第51話 再会
最初に目に飛び込んできたのは染みだらけの木の天井だった。硬いマットレスから上体を起こすと、すぐ横の壁に嵌め込まれた丸窓から錆びついた手すりの向こうに広がる海が見えた。
大きなエンジン音と波を弾くパシャパシャという音が聴こえる。金属が擦れて回るみたいなキュルキュルという音、鴎が鳴く声も。
身体が熱い。酷い頭痛もする。熱があるのかもしれない。額を冷たい汗が滑り落ちる感覚が何故か懐かしくて少し怖い。
左腕には点滴の管が刺されている。
外から男性たちの大きな声に混じって女性の甲高いが聴こえてくる。
間もなく1人女性が部屋に入ってきた。
「ああ、目が覚めたのね!」
青いカッパに身を包んだショートヘアーのその女性は、安堵したように微笑んで窓から顔を出し「目が覚めたわ!」とデッキの仲間たちに声をかけた。
間もなくドスドスと重い足音がして船が揺れた。慌てた様子で入ってきた大柄の男性を見て私は歓声を上げた。
「ホク!!」
感激の余り立ち上がって抱きつこうとしたが、脚に力が入らずにへたり込んだ。自分の脚力の衰えに愕然した直後、声が出るようになっていることに気づいた。
「私……喋れてる。喋れてるわ、やったぁ!!」
ふらふらの脚で駆け回り、ホクに抱きつき知らないショートヘアの女性にも抱きついた。後からやってきた船長っぽい中年のおじさんにも抱きついて、また脚がもつれておじさんと一緒に転んだ。
「何だなんだ」と船長らしき人は困っていた。
やがて白衣を着た30代くらいの男性がやってきた。
「意識が戻ったんですね、よかった」
船医らしき男性は微笑んだ。
「ホクがあなたを助けたのよ、たまたま望遠鏡を覗いていたら、遠くの崖から落ちて溺れたあなたを見つけて……。船で近くまで行って、ホクが飛び込んで助けたの。ついでにCDもね」
ショートヘアの女性が言った。
ホクが床に置かれた麻袋からCDを取り出して私に差し出した。
「ありがとう……ホク。本当にありがとう」
何度目か分からない涙が溢れた。CDが無事でよかった。ホクも無事で、私の命も無事で。そして、声が戻ってきてよかった。喋れない期間が長すぎて自分の声を忘れかけていた。話すという感覚すらも。ずっとこのままだったらどうしようという不安が余計に精神的負担になっていたのかもしれない。何であの不思議な夢のあと声が戻ってきたのかは分からない。でも、分からないままでもいい。私は生きている。これでオーロラにCDを渡せる。自分の口から想いを伝えられる。その事実だけで胸がいっぱいになるくらい幸せだった。
ふいに船のデッキで水を吐いたときの記憶を朧げに思い出した。その後また気を失ったらしい。
「2週間眠り続けてました。ずっと高熱にうなされていて……。もう目覚めないかと」
船医が言った。
ショートヘアの女性が持ってきてくれたスープを吐いてしまい、ホクの服にかけてしまった。ごめんと謝ったあとホクが服を着ていることが何だかすごく可笑しくて、大きな声で笑ってしまった。ホクはキョトンとしていた。
「そんなに笑えるならもう大丈夫ね」と女性が言った。
船室に女性と2人きりになったとき、彼女は私に尋ねた。
「あなた、眠りながらずっと涙を流してたわ。何か懐かしい夢でも見ていたの? それとも悲しい夢?」
「どちらも」
私の答えに女性はそっと微笑んで頷いた。
「あの……ここってどこ?」
「マリアナ海溝よ」
「マジ?!」
「ふふ、嘘よ。ここは北太平洋で、エビ漁が終わったらイギリスに帰るの」
マリアナ海溝じゃなくてよかった。
「ホクはどうしてここに? 漁師になったの?」
「ベーリング海の方に漁に出たときに、ロシアに立ち寄ったの。そしたら港を上半身裸でウロついてる大男がいて『死ぬわよ』って声をかけて船の中に入れたの。試しに働かせてみたらなかなかの力持ちでよく動いてくれて、それから仲間になったの」
