絵本②
頬を涙が伝った。誰に見られないように、慌てて手のひらで拭う。オーロラがイギリスに行って以来、感動して泣くのは久しぶりだった。
オーロラはいつの間にかすごい人になっていた。でも、そのこと自体に驚きはあまり感じない。オーロラはきっと世界を代表するような絵本作家になるだろうという、確信めいたものがあったからかもしれない。彼女らしい素敵な物語だった。彼女は子どものときからずっと言っていた。「悲しい話ではなくて、誰かが笑顔になれるような話を書きたいの」と。きっと彼女はこれからも、世界中の人々に絵本を通して希望を与え続けるのだろう。
夢を叶えた友人のことを、心から誇らしく思った。同時に自分が情けなかった。勉強が負担だからと簡単に大学を中退し、好きでもない場所で暮らし、今までと同じように他人に同調して流されるがまま生きていくであろう自分が。
そっと絵本を閉じてレジに持っていく。レジの初老の女性に作者と友人なのだと伝えると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「あら、そうなの? 彼女の絵本は、大人も子どもも楽しめる素敵な作品よね。こんな絵本を書ける作者さんは、きっと素敵な人ね」
「ええ、すごく面白くて素敵な子よ」
本当に、オーロラは私の友人にはもったいないくらい素敵な人だ。彼女に会えていなかったら、私の人生は最高に単調で退屈だったに違いない。シドニーの街でつまらない男たちに囲まれ、両親の喧嘩をする声と母親の愚痴を聞き、学校に行けば休み時間と体育や美術なんかの時間以外は好きでもない勉強を続ける。そんな単調で憂鬱な日々でもオーロラという存在がいたから、毎日を楽しく過ごしていられたのだ。
家に帰ったら彼女に電話しよう。そして、絵本の感想を伝えるんだ。私はいつの間にか軽くなった足取りで、店を出た。
夕飯のあと、オーロラに電話をかけた。呼び出し音が鳴る。電話をかけたのは2ヶ月ぶりだった。彼女の声を聴くのが待ち遠しかった。
7コール目にようやく彼女が電話に出た。
『久しぶり、アヴィー』と懐かしい声が耳に流れ込んでくる。
「久しぶり、オーロラ!」
『出るのが遅くなってごめんなさい、今までエリーゼにシャワーを浴びさせていたの……』
オーロラの声は憔悴しきっていた。彼女の家にはエリーゼというメスの豚がいる。絵本に出てきた豚だ。前にオーロラは私宛のメールで仔細に語ったことがある。エリーゼにシャワーを浴びさせるのがいかに大変で、体力と根気のいる作業なのかということを。
「お疲れ様」
私はオーロラに、今日本屋で彼女の絵本を読んだことを伝えた。
『読んでくれたのね、ありがとう』
オーロラの声はいつ聴いてもシフォンケーキのように柔らかくて、暖炉の火のように温かい。彼女の内面そのものだ。彼女はどんなことも海のような大きな心で包み込む。それが彼女の声と醸し出す雰囲気にそのまんま表れている。
「もちろん読むわよ、あなたの本だもの。感動して店で泣いちゃった。流石オーロラだよね」
『ふふ、あの絵本を完成させるまでは大変だったわ。だけどそんな風に言ってもらえるなんて、描いた甲斐があったわ』
「あんなに人を感動させられる物語を作れるなんて、友達として誇らしいわ」
友人の成功を、こうして遠くからしか祝えないことがもどかしかった。シドニーにいた時なら、真っ先にプレゼントを買って彼女の家に向かい、おめでとうと言って渡せたのに。そして彼女の母がお祝いのたびに作る、ラズベリーソースのかかったショコラケーキをたらふく食べたのに。
オーロラは私の心からの賛辞にお礼をしたあとで、思い出したように言った。
『高校の時にあなたがくれたCDを、妹のスノウが間違って踏んづけて割ってしまったの。どこを探しても同じものが無くて……。すごく気に入ってたのに』
その声は今にも泣き出しそうに聴こえた。オーロラが落胆したり傷ついているのを感じると、私まで胸が苦しくなる。
高校二年のオーロラの誕生日に、私は『スリランカ料理店で流れているBGM』というCDをプレゼントした。ほとんどウケ狙いであげたものだったが友人はいたく気に入ってくれ、夜寝る前や気持ちが落ち込んだ時に聴いているのだと嬉しそうに語っていた。
そんなに気に入っていたものなら、もう一度手に入れて送ってあげたい。きっと彼女は喜ぶだろうから。
「こっちで同じものが売ってないか探してみるわ。もし見つけたら送る」
『だけど悪いわ、もう一回買ってもらうなんて』
「申し訳ないだなんて思わなくていいわよ。友達でしょ? 私たち」
『お金は払うわ』
「いいって、いいって」
『だけど……』
「細かいこと気にするのはナシ! とにかく探してみるわ、じゃあね」
電話を切ったあと、慣れない環境で疲弊し切っていた心に清涼なエネルギーが宿っていることに気がついた。オーロラには不思議な力がある。声だけで人の心を生き返らせられるなんて、魔法使いか何かみたいだ。
オーロラにはシドニーにまだいた時に電話で両親の離婚のことや退学のこと、引越しのことも全て打ち明けていた。精一杯明るい声を作ろうと努めていた私を労わるみたいに、彼女は声をかけた。
『アヴィー、無理して明るく振るまわなくたっていいわ。私にできることがあったら何でも言ってちょうだい。私はいつだってあなたの味方よ』
私はその時泣きそうなのを悟られないように、「ありがとう! また電話するね」とだけ言って電話を切ったのだった。人一倍他人の気持ちに敏感なオーロラのことだから、私が電話の向こうで泣き出しそうになっていたことも、強がっていたことも全てお見通しだったはずだ。彼女の言葉は、他の付き合いの浅い何人かの友達の口から出る上辺だけの励ましの言葉とは違う、心からの言葉だとちゃんと分かった。だからこそ、気づかないうちに弱っていた心に響いたのだ。
オーロラが私の味方と言ってくれたみたいに、私も彼女が困ったときに何か重要なことができる存在でありたい。彼女がこれまでしてくれたことやかけてくれた言葉に比べたら、CDを探すことなんて小さなことかもしれないけれど。彼女の力になれるのであれば、それ以上の喜びはない。
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