第39話 消えた手紙とマフィン
2月が過ぎ、3月になった。
サーカス団はアラスカ公演を終えて船でハワイやフィジー、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ニュージーランドなどの島々を1ヶ月半かけて巡業し、オーストラリアへと向かった。
故郷であるシドニーに1年ぶりに帰ってきた私は、海に囲まれた街の潮の匂いと人の解放性、フレンドリーで温かい人々の雰囲気に触れて心が生き返ったようだった。
最後のシドニー公演が終わると、私はケニーと一緒に住んでいた家の近くに行ってみることにした。家のあった場所は更地になり、父はもう住んでいないみたいだった。いざ見てみるとショックだった。
オーロラの家は依然としてあった。こぢんまりとした、母娘2人で住むのに丁度いい家だった。ここで子どもの頃によくお菓子作りをしたり、勉強をしたり遊んだりした。子どもの頃の私たちの姿が草の生い茂った庭の中に見える気がした。
途端にオーロラに会いたいという気持ちが大きくなり、抑えきれないほどになった。
近所のフローラお婆さんの家で電話を借り、国際電話の回線からオーロラの家にダイヤルしてみる。3コール目に柔らかい女性の声が応じた。オーロラだとすぐに分かった。
会いたくて話したくて堪らなかった相手がこの電話の向こうにいる。一瞬でいろんな感情が押し寄せ胸が苦しくなり視界がぼやけた。
「……オーロラ? オーロラなの?!」
数秒後、『アヴィー?』と声が返ってきた。およそ1年ぶりに聴くオーロラの声があまりに懐かしくて温かくて、想いと呼応するように涙が溢れ出した。ケニーは気を遣ったのか側から離れた。
『アヴィー、無事なの? 今どこにいるの?』
彼女の声も震えていた。
「今公演でシドニーに来てるの。あなたの家の側にいる。フローラさんの家で電話を借りてかけてるの」
『良かった、誘拐されてなくて。手紙読んだわ。頑張ってるみたいね』
「ふふっ、そうね。色々大変だけど、クラウンを演じるのは楽しいわ」
『元気そうでよかった。実はあなたがいなくなっでたあたりに家の電話が故障したの。だから通じなかったのよ、ごめんなさい。何を思ったか電話を自分で直そうとして、廊下に置いたらちょうどエリーゼがお風呂場から飛び出してきて、電話を踏んでバラバラに……』
コメディドラマでもなかなかない展開に、思わず笑ってしまった。オーロラは昔からよくこんなおかしな出来事に巻き込まれる。彼女は「持ってる」人なのだ。
「絵本のネタになりそうな話ね! そうそう、絵本の調子はどう?」
『今新作に追い込みをかけてるの。早ければ今年の春には店に並ぶはずよ』
「楽しみにしてるわ。絶対買うから!」
『できたら真っ先にあなたに送るわ。あっ、そうそう、お菓子は食べてくれた?』
「……お菓子?」
『ええ、あなたが食べたいって手紙に書いてたから、少し前にオレンジピール入りのマフィンを送ったのよ。腐ったりカビが生えるといけないから、手紙と一緒にクール便で……』
「何も貰ってないけど……」
『おかしいわね、ちゃんと届いてないのかしら。船が沈んだとか……? その前に送った手紙は届いてる?』
「届いてない……」
『変ねぇ……。返事を書いたのに』
友達を疑いたくはないが、まさかジェロニモが鞄に隠しているということはなかろう。彼がそれをする理由はないし、手紙もマフィンも私の元に届かないのはどう考えても不自然だ。
「よかったらまた送って、絶対食べるから!」
『分かったわ』
しばらく他愛のない思い出話で盛り上がったあと、元気で、とオーロラから言った。この電話を切ってしまうことが名残惜しかった。切ってしまえばもう二度と話せないような気がして。そんなことは絶対にないのだけれど、切なさと寂しさで胸が締め付けられて仕方なかった。
「元気で、オーロラ。ロンドンで公演するときは絶対観に来て」
『ええ、もちろん行くわ。じゃあね。よく食べて、怪我をしたり風邪をひかないようにね』
「分かったわ、またね」
電話を切ったあと、幾ばくかの虚しさのあとでまたあの明るく清々しいエネルギーが心に戻ってきたのを感じた。オーロラと話している間、時間を忘れるようだった。できたらずっと一生こうして話していたいと、彼女の声に耳を傾けていたいと思った。でも切らなければいけないのは今の向こう側に彼女の人生が、私の人生があるからだ。だが例え抗いようのない非常な運命が私を飲み込もうとしても、今日彼女の声を聴き話をしたことはこの先ずっと心の糧になり私を奮い立たせ勇気づけてくれるだろう。
しかし、一つ気がかりなのはオーロラから届いているはずの手紙とマフィンのことだ。ケニーに話すと彼も怪訝そうに首を傾げた。
「おかしなことに、僕にも返事が届いてないんだよ。母さんと姉さん宛にも何度も手紙を出したんだけどな……」
「やっぱり変よね」
これは誰かが意図的に隠しているとしか思えない。でも、一体誰が何のために?