何でロシアにいたのか分からないが、上半身裸でウロついて無事なのはホクくらいだろう。
「あなたたちは知り合いなの?」
「うん、前にサーカスで一緒に頑張ってた仲間なんだ」
「そうなの。彼、全然喋んないから知らなかったわ」
「無口だけど心は優しいから」
「そうね、確かに」
ふとホクが私を助けたということは、身体に触れて私が女だと気づいたかもしれないという可能性に気付いた。どのみち今の私は髪が長いから、パッと見て女性だと分かるが。
「ホク、私が女だって知ってビックリしてなかった? 私サーカスでは男みたいに振る舞ってたから……」
「別に驚いてなかったけど」
「そっか」
ホクには最初から私が女性だということはバレていたのかもしれない。
「ねぇ、何か手伝えることはない?」
「病み上がりなんだから大人しく休んでいることよ。そんなフラフラの身体で漁なんかしたら、また海に落ちちゃうわ」
女性の言う通り大人しくしていた方がよさそうだ。
漁の間私は船室で女性から本を借りて読んだり、ホクと話をしたり、夜デッキから海を眺めながら物思いに耽ったりした。熱は3日ほどで下がった。その後も空咳が続いたが。
現実を飲み込もうとするほどにミハイルに怒りが湧いてきた。彼に私を殺そうという気はなかったのかもしれない。だがどんな動機にしろ彼のせいで私は生死の淵を彷徨ったのだ。今彼の顔を見たら、私は彼の鼻の穴に生きたエビを殻ごと突っ込んでしまうに違いない。
1週間ほどで漁が終わった。最終日の夜、私は船のデッキでホクに問いかけた。
「ねぇホク、私が女だって気付いてた?」
ホクはこくりと頷いた。やっぱり。
「他の皆は気づいてたかな?」
ホクは首を傾げた。
「ねぇホク、もうサーカスに戻る気はない?」
ホクは無言で海の向こうを見つめている。自分自身もどうしたらいいのか分からない。ロンドンでの最終公演まではあと2日。サーカスに戻るべきか、このまま姿を消すべきか? 幾度となく心を駆け巡った問答だった。
ふとしたときに浮かんでくるのは、あのサーカス列車の温かい雰囲気や、皆で笑い合った日々のことだった。ジャンの少しお馬鹿なところ、シンディの明るい笑顔、ジュリエッタのウィンク、ルーファスの語る哲学、ミラーの口うるさいところですら今はすごく懐かしい。
団長が逮捕されたから最後まで公演が続けられるか心配だったけれど、あの賢いルーファスがいるから大丈夫だろう、きっと。
生きて目を覚ました今、できることならまた彼らと一緒にリングに立ちたかった。もし皆に許してもらえるなら。私がずっと男だと偽って生活していたことや、自分勝手にサーカスを飛び出したことを。
「私さ、あなたみたいにピアジェにブチギレてサーカス辞めたんだよね。そのあと色々あって……。私がサーカスに戻ったら、皆怒るかな? 私が実は女だって知ったら引かないかな?」
ホクは静かに首を振った。彼のくれた答えにこの上なく安堵した。彼とこうして話せるのがすごく懐かしかった。ホクは話さないから専ら話すのは私の方なんだけれど、彼とは心が通じるような気がした。
「私ね、戦争に巻き込まれて口がきけなくなったの。あなたの気持ちがよく分かった。感情や考えを上手く表現できないって、すごく辛くてもどかしいよね」
ホクはつぶらな目で私を見た。透き通った綺麗な瞳だった。
「でも思ったの。言葉が話せなくても気持ちは伝わる。動きや表情で人を笑わせることはできる。言葉に捉われていたら分からなかったと思う」
ホクは微笑んだ。全てを受け入れるような温かい笑顔だった。
