第11話 北大路荒野

 陰気な珈琲店を出てから白猫に戻るまでの距離は、ほんの二、三分程度であったが、信号待ちをしている間に一度、そして店前の路地に折れる間にもう一度、いかにも粘着質なストーカーが発していそうな強烈な視線を感じた。 


 腹の中で温めていた独立計画を七海に語った卯月はるんるんとスキップするぐらいに浮かれていて、銀行強盗を演じるコントでお馴染みの目だし帽をかぶり、おまけに白いマスクまで着用した、見るからに妖しさ満点の人影なんぞには注意を払っていやしなかった。


 尾行するにしても、もうちょっと格好を選べよ、とつい突っ込みたくなるような目立つ扮装をした男は、巡回中の警察官に肩を叩かれ、職務質問を受けていた。 


 あんな悪目立ちする格好をして、渋谷のセンター街や道玄坂ならならまだしも銀座の街中をうろついていれば即座に通報されるだろう。


 スマートフォンを右手に持った、いかにも神経質そうな黒ずくめの幽霊みたいな女性が、尾行男に刺すような視線を投げかけていた。


 警官に呼び止められて目出し帽を脱いだ尾行男は、背格好にも容姿にもこれといった特徴のない中年男だった。


 警官に向かってコメツキバッタのようにへこへこと頭を下げ、季節外れの厚ぼったいジャンパーの内ポケットから身分証らしきものを取り出し、御代官様に山吹色のお菓子を献上するかのようにうやうやしく提示している。


「あれ、なにかしら。お笑い番組の収録?」


 七海が店内に戻ると、空のお盆を持ったマダムがさっそく声をかけてきた。


「なんですかね。浮気調査中の私立探偵とかじゃないですか。きっと脱サラしたばかりで、尾行に慣れていないんですよ」


「探偵? 七海ちゃん、それどういうこと」 


 おっと、ついつい口が滑った。


 可能性からすれば、絶賛不倫中のウーコの身辺を調査している私立探偵の偽フィリップ・マーロウか、水面下で独立計画を企てている五味副料理長の動向をマークしている部署の下っ端だろうか。


 白猫グループ内で主に誘拐や立てこもり事件を扱う総務部第一特殊班捜査の内偵かもしれない。 


 最近、そんな感じのハードボイルドなミステリばかりを読んでいて、暗躍する人影のすべてが脱サラした私立探偵か、巨大組織に歯向かうアウトローに見えてきてしまう。


 ちょっとしたビョーキだ。


「もしかして、キタコー? 北大路きたおおじ荒野こうやの見捨てられた街シリーズのことでしょう」


「あっ、そうです。OJ探偵社のキタコー先生です。大学でミステリー研究会に入った同級生から猛烈におススメされて、今どっぷりハマってるんです」 


 ここ最近、菜穂子から熱烈に薦められたのが、ハードボイルドなミステリーを書く覆面作家の北大路荒野だ。 


 デビューからまだ四年足らず、シリーズ作とはいえ何十冊も刊行しているわけではなく、単行本と文庫化したものを合わせても五冊しか出ていないので、手が出しやすかった。 


 いざ読んでみたら、ハードボイルドとは名ばかりのシュールさにハマった。 


 名探偵の主人公がとにかくよくぶん殴られて、気絶するのである。


 台詞だけを読むと、ひたすらにタフで最高に格好いいのに、毎度病院送りにされてすべてが台無しになるのだ。その落差があまりにも激しく、期待を裏切らないお約束の展開には妙な中毒性がある。 


 作者と同名のキタコーが私立探偵として奮闘する話であるが、四十半ばで探偵に転身するまでは高校の社会科教師を務めており、守るものが増えると人生が重たくなるという気障ったらしいポリシーから独身を貫き(その割に見合いには連戦連敗を重ね)、二匹の飼い猫の名前は「点」と「線」、一作品につき平均三回は後頭部を強打されるという不幸体質の持ち主で、物語の冒頭は常に入院のシーンから始まり、病棟のベッドで頭のネジがぶっ飛んだ推理を披露してはなんども脳の検査をされる。


 オージェイ探偵社の社名の由来は、ローマ字表記にしたKITAOOJIからOJさんを抜き出した、ともっともらしく説明されているが、頼れる中年をアピールしての、あえての社名なのか、ただの自虐なのかは謎に包まれている。 


