第26話 裏切り

 成田琥珀が目を覚ましたのは、太陽が夜明けの最初の光を大地に投げかけたと同時刻だった。


 髪は申し訳程度に梳かされ、衣服はおざなりなしわを作り、目の下の隈も、いつもより濃い。

 東吾と別れてから夜中まで、脇目もふらず資料をあたっていたのだった。その甲斐あって、幾つか検討すべき重要な点が判明した。


 加えて、紫と那賀川家の周辺も最低限の情報を得た。頼るばかりではいけないが、今後守ってくれる権力について無知というわけにもいくまい。

 空腹を覚えて朝食をとろうと、台所に向かう途中、紫が寝室にしていた部屋の前に、灯子が立っていた。襷でまくりあげた袖から伸びた腕を、木戸にもたれかけさせている。


「どうしたんですか?」


 こちらを見た彼女の見開かれた目が、瞬きを繰り返して、震える。たちまち目が潤む。


「解らないんです」


 首を振る灯子を床に座らせて、暗い部屋を覗く。すぐ脇にある灯盞の火は消えているものの、油は十分残っている。


 長く湾曲した物体が二つ、部屋の端に転がっていた。よく見ると紫が持っていた刀と鞘だ。鞘と刀身が別の方向に散らかっている。小刀は抜き身のまま、鞘と一緒に転がっていた。

 誰かが寝ていた畳に、手を触れる。床は冷たい。いつから点し始めたか分からないが、油の残量から見ても、自分が来る大分前にはいなくなったに違いない。

 誰かとは、勿論、那賀川紫だ。


「紫ちゃんに何かあったとしか思えないわ。でも、追っ手はまいたはずよね」

「灯子さん、芙蓉さんの、彼女の名前を聞いたんですか」

「ええ」

「……だ、そうだ、東吾は」


 家主の東吾も、宿直明けで、もう家に帰ってきている頃だろう。

 駆け回るまでもない家だから、探す苦労はない。扉という扉を開け、隙間という隙間を見て回ったが、母屋にも庭の物置にも植木の茂みにも姿は見あたらない。

 部屋に戻ると、灯りがついていた。


 灯子が畳の側に座って何かをのぞき込んでいる。後ろから首を伸ばすと、奥から床や壁に黒い液体が飛び散っているのが見えた。泥水ではなく、混じりけのない黒だった。真夜中の闇の色を切り取った色だ。

 琥珀は資料の棚差し作業用の手袋をはめ、黒い水を懐紙に近づける。

 黒い滴の表面が震え、窪む。そのまま先端を埋めようとして、手を止める。


「これ何かしら」

「……いえ……」


 記憶を辿るも、思い当たるところはなかった。どこかで読んだ本か大学での講義で耳にしたことがあるような気もするが、定かではない。

 懐紙をずらして滴を掬い上げ、丁寧に包み、袂の中にしまい込む。


「思い出すかもしれませんし、後で資料にあたってみます。今は那賀川と東吾の行方を捜さないと。刀を置いたまま自分から何処かに行くとは考えられない。灯子さん、那賀川がいついなくなったか分かりませんか?」

「さっき起きたばかりで、この部屋の様子を見に来たから」


 ざっと見渡しても、広い敷地ではない。母屋と小さい倉庫が一つだけ。

 正面玄関と裏の勝手口の他には、勝手口の直ぐ横にある台所と風呂場と手洗い、紫の寝室に提供した作業場が並び、廊下を挟んで灯子が寝ていた客間、東吾の寝室兼書斎があるだけだ。