とりあえずあとでジェロニモにそれとなく訊いてみよう。オーロラが私のために送ってくれたマフィンと手紙の行方は何としても突き止めなければならない。
家主のお婆さんに礼を言い、断られたのにも関わらず電話代を多めに渡して家を出た。
列車に戻りすぐにジェロニモの部屋をノックした。ジェロニモは寝ていたのか、眠そうに目を擦って出てきた。
「入れよ」
私から手紙とマフィンの行方について問われたジェロニモは、最初言いにくそうにもごもごと口を動かしていた。やがて観念した様子の彼の口から出てきたのは驚きの事実だった。
「実は、お前とケニーにきた手紙は絶対にお前らに渡さないで自分に渡すようにってピアジェに言われてたんだ。もちろん俺は嫌だったけど、じゃないとショーに出さないって脅しかけられてさ」
「何だよ、それ」
「何でそんなことすんのかって訊いたら、『アイツらのことを思ってやってる』とかわけわかんないこと抜かしてた。とにかく、俺が知ってるのはここまでだ。悪かったよ、お前の大事な手紙をアイツに渡したりして」
クラウンの練習が忙しくなってからというもの、ジェロニモはよく私の代わりに仲間宛の手紙や荷物を受け取りに1人で郵便局に行ってくれていた。私もついて行くことはたまにあったけれど、手紙や一部の小包の類は頑なにジェロニモが持ちたがった。その理由が分かった。
ジェロニモを責めることなどできない。彼はピアジェに脅され仕方なくやったに過ぎないのだ。怒りの矛先を向けるべきは、意味のわからない嫌がらせを働いた男の方だ。
私は部屋を飛び出し、すぐそばにあるピアジェの部屋にノックもなく押し入った。
部屋は惨憺たる有様で、ビールの缶や空き瓶、使用済みの薬のシートなどのゴミが散らばっていた。鼻をつくアルコールの匂いに吐き気がする。
ピアジェは寝ているのか、壁際に置かれたシングルベッドの中から大きな鼾が聞こえる。この男は団員たちが汗水垂らして場越し作業をこなし、公演や練習に励んでいる間にもこうして現実を逃れて腐ったカタツムリのように布団に潜って過ごしているのだ。そのことが私の怒りをより増幅させた。
私は男の布団を乱暴に剥ぎ取り、「おい、起きろ!!」と耳元で叫んだ。
男は薄目を開けると顔を顰めて私を見た。
「何だ? 人の部屋に勝手に……」
男が言い終わらぬうちに捲し立てるように叫んだ。
「僕に届いた手紙とマフィンをどこにやった?! ケニーに届いた家族からの手紙もだ!!」
「ああ、あれのことか」
男はニヤッと笑った。背筋に不快な悪寒が走った。
「あれなら捨てたよ。安心しろ、中身は見ていない」
事態が飲み込めなかった。頭が真っ白になり、何もかもが現実と思えないくらいに混乱していた。大切な人から送られた団員の手紙を捨ててしまうなんて正気の沙汰とは思えない。
「どういうことだ?! 何でそんなことをした?!」
ピアジェはゆっくり身を起こした。不気味な薄ら笑いを浮かべ、表情とはまるでかけ離れた諭すような口調で語りかけてきた。
「お前に来ていた手紙は女からだったな。お前は色恋に夢中になれば、練習に集中できなくなるに違いない。そしてお前の伯父は脆弱だから、家族から手紙なんて貰えばきっと家に帰りたくなって辞めると言い出すだろう。そんなことは許されない。世の中はそんなに甘くない。お前たちのような意志の弱い人間は矯正する機会が要る。厳しい環境で鍛え直す必要がある。全てお前たちのためにやったことだ」
頭が沸騰し身体が震えた。
男は私の反応を愉しんでいるかのように口元を歪めた。
「そうそう、あのマフィン美味かったよ。オレンジの皮が入っていて、生地も程よい固さで甘味もちょうどよくて……。お前のガールフレンドは菓子作りが上手だな」
ふと男のベッドの脇のゴミ箱の中に、透明な包みとオレンジ色のリボンが捨てられているのが目に入った。なりふり構わず拾い上げる。マフィンの入っていたであろうピンク色の焼き菓子用の紙皿には、剥ぎ取られたマフィンの残骸がこびりついている。
次にゴミ箱の中から小さな手紙が出てきた。
『元気? あなたが前に食べたいって言ってたから作ったわ。これを食べて練習を頑張って。身体に気をつけてね。
オーロラ』
身体中の血が頭に逆流した。手紙を持つ手が震え、今にも目の前の男の首を絞めてしまいそうだった。オーロラの手紙が一番読まなくてはならない、彼女を必要としている私の目に触れる前にこの愚かで冷淡な人間の手によって無惨に捨てられてしまったのだ。挙句彼女が私を想ってわざわざ作って送ってくれたお菓子が、私ではなくこの忌々しい男の胃袋に収められたかと思うととても正気ではいられなかった。掴み掛かろうとしたとき、後ろから肩をガシッと掴まれた。
ケニーだった。
「何だお前? 甥っ子を助け立ちしようってのか?」
ピアジェは狡猾な目でケニーを睨んだ