた。 


 余計な力が入っているよ、と言いたいらしいが、この状況で力を抜いて投げられるはずがない。


 フェンスオーバーされたら春日と結婚なのだ。


 司に格好いいところを見せるどころではない。


 こっちはこっちで、人生がかかっているのだ。 


 七海が不満そうな顔をすると、菜穂子はすべて分かったとばかりに頷いた。


「細かいコースは考えなくていいよ。ど真ん中でもいい。思いきり腕を振って、全球ライズボールでいこう。大丈夫、ぜったい打たれやしないから」 


 菜穂子は手を軽くグーに握り、七海の心臓のあたりにこつんと触れた。 


 全球ライズボールのど真ん中、まさしく真っ向勝負。 


 仕切り直しの初球はやや内側に入り、折原のバットが一閃した。 


 痛烈な当たりが三塁線を襲うが、わずかにフェアグラウンドを逸れ、ファールとなる。 続く二球目はやや高めに浮いた。 


 小技が得意な折原らしからぬフルスイング。 


 ジャストミートされた打球は高々と舞い上がり、レフトポール際を襲う。 


 やばっ、と全身が総毛立ち、打球が飛んだ方向をすぐには振り向けなかった。 


 バットを高々と放り投げ、ベースを一周しようとしかけていた折原がちっ、と舌打ちした。


 七海がおそるおそる振り向くと、打球はレフトポールをわずかに左に切れ、特大のファールとなった。


 助かった。命拾いした。 


 これでツーストライクまでこぎ着けたが、生きた心地がしなかった。 


 高校時代は主に二番を打ち、小技に徹していた折原とはいえ、さすがに男子だ。女子選手とは比較にならないぐらいのパワーがある。 


 だが、ツーストライクと追い込んでからの折原は大振りすることなく、しつこくボールに食らいついてきた。


 五球、六球、七球、八球とファールで粘られるうち、七海が根負けしてコントロールを乱し、ツーボール、ツーストライクの並行カウントとなった。 


 力をセーブすることなく投げ続けたせいで、右肩が小さな悲鳴をあげるようになった。 


 折原の目論見は見え見えだ。 


 ツーストライクに追い込まれたこの打席はフォアボールか、あるいは凡打でいい。 


 カウントがリセットされれば、またフルスイングでホームランを狙う。


 そうやって延々と打席を繰り返されれば、投げるたびに肩を消耗するピッチャーの方が明らかに不利だ。 


 三振かホームランかの結果が出るまでサドンデスのルールである以上、三振に切って取るしかない。 


 ここまでバカのひとつ覚えのようにライズボールを投げ続けていた七海は、意表をついてチェンジアップを放った。 


 外角ぎりぎり低めに沈んだボールは絶妙のコースに決まった。 


 折原はぴくりとも反応できず、呆気にとられた顔をした。 


 見逃しの三振!  


 ゲームセット……と思いきや、審判の北大路が首を横に振った。


「終わり方が美しくない。小説のオチとしては弱い。だからボール!」 


 公正中立であるべき審判が思い切り私情混じりの判定を下した。 


 小説のオチとしては弱いだあ?  


 ちゃんと絶妙なコースに落ちたじゃないか、ふざけんな!  


 疲労困ぱいの七海が肩で息をしながら北大路に詰め寄ると、すんでのところで菜穂子が間に割って入った。


「七海、あと一球だよ。最後まで頑張ろう」 


 菜穂子からボールを受け取った七海は、北大路を思いきり睨みつけてから、投手板の上に戻った。


 ああ、もう小細工なんてするものか。


 ぜえぜえと喘ぎながら、七海はライズボールの握りをし、折原に見せつけた。


 球種をあらかじめ宣言する予告投球。 


 破れかぶれの気分で思い切り右腕をぶん回すと、右肩が丸ごとすっぽ抜けていきそうなほどの勢いがついた。 


 前方につんのめりながら投げ込んだライズボールは、ストライクゾーンど真ん中に吸い込まれていく。


 折原が「待ってました!」とばかりにフルスイングする。 


 その瞬間、すべてがスローモーションのように映った。 


 七海が投じたボールが意思を持ったようにきゅっと浮き上がり、金属バットの上をかいくぐり、菜穂子の構えたピンク色のキャッチャーミットに吸い込まれた。


「どうだ、これで文句あるかぁ!」 


 七海は拳を高々と突き上げ、派手なガッツポーズをすると大声で吠えた。 


 折原を指差し、早口でまくし立てた。


「いいか。菜穂子はもともと、わたしの嫁だからな。浮気したら殺す。泣かしても殺す。幸せにしてあげろとか陳腐なことは言わないぞ。だってもう十分幸せじゃん。なおと結婚できただけで幸せなのに、それ以上の幸せがあるか。ふざけんな! なおを独り占めするなんてずるいぞ、畜生め! ちょっとは周りにも幸せを分けやがれ。この幸せ泥棒が!」 


 投手の力を引き出すため、投手を奮い立たせ、褒めちぎり、宥めすかし、ときには叱り、檄を飛ばして、うまく操縦リードする縁の下の力持ちであるキャッチャーは、まさしく「正妻」と呼ぶに相応しい存在だ。 


 その意味からすれば、折原と結婚を決意するずっと前から菜穂子は七海の嫁だった。 


 中学一年生のときから夫婦バッテリーだった菜穂子がほんとうの「妻」になる。 


 嬉しいはずなのに、笑顔でお祝いしてあげなきゃいけないのに、涙が溢れてきて止まらなかった。


 七海が投手板の上にうずくまって号泣していると、キャッチャーマスクをとった菜穂子が駆け寄ってきた。


 菜穂子に肩を借りて立たせてもらうと、背中に生ビールサーバーを背負った柚希がビールを噴射してきた。 


 目の前が泡まみれになり、なにも見えなくなる。


「ほんと七海はピッチングのときになると豹変するね。アドレナリン出まくりじゃん。おかげで面白い絵が撮れたけどね」

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