「夕方、私が寝る直前までは一緒にいたわ。それから夜に一度お手洗いに行ったのだけど、その時廊下ですれ違ったくらいかしら。その時までは何もおかしな所はなかったわ」


 作業場前の廊下を指差した。廊下からなら、ほぼすべての部屋の入り口が見通せる。外側から侵入者が来ても、物音が上がれば、気付かないことはない。

 ──誰に襲われた? 決まってる、書司だ。普通の人間と格闘して物音を立てないはずがなし、紫は武官だ、相手が武官じゃない限り戦って勝てるだろう。

 琥珀は首を振る。


「灯子さんはここにいてください。もし東吾が帰ってきたら、俺は探しに行ったって、言ってください。行ってきます」


 走り出そうとした琥珀の腕を灯子が掴む。


「何をするんですか」

「あれが落ちてからろくに寝てないでしょう。そんな頭で考えて、焦っても駄目よ」

「ですが」

「行くのを止めるつもりはないわ。いいから少しでも休んで、冷静になってからにして」

「冷静でなんていられませんよ。どいてください」


 強く捕まれた腕を思い切り振りほどく。


「琥珀ちゃん!」


 声を上げてから、灯子は目を伏せて、諦めたように首を振った。


「気をつけて。無理しないでね……」

「肝に銘じます」


 返事が口だけなのは明らかだった。


 自身も分かっているつもりで、裏切られたのではないかという動揺の方が強く、頭の中がぐちゃぐちゃになりかけている。

 転がっている刀をひっ掴むと、そのまま走って廊下を折れる。家を飛び出して、どこへ、というあてもはっきりとはない。

 とにかく確かめたくて、職員用の厩から馬を借り、内裏まで駆けた。乗り慣れていないため、速度を上げると振り落とされないようにしがみつく無様さは、全く気にならなかった。


 東吾の職場、第三管理室に飛び込むと、書類を手にした彼の後輩が歩み寄ってきた。


「成田大属、ああいや成田亭長。内裏に何の用です?」

「竹村見なかった?」

「はあ? ここ三、四日前からは別件の仕事とかで、竹村大允は通常出勤じゃないですよ。友人なのに聞いてないんですか」


 さっと琥珀の顔が青ざめる。同僚の男は顔をそらして、


「今、都からおいでになっている非蔵人殿直々のご指名だそうですよ。竹村大允は出世頭ですからねぇ」


 非蔵人殿……考えるまでもない、藤原路草だ。問いかける声に動揺がにじむ。


「どんな仕事か、何処に行ったか少しでも心当たりはないか?」

「知りませんよそんなの」


 忙しいから行きますと言って、同僚は力の緩んだ琥珀の手から襟を奪い返し、軽蔑の視線を置いて再び仕事へと戻っていった。

 爪弾きをして、東吾の仕事机の前まで来る。


 仕事用の機械端末、一般職員用の十進分類表等の数冊の本が並んでいるだけで、机の上は持ち主の性格通り、きちんと片付いていた。

 机の四方はついたてで区切られており、磁石でカレンダーやスケジュール表、様々な書類が張られている。

 今日の日付に、殴り書きがしてあった──本亭へ出張。


「那賀川……」


 呆然とした呟きに重なるように、扉が音を立てて、一組の男女が顔を出した。

 その内一人は知り合いで、一人は知らない人物だ。


「こんなところにいたんですね」


 優男と言って差し支えないだろう。気弱そうな細身の青年が愛想良く話しかけてくる。


「成田琥珀〈鴨頭草〉亭長ですね。那賀川の二の姫を〈天満月〉の書司寮に保護しに参りました。可及的速やかな対応をお願いします」

「貴方は?」

「申し遅れました。中務省図書寮本亭〈天満月〉所属、一等書司萩原要です。書司寮助空木行成殿から書簡を預かって参りました。」

「私の後輩よ」


 意味もなく腰に手を当てて答えたのは他でもない、琥珀の姉弟子である桂城梓だ。


「立ちなさい。前を向きなさい、琥珀。ついにもう一方から手が伸びたのよ。救いの手かは分からないけど、いやらしい藤原路草の手よりは五百倍はマシよ。ここの亭長も私たちの関与を了承したわ」

「私たちというのは、つまり僕と梓さんと、成田亭長です」


 梓は厳しい視線を琥珀に注ぐ。


「馬鹿馬鹿しいけど念のため確認するわよ。今のあんたが那賀川紫を助ければ、決定的に藤原路草と、悪ければ蔵人所と対立する。最悪、書司を続けられなくなるわよ。いいのね」

「それでもだ。俺が彼女を助けなければ、俺がここにいる理由も失われてしまうからだ。それに簡単に失脚するつもりもない」

「即答ね。……若いわね。でも、あんたのそういうところは流石私の弟分だわ」


 満足げに微笑んで、梓は何度も頷く。


「ところで、どうしてここに、二人して? 書司寮助がわざわざ書簡だなんて一体……」

「榎木が喋ったわ。藤原路草が今回の事故の首謀者だってね。で、そいつの駅までの送り迎えはおろか、こっちでの世話係に選ばれたのが竹村東吾だって聞いたの。こっちは名前は知ってたわ。あんたの友達よ」