 著者近影やインタビュー写真には、夏でもトレンチコートを着て、チロリアンハットをかぶった、作中のキタコーの姿そのままの暑苦しい中年男が写っている。 


 ネット上では、この覆面作家の正体をめぐっていろいろな議論が交わされているが、いまだにその正体は判明していない。


 無駄に筆力があり過ぎるせいで、とある有名作家の変名ではないかという説や、主人公の設定通り、都内在住の高校教師が片手間で書いているんだ、という説が有力らしい。 


 しかしトレンチコートの中年男はただのお飾りにすぎず、生活描写のさりげない書きっぷりの巧みさと、物語の最後には後頭部を殴られてハードボイルド路線が崩壊するという男性性の明らかな否定から、女性のゴーストライターの存在までもが示唆されている。 


 とにもかくにも中高年男性を中心にキタコー作品がヒットしたせいで探偵業を始める人間が続出し、北大路荒野が監修した探偵開業のマニュアル本が飛ぶように売れ、素人探偵が乱立する火付け役となった。 


 探偵の開業熱はそろそろ一巡し、今やコンビニや歯科医院並みに過当競争の探偵事務所の差別化を指南する高額セミナーがトレンドであるらしい。 


 一時の開業ブームのせいで供給過多となり、経営難によって廃業する探偵事務所も多く、事務所内の備品に加えて顧客リストごと譲るとの好条件で居抜き物件サイトに情報が流れていたりもするようだ。


 探偵業法の第十条第一項には守秘義務がばっちり定められているのだが、居抜きで事務所ごと売り払っていいのだろうか、と思わなくもない。


「七海ちゃん、そういえば今日の九時に予約が入ったのよ。北大路の名前で二名」 


 マダムがカウンターの内側から手招きして、予約台帳の末尾に指を指した。卯月は厨房の方へ顔を出しているらしく、本来の持ち場にその姿はなかった。


「もしかして本物のキタコーですか?」


「北大路なんてそんなにありふれた名字じゃないでしょう。ひょっとしたら、ひょっとするわよ。私、今日は八時上がりなのよね。残念だわあ。本物のキタコーだったらサイン貰っといてちょうだい。あとで色紙用意しとかなきゃだわ」 


 マダムが色めきだっているが、七海もまたそれ以上に色めきだっていた。


「キタコーの名前で電話してきたのは男性でしたか、女性でしたか」 


 作者と思しき人物が直接電話してきたとしたら、声はおそらく渋くて低いはずだ。


「そういえば若い女性の声だったわね。なんとか出版とか言っていた気がするわ。電話を受けた時間帯に、ちょっとごたごたしていたから聞き逃しちゃった」 


 マダムがさもすまなそうに言った。普段ならばオーダーテイクでミスをしても、こんなに申し訳なさそうな表情はしない。よほどキタコー先生が好きなようだ。


「もしかして鳳凰堂出版ですかね」


「そうそう、たしかそんな感じ。見捨てられた街シリーズの版元よね、そこ」 


 広告代理店大手の鳳凰堂が、経営の傾いたミステリ専門の出版社を買収し、鳳凰堂出版と社名変更したのはつい三、四年前ぐらいの話だ。 


 にわかのミステリファンなので、買収前の元々の社名についてはまるで記憶にないし、北大路作品以外を手に取ったこともないが、バイト先の書店では鳳凰堂出版の帯のついた作品がよく平積みされている。


「九時の予約、ひょっとしたらひょっとするかもしれませんね」

「ほんとうにねえ。私も今日だけは十時まで残業しようかしら」 


 マダムときゃあきゃあ言いながら盛り上がっていると、カウンター前に戻ってきた卯月にじろりと睨まれた。さすがにお遊びが過ぎたらしい。


 頭を下げたまま配膳スペースを小走りに駆け抜けた七海は、ロッカーで私服からチャイナ服に着替え、厨房に大声で挨拶した。


「休憩ありがとうございましたあっ!」 


 大真面目な表情で大皿に前菜を盛りつけていたゴトゥーさんが「うるせーぞ、ちゃなみ! 遅刻をでけえ声で誤魔化すんじゃねえ。遅刻分は天引きだからな」と言って笑っていた。 