「私、最終公演に出たいと思う。あなたももしよかったら来て。あなたのパフォーマンスが観られなくなって皆悲しんでた。私も寂しかったわ。漁師もいいけど、あなたは海よりもリングの上が似合うわ」
ホクは何も言わなかった。
2日後の午後にイギリスのヘイスティングス港に着いた。岸壁で船員たちと船医に何度もお礼を言った。
別れ際、ホクに言った。
「戻るかどうかはあなたの自由だけど……。私はあなたとまたショーを作りたい」
ホクはただ微笑んでいた。
ヘイスティングスの港街を歩いていたら冷たい潮風が肌を刺した。風で飛ばされてきた新聞を手に取って見ると、一つの記事が目に飛び込んできた。
『ロンドンの芸術ホールにて、世界の絵本展覧会始まる』
もしかしたらオーロラもそこにいるかもしれない。が、通行人に尋ねてみたところロンドンの芸術ホールまではバスで2時間以上かかるという。おまけにお金もない。何もかもをフランスのあの島の岬に置いてきてしまった。
道具がなくてもできるのはマイムしかない。人通りの少ない街の片隅で即興のマイムを始める。ちょうど近くに回転寿司屋があるので、それにちなんだものをやることにした。
空気椅子の体勢で、流れてくるネタを顔を動かしながら眺める。何度かその動作を繰り返したあと、近づいてきた寿司の1つに目を止め、パッと顔を輝かせ手で涎を拭う動作をする。
なんだなんだと漁師たちや買い物帰りの女性たちが集まってきた。回転寿司屋から大将らしき日本人の男性と女将さんらしき女性も出てきた。
近づいてきたネタを取ろうと手を伸ばしたが、隣の客に取られてああっ、と口を大きく開け絶望した表情を作る。3回それを繰り返す。くすくすと笑いが起きる。
4度目の正直で好きな寿司ネタを取れたはいいが、ワサビが辛すぎて大袈裟に鼻をつまみ顔を顰めて舌を出して見せる。その様子がおかしかったのか、笑い声がさっきよりも大きくなる。
次にきた寿司を手に取り2つ一気に口に運ぶと喉に詰まってしまい、喉を抑え白目を剥いてもがき苦しんだあと胸を拳でどんどんと叩く。
お茶を飲もうと目の前の棚にあるコップを手に取り、ボタンを押す仕草しお湯を注ぐ振りをする。一気に飲むも余りの熱さにコップを手から落としてしまう。お湯が脚にもかかり、熱くて立ち上がり慌てて濡れた場所をふきんで拭く。舌を出しながら手で顔を仰ぐ仕草をすると、観客たちはゲラゲラ笑っていた。
気を取り直してまた空気椅子に腰掛け、箸立てから割り箸を取り出して割ろうとするもうまく割れない。歯を食いしばり眉間に力を込め、
おかしな顔を作りながら割り箸を割ろうとする様子を見て、最前列の女性は涙を浮かべて笑っている。
ようやく箸が割れるが使い方が分からず寿司を刺したり、遂には遊び始め鼻に突っ込んだり、瞼を押し上げて可笑しな顔を作ったりする。口に手を当てておーいと店員さんを呼ぶ仕草をして、キョロキョロと辺りを見回したあとコソコソと店員に耳打ちをする真似をする。そのあと架空の店員に向かって確認の意味で右手の親指と人差し指でOを作って見せる。
少しして店員が何かを持ってきた体で、それを受け取るふりをする。
フォークとナイフを使って寿司を食べる仕草をし、最後にこの方がいいやという意味を込めて笑顔で観客たちに向けて親指を立てて見せる。
マイム終了時には、たくさんのコインが足元に落ちていた。
「ああ可笑しかった」
「腹が捩れたわい」
「なんだかお寿司が食べたくなったわね」
観客たちの半分はゾロゾロと近くの回転寿司屋に入っていく。
「君のおかげで今日は大繁盛だ!」と日本人らしき大将が声をかけてくれ、お礼にタッパーに詰められたお寿司を無料でくれた。
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