「路草殿の出立は今日の夕方だそうです。一緒に姫を京に連れて行くつもりでしょう。彼の企みについて、書司寮助は何か感づいていたことがあったらしく、以前から調査を進めていたようです。事故を故意と証明するため、証人となりうる姫君を連れてくるようにと言われました」


 夕方の出立を許してしまえば、再び紫に会うことはないという予感が琥珀にはある。もし紫に関して自分が罪に問われなくとも、一介の書司が権力の後ろ盾なしに事故は故意だと叫んで何になるだろう。そんな男が貴族の屋敷に行っておいそれと姫に会うことはできない。

 いや、会って何になる。すべてが終わった後で、君には責任がなかったとでも言うつもりか。

 そしてその時には、東吾も取り返しのつかない過ちを犯した後なのだ。


「と言っても、どこにいるのか皆目見当も付かないわ。ここ勤務の一等書司なら、どこにだって人質の一人や二人監禁しておけるわね。琥珀、思い当たるところある?」

「多分、浚ったのは東吾だ」


 簡単に状況を説明し、袖から残った証拠品を取り出して広げてみせる。


「これが落ちてた」

「何でしょうね。黒い滴?」


 怪訝そうに要が梓の顔を見る。と、彼女の顔はこわばっていた。


「梓さん?」

「姐さん、知ってるのか」

「地図出して」


 梓は短く言い、要が差し出した地図をひったくるように受け取り、ばさばさと机上に広げる。

 建物の配置自体は都とそう大して変わらないが、書架用の建物には一つずつ分類番号が併記されているのが特徴的だ。


「琥珀、確認するけど。一番人がいないのはどこ。入るはずがないところって言ってもいいわ」


 指を差したのは朱色の等高線だ。〈月の接吻〉の墜落跡に被害に応じた線を引いてある。


「……墜落跡だ。隔離されてる。それに、あそこは今奴らの管轄下だ」

「決まりね。早速行くわよ」


 地図を放り出して立ち上がる梓に、慌てて要は地図を畳み怪訝な顔を向ける。


「駅を固めた方が良いんじゃないですか?」

「無理よ、それじゃ竹村東吾が助からない。行けば分かるわ。見つからないように案内しっかり頼むわよ」


 言い切って、梓はさっさと先に立って歩き出した。

 琥珀は一瞬躊躇ったが、今まで破天荒なことばかりやってきた傍若無人な姉弟子は、一等書司としての知識は各亭長に遜色なく、本人が否定しても数字を冠する相応しい実力がある。そして、今まで肝心の部分で間違ったことがないのをよく知っていた。


 一昨日、紫と二人で忍び込んだ事故の跡地に今度は三人で向かう。警備の目をなんとかごまかして一端入り込んでしまえばあとは無警戒だ。

 事故の被害が比較的少ない外縁からぐるりと見て回る。

 最近踏まれたらしい瓦礫の破片が細長く跡を残していた。道は月光庭園に忍び込んだ、あの傀儡の髪で塞がれていた入り口へと続いている。


「あの辺りは?」

「落ちた建物の最上部、月光庭園の埋まってる辺りだ。一昨日、昨日と、彼女と入った」


 床を注視していた要が所々黒い滴が落ちているのを指摘する。

 再び、朝と言っても薄暗い地中に潜り込む。駆け足で月光庭園の入口まで走る。

 この前入ったときは真夜中で気付かなかったが、庭園は幾つかの小さな半円状の熱帯植物用温室やカフェテラスも備えていた。

 そのうちの一つ、資料室のプレートがかかっている扉を、巨大な瓦礫の薄い板が塞いでいた。部屋の前に、黒い水の粒が転がっている。


「当たりね。どうしようかしら」

「壊します」


 琥珀は即答すると、黒繻子表紙の本を開き、目録札に書き込んだ。すぐさま瓦礫を引きはがす。要が目を見張った。


「梓さん、彼は」

「知ってるでしょう。いいから、あんたは見張ってて」


 踏み込んだ部屋は、光を避けるために窓もなく薄暗い。書棚が全面に作りつけられていたためか、角がつぶれてはいたが、事故以前の趣を感じさせるものだった。ご丁寧に書棚の本はきちんと並べ直されている。

 部屋の中央に一人の女性が崩れるように座っていた。

 そして一人の男が傍らに立って見下ろしていた。 

 目が光景を見て、脳が認識するよりも早く、琥珀の声は口から飛び出していた。


「そういうことだったのか。貰うって──そういうことだったのかよ! 東吾おおおおおお!」

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