Re:活 前略旦那様 私今から不倫します

香月律葉

プロローグ

 泉誠は、妻の沙羅のもとへと急いで帰っていた。


 ──今まで色々あった。傷つけたことも、沙羅の優しさに甘えて、許されないこともした。これから誠心誠意尽くしてやり直そう。


 出来心で始めた浮気を、妻は許してくれると言った。一度失いかけて、気づいたが、間にあってよかった。もう二度と沙羅を傷つけたりはしない。


 鍵を開け、玄関にもリビングにも灯りが灯っていないことに気づく。灯りを点けて、部屋から沙羅の荷物が消えていることに気づく。


 リビングの上に一枚の手紙がある。沙羅から自分へ書いたメッセージだった。


 誠は、それを見て妻はもう戻らないことを知り、その場に立ち尽くした。






 辻村とは大学時代に一度だけキスをしたことがある。


 恋人未満のときめきと淡い期待が最高潮の時、すれ違いが重なってとうとう結ばれることはなかった二人が、長い時を経て再び惹かれ合っていた。


「ん」


 迎えに来た辻村の部屋へ、ダメだと思いつつ入ってしまった。

 扉を閉めた瞬間、唇を貪るように奪われ、体の力が抜けていく。


「駄目、こんなこと」


 小さく呟く沙羅に辻村が囁く。


「まだ離婚してないから?」

「これからのことちゃんと決めてない」


 自分たち夫婦のいざこざに辻村を巻き込みたくはない。もはや破綻しているとはいえ、まだ沙羅は誠の妻には変わりなかった。


「これ以上道を間違えたくはないの」


 沙羅の言葉を、辻村が淡く笑う。


「その正しさは、沙羅を救ってくれるの?」


 道徳的に正しい人間が報われるとは限らない。昔話では悪い人間にはばちが当たるけれど、現実はそうはいかない。

 そんなことはわかっている。溜めこんだ不満と怒りと悲しみ、そして孤独。

 手に入れた平穏な日々は、脆く儚く全て無に還ってなにも残ってはいない。


 夫からも今日は早く帰るから話そうとメッセージが来ていた。だがもう全てが遅い。

 割れた皿はもう元の形には戻らない。


「許せないものを許した振りをして、生きていくの?」

「もう言わないで」


 向き合うべき現実の重さに、逃げ出したくなる。

 泣き出した沙羅を辻村が抱く。


「だってもうとっくに限界じゃないか。我慢した先に何がある?」

 

 質問に答える前に唇を塞がれる。駄目だと思う心とは裏腹に、触れた部分から熱くなっていく。

 誠に疑いを持ってから、不感になっていた体が、辻村の手で忘れていた感覚を思い出していく。


「は……」

「好きだよ、沙羅。沙羅が婚約したって人づてに聞いた時、諦めないで奪いにいけばよかった」

 

 どういうことなのか、聞く余裕もない。

 低く甘い囁きは、現実の辛さから沙羅を飛ばしてくれる。彼をただの逃げ場にしたくはない。けれど、抗えない自分がいる。


「もう十分耐えただろう。今は傷ついた沙羅を甘やかしたい」


 抱き上げられ、寝室のベッドにおろされた。すでに夫婦仲は破綻してはいても、一線を越えるのは怖い。


「辻村さん、私」

「責任は俺が取るよ」


 押し倒され、残っていた理性もなくなっていく。


 人間なら弱っている時、辛い時優しくしてくれて、そばにいてくれる人に惹かれてしまう。誠も同じだったのかもしれない。

 

 惹かれる心をごまかして、一線を超えずにいたのは倫理観のためではない。ただ自分の恋心がコントロールできなくなるのが怖かったからだ。


「そんなつもりじゃなかったの」

「本当に二度と会わないつもりなら、ここに来るべきじゃなかった」


 身動きもできないほどに抱きすくめられて、唇を奪われる。何度も唇を重ねるうちに、心も体も余計な緊張が抜けていく。


 人を好きになるのは理屈ではない。けれど気持ちや本能だけに従っていけば、誰かを傷つける。永遠の愛なんかないって知っている。


「今離したら、一生後悔する。だから離さない」

 

 抱き上げられ、ベッドに下される。抗いきれない熱に侵されたように、抱き合う。


 ──これは夫に裏切られた報復なのだろうか。


 いや、きっと違う。沙羅は今自分の人生をやり直そうとしている。たとえ世間一般の常識で間違っていようとも。

 辻村の手が、沙羅の着衣を乱し、その肌を晒していく。辻村が顔を埋めた部分が赤く染まる。


 ──花びらみたい。


 辻村に、沙羅という名前が好きだと言われたことを思い出す。あっという間に散ってしまう淡く儚い花の名前。

 人生もそんなものかもしれない。だからこそ美しく散りたいと願う。

 辻村といると、自分がまだ美しいことを知る。それは、美醜の類とは違う、生命としての美しさだった。

 不審と寂しさの中、枯れかけていた沙羅を蘇らせてくれたのは、彼だ。


 熱い唇が沙羅の体を這いまわる。耐え切れず甘い吐息が漏れた。


「沙羅、愛してる」


 低い囁きを聞きながら、遥か昔に諦めてしまった自由を思い出している。


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