ライズ、ライズ、ライズ

神原月人

第1話 七海と菜穂子

 ワンアウト二塁。 


 ゲームセットまで残すところ、あと下位の打者二人という場面だった。


 ぶちっ、という筋繊維が断裂する音が聞こえた。


 まるで断末魔の叫びのようであった。


 チェーンソーで右肩を切断されたような感覚がして、茶島ちゃしま七海ななみは思わず投手板ピッチャーズプレート上に跪いた。


 ソフトボール特有の浮き上がる直球「ライズボール」を何千球と投げまくった代償か、右肩がぴくりとも動かない。


 右肩から指先への神経伝達が永遠に途絶えたかのようで、肩を動かそうにも意思に反して右腕はだらりと垂れ下がったままだ。


 審判にタイムを要求したキャッチャーの瑞原みずはら菜穂子なおこが青白い顔をしてピッチャーズサークル内に駆け寄ってきた。


 中学一年生の頃からバッテリーを組み続けて五年目になる仲だ。複雑なサインなどなくとも阿吽の呼吸というものがある。


 事の深刻さを即座に察知したらしい菜穂子は、血が滲みそうなほどの強さで唇を噛みしめ、無言のまま小柄な七海の背中をさすった。


 鈍い痛みが全身をじわじわと侵していき、こぼれる涙を拭おうにも右腕はうんともすんもと言わず、グローブをはめた左手で大粒の涙を受け止めるだけで精一杯だった。


 声を押し殺して嗚咽はなんとか堪えたし、帽子もいつも通り目深にかぶっていたけれど、泣いていることは内野の皆にはバレバレであっただろう。


 試合中に泣くなんて情けない、と思えば思うほど、蛇口の壊れた水道のように涙は途切れることなく溢れてきた。


「七海、いったんベンチに下がろう」 


 小鳥がさえずるような震える声で菜穂子が言った。


 七海は駄々っ子のように、いやいやと首を振り、投手交代の指示を断固拒否した。 


 おめおめとこの場所を譲ったら、もう二度と戻ってこられない。


 ふと、そんな気がした。


 円型の白線で仕切られたピッチャーズサークルの中央にぺたんと両膝をつけた七海は、菜穂子が身につけている赤いプロテクターを睨みつけた。


 自由の利く左腕を振り回し、追い払う仕草をする。孤独な投手板の上で強がるのは、いつしか習い性のようになっていた。


 追い払おうとしたのに、菜穂子は一歩も引かなかった。


「口惜しいのは私も一緒だよ。でもここは意地を張るところじゃない。来年もあるんだもの」 


 無事な左肩をぽんぽんと叩かれて、全身の力が一気に抜けた。


 長身の菜穂子の肩を借りて、よろよろとサークル内を離れると、周囲の光景がにわかにぼやけた。


 たった十七年しか生きていないのに、頭の中では菜穂子と共に過ごした日々が走馬灯のように駆け巡っていた。


 茶島七海という、ちょっと変わった名前であるから、学校のクラスメイトやソフトボール部のチームメイトには「ちゃー」とか、「チャーミー」と呼ばれた。


 でも菜穂子だけは七海という名前のまま呼んでくれた。毎日のようにピッチング練習に付き合ってくれた。


 神奈川県の横浜市鶴見区にある共学の公立中学に入学してすぐ、部活動見学のときに、「なおって呼んで」とフランクに話しかけてきた菜穂子とは、はじめて喋ったその日から仲良くなった。


 凸凹具合がかちりと嵌まったのか、なぜだか妙に波長が合った。 


 いざ投手板の上に立つと、七海は豹変するよね、とよく言われる。


 ピッチングのときはただただ投げるのに夢中で、豹変する自覚などなかったが、菜穂子もうんうんとしきりに頷いていた。


「七海は投げてるときはぜんぜんチャーミングじゃないよ。ボールが鉛みたいに重いもん。おまけにぐんぐん浮き上がるし、こんなの捕れないよ」


 出会った頃はキャッチャーミットの下に軍手をしていたけれど、「乾いた捕球音がした方が気分あがるでしょう」と事もなげに言い、菜穂子は軍手をあっさりと捨てた。


 その代わり、練習が終わるたびバケツに冷水を満たし、ぱんぱんに腫れあがった左手を突っ込んでいた。


 いつしか左の掌は熟練の職人のようにごつく、分厚くなっていた。 


 お嫁にいけなくなったら七海のせい、と菜穂子は笑っていたが、女なら誰でも羨ましくなるような色白で、おまけに細身の長身、腰まで伸びた艶やかな黒髪の菜穂子が嫁にいけない世の中なら、日本の結婚適齢期の女子全員がアウトだろう。


 炎天下の中、ソフトボール部員はみんな真っ黒に日焼けしていのに、菜穂子だけは奇跡的に雪のような白い肌を保っている。


 なおはわたしの嫁だから男なんかにはあげない、というのはお決まりのジョークだけど、それは冗句めかした本音であったと思う。


 それでなくともピッチャーとキャッチャーは切っても切れない仲なのだ。


 夢の中でさえバッテリーを組んでいる相思相愛の相手に向かって、浮き上がるボールを投げまくる日々は楽しくてしょうがなかった。


 ピンク色のハートマークが刺繍されたキャッチャーミットにボールが吸い込まれると同時に、ぱんっという拳銃が発射されるような音が轟き、対峙したバッターから空振りや見逃しを奪うたび、身体の芯が火照って、心臓は早鐘を打ったように高鳴る。


 しゃかりきになってボールを投げていると、なおは絶妙なタイミングでサークル内に駆け寄ってきて、ぽんぽんと左肩を叩いて間をとるのだ。肩に力が入っているよ、と。


 だが、今回ばかりは勝手が違った。


 いつものように左肩を叩かれたが、それは肩に力が入り過ぎていたからではなく、肩になにひとつ力が入っていなかったからであった。

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