9.香田との会話

*****


 放課後を迎えるなり、風間は学校を後にした。なんでも以前バイトをしていたメイドカフェからヘルプを頼まれたらしい。時給は「倍払う」と言われたようで、出て行く際、「今度、フランス料理を奢ってあげる」とウインクとともに言ってくれた。しかし俺は家系いえけいの大盛りのほうがずっと好きなので、そのへん、リクエストしてみようと思う。


 まっすぐ帰っても良かったのだが、自宅にいてもどうせ暇なのでもう今しばらく学校にいようと考え部室に向かった。鍵は風間から借りた。


 畳間があって、ガスコンロがあって、食器棚まであって――。そんなふうに、ある意味バリエーションに富んだ一室であるが、誰もいないと少々殺風景に映る。


 定位置の席に座る。文庫本を開く。どうってことない作品だ。それでも読むのは暇だからだ。だが、その暇がなんとも心地良く感じられる。俺は腑抜けてしまったのだろうか。たぶん、そうなのだろう。腕もすっかり錆び付いてしまったように思う。もはや右の拳の出番はないのだろうか。


 ――部室の戸が静かに開いた。


 香田だ。


 ほんの少しの間だけ、俺に目をくれた。ぼーっとした目で――だが俺はぞくっとした。あまりに美しいブルーの瞳だからだ。ほんとうに美しい人物――個体だ。生きていて良かったなどとまでは言わないが、それでも、香田に会えたことで完璧な目の保養が得られるようになった。香田の美貌はずば抜けている。恐らく世界で最も美しい女性だ。


 香田は今日も黒いバイクスーツに着替えた。それから俺の隣の席に座った。静かな時間、静かなとき。こちらからなにも切り出さなければ香田は一生なにもしゃべらないだろう。なにか切り出すべき話題があるのかというと、そんなことはない。隣席ではなく、せめて向かいの席に座っていれば対処のしようもあったというものだが、だからといって気の利いた格好で声をかけられるとは思えない。得も言われぬ香田の対人スキル――防御力の前にはどんな手段も平伏すよりほかないのだ。しかし、俺は香田に多少ならず興味がある。だからつい、彼女のほうへと身体を向け、「香田は本が好きなのか?」などと訊ねてしまった。辛抱が足りないのだ、俺は。


「なあ、香田」


 改めて呼びかけると、深く澄んだブルーの瞳がこちらを向いた。空恐ろしさを覚えた。だってその瞳はやはり深く澄んでいるから。人類が造形しうる限界点だ。


「なに?」


 くりっと左方に首をかしげた香田。

 ラブリーだと言ったら叱られるだろうか。


「話でもしないか?」

「してもいい。話題は振って」

「たとえば――」

「たとえば?」

「香田、おまえはこの学校において、序列何位なんだ?」

「五位」


 俺はそれはもう、驚いたわけだ。


「すごいじゃないか」

「でも、五位だから」

「そこにはなにか理由があるんだろう?」

「ないけど」

「ちなみに、なにをやるんだ?」

「骨法。暗殺術」


 ミステリアスな香田の発言はどこまで信じていいのだろう……。


 一時間が経過した。


 俺はまだ本を読んでいる。同じく読書に励んでいる香田が「どうして帰らないの?」と消え入りそうな静かな声で訊ねてきた。


「おまえが帰らないと帰れないだろう?」

「そういうもの?」

「そういうものだ」

「でも、まだ帰らない」

「だったら付き合おう」


 それからまた一時間。

 まだまだ空は明るい。


「ねぇ」

「なんだ?」

「あなたはなにをやるの?」

「空手だ」

「喧嘩空手?」

「古い概念を知っているんだな」

「どうなの?」


 俺は後頭部をぽりぽり掻いた。


「フツウの空手を習っていたんだ。だけど、それだけじゃあつまらなくなってしまってな。そこで――」

「そこで?」

「近所のワルどもを相手にいろいろ試すようになった。俺は素手でヒトを殺すことができるのだと思う」

「それはヒトなら誰でもできること」

「香田は賢いな」

「そう?」

「ああ、そうだ」


 俺は瞳を斜め上にやった。生きてきた上で印象に残る思い出はなくはない。だが、それらを「忘れてしまえ」と言われれば、たいていのことは簡単に脳からデリートすることができるように思う。俺はまだなにもしていない。人生において、なにも達成していない。なのにどこか達観なり諦観なりを覚えているのはなぜなのだろう。


「一つ、言い当ててやろう」

「なにを当ててくれるの?」

「おまえが序列五位に甘んじている理由だ」

「甘んじてなんかない。私は負けたの」

「負けたことは事実だろう。だが、不戦敗だったんだ」


 香田は少々目を見開いた――ように見えた。


「序列はトーナメントかなにかで決めるんだろう? 不幸にもおまえは風間とぶつかったんだ。だから戦う前に負けを申し出た。おまえが風間に親しみを超えた感情を持っていることくらい、わかるんだよ」


 目をぱちくりさせた香田のなんとかわいらしいこと。


「すごいね」

「だから、ぜんぜんすごくない」


 少しは信用、あるいは信頼してもらえたのか、香田はしっかりこちらを見てくれるようになった。


「つまらない男なら――たとえれなが連れてきた男だとしても、痛めつけて、外に放り出してやるつもりだった。今日だって、そのつもりだった」

「俺はそうならずに済むということか?」

「あなたは馬鹿ではなさそうだから」

「最高の褒め言葉だ」


 俺はバッグに本をしまい、席を立った。


「送ってやるぞ、香田。女一人を歩いて帰すのはさすがに気が引ける」

「わたし、バイクだから」

「ああ、そうか。そうだったな」


 いい会話ができた。

 ありがとう。


 俺はそれだけ告げて、部室を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る