 一回り以上年上の後藤を臆面もなくゴトゥーさん呼ばわりしている仕返しなのか、気がついたら「ちゃなみ」と呼ばれていた。


 まあ、いいけどさ。

 ちゃなみでも。


「ゴトゥーさん、今日何時までですか。もしかしたら九時にキタコー先生が来るかもしれないですよ」


「キタコー? 誰だ、それ。今日は料理長と俺がラストまでいるぞ」


「知らないんですか、最近有名になりつつある小説家ですよ」


「知らん。小説なんてもんを読んだのは小学校以来だな」 


 七海は黒檀の箸を手洗いしてから丸盆の上に広げたタオルの上で転がし、水気を拭きとってから銀色の作業台の手前にある箸箱に戻した。


 喋りつつも手は止めてはいないが、薄味の帝王のお耳には騒音だったようで、「お前ら、ちょっと黙れ」と怒鳴られた。 


 午後に入っていた三組の宴席のうち一組は団体客で、店奥にある大部屋――五十一卓を貸し切っての給仕となった。 


 十人掛けの円卓が二つ並んだオーソドックスな室内に二十人もの客が一堂に会すと、肩がくっ付きそうなぐらいの間隔で並んだ客の背の隙間から料理を供さねばならず、コース料理をひと通り運んでは下げて、を繰り返すだけでも一苦労だった。 


 九時から北大路荒野が来店するかも、という淡い期待だけを楽しみに悪夢のように騒々しい宴席を捌き、あとはデザートを配るだけの段となって厨房前の配膳スペースに戻ると、卯月チーフがしかめっ面をしながら従業員用の湯呑みでプーアール茶を飲んでいた。 


 レジ後方の従業員用通路の奥にある配膳スペースは客からは目につかない場所にあり、ホールスタッフは隠れてお茶を飲んだり、雑談しながら温かいおしぼりを補充したりする。 


 時刻はとっくに九時十五分。


 料理のラストオーダーは九時で、ドリンクのラストオーダーが九時半だから、すべての料理を作り終えた厨房はもうそろそろ鍋の火を消し、片付けを始める頃合いだ。ウーコはプーアール茶を飲み終えると、湯呑みを返却台に戻した。


「五十一卓、デザートオープンです」 


 七海が冷蔵庫から人数分の杏仁豆腐とマンゴープリンとタピオカを取り出し、小皿に乗せて、レンゲを添えていると、卯月が苛立った声を出した。


「ありがとう、あとはあたしがやっとくから大丈夫よ。それよりナナ、十一卓にオーダー取りにいってくれない。予約時間に十五分近く遅れてくるわ、ラストオーダーだって言っているのにちんたら話していて注文はしないわ、お召し物を預かりますって丁寧に言ってるのにトレンチコートは意地でも脱がないわ、なんかもうムカつく客でさあ」 


 卯月がデザートの用意をしながら毒づいていたが、七海は「はい、すぐ行きます!」と返事をするなり、オーダー端末を持って、レジの斜め向かいにある中国のベッドルームをイメージした六席だけの半個室である十一卓に急行した。 


 通路側の席に漆黒の長い髪をした女性がこちらに背を向けて座っており、窓側の長椅子にはトレンチコートを着て、チロリアンハットをかぶった、まるっきり北大路荒野の作品世界から抜け出してきた私立探偵そのままの姿の暑苦しい中年男が座っていた。 


 ああ、もうこりゃあどう見ても本物の北大路荒野だわ。

 さて、いつサインをねだろうか。


 そういえばマダムが色紙を置いていってくれたんだよなあ、とオーダー端末を両手に抱えて突っ立ったまま、失礼にならない程度に二人の様子をじっと眺めていた。 


 連れの女はこちらに振り向こうともせず、テーブルに身を乗り出し、メニューを北大路と一緒に眺めている。


 その肩は折れそうなぐらいに華奢で、首はほっそりと長く、肌は抜けるように白い。ネイルした指先は薄いピンク色に輝いており、左手の薬指にくっきりと指輪の跡が残っていた。 


 この後ろ姿をよく知っている気がした。


 でも確証はない。


 七海はごく自然な笑みを浮かべながらテーブルに近付き、「ご注文お決まりですか? お飲み物だけでも先にお持ちしましょうか」と言いながら、黒髪の女の顔を正面からしかと見据えた。 


 お互いに目が合って、思わず息を飲んだ。


 相手の女も驚いた様子で、お互いに声が出ない。


「えっ……、嘘……、七海? 七海だよね」 


 武骨なキャッチャーマスクにプロテクター、左手にキャッチャーミットをはめていた頃と比べるとだいぶ垢抜けはしたけれど、それでも高校生の頃とほとんどイメージの変わることのない清楚で可憐な瑞原菜穂子がたしかにそこに座っていた。


「やっぱり菜穂子だった。久しぶりだね。それにしても変なところで会いますなあ」


「七海、髪を伸ばしてるんだね。ぐっと女の子っぽくなったね」 


 菜穂子が目を細めて微笑んだ。


 女の子っぽくなった、か。

 そりゃあどうも。


「これでもばっさり切ったんだけどね。高校のときからするとたしかに伸びたよ」 


 久方ぶりの再会を祝したいところだったが、客前ではしゃぐのは控えた。


 それにしても、菜穂子と北大路荒野はどんな関係なのだろうか。


 菜穂子の左手の薬指にははっきりと指輪の跡が残っていたが、あれは北大路が贈った指輪の跡なのか、それとも北大路に会うときにだけは外している指輪の跡なのかまでは判断がつかない。 


 ただ、北大路が贈ったものであるならば、二人で会っているときに外しておく理由もないだろう。


 となれば、二人の関係はあまり詮索してはいけない仲ということになる。


 それはつまり、ウーコと五味副料理長のような周囲に大っぴらにはできない間柄ということか。


「料理どうする? そろそろラストオーダーの時間なんだけど、もしお腹が減っていたら、ちょっと多めに頼んでおいた方がいいかも」 


 暗に早く注文しろ、と急かしてみるが、菜穂子はコース料理のお品書きに目をやった。


「どの料理も美味しそうで、さっきから目移りしちゃってなかなか決まらなくて。せっかくだからコースにしようかと思っているんだけど、時間も遅いし、やっぱり迷惑かな」 


 北大路荒野はチロリアンハットを目深にかぶって椅子に深く腰掛けたまま、信楽焼きのタヌキのように微動だにしない。


 注文にいちいちぐちゃぐちゃと口を挟まないなんて、なんともハードボイルドだ。


 あまりにも投げやりだけど。

 てか、ひと言ぐらい喋れよ。


「コース? あ、うん。どのコースがいい? 食材がまだ残っていれば平気だと思う。後で厨房の方に聞いてくるけど」 


 厨房が帰り支度を始め、とっくに終業気分の時間帯にコース料理のオーダーなんて受けたらきっと大声で怒鳴られるだろう。


 ゴトゥーさんに「ちゃなみ、てめえ!」とどやされ、ウーコと五味副料理長は知らんぷりしてお手てをつないで仲良く早上がりし、薄味の帝王は静かに怒りを燃やしながら黙々と鍋を振るんだ。 


 ああ、怖い。 


 がっつり売上アップに貢献しているのに、ちょっと時間が遅くなったぐらいで怒られればならないのだろうか。


 理不尽だ。


「茶島、お前さあ。挨拶がないんじゃないの?」 


 薄味の帝王から叱責されるならばともかく、まさか目の前のハードボイルド作家からお叱りの言葉を頂戴するとは思わなかった。


 七海は思わず目をぱちくりとして立ちすくんだ。


 なぜ名字を知っているのかと疑問に思ったが、七海の胸元のネームタグを読んだのだろう。


「は? あ? え? ああ、すみません。北大路先生の大ファンです! サインください!」 


 咄嗟に非礼を詫びつつ、大ファン宣言を紛れ込ませた上にサインまでねだってみた。 


 どうせもう二度と会う機会のない相手だから、ここは図々しく振る舞うことにした。


「あー、色紙忘れた! ロッカーの中だ!」 


 七海が取り乱して大声をあげると、レジ奥から卯月が刺すような視線を投げかけてきた。


「七海、ちょっと落ち着いて。ほら、先生の顔をよく見てよ。先生だよ」 


 菜穂子がなんだかよく分からない執り成しをしたが、言われるがままに改めて北大路荒野の顔をよくよく眺めてみた。


 作家先生は右手の人差し指で、ついとチロリアンハットを持ち上げると、口元には猫のような悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


「あーーーーーー!!!! うそーーーーーー!」 


 覆面作家の正体に気がついた七海は先ほどよりもさらに大きな声をあげた。


 幸いにも十一卓以外の客は会計を終えて店を後にしており、卯月に睨まれただけで済んだ。 


 北大路荒野の正体は、かつてのソフトボール部顧問の井ノ原いのはら幸也こうやだった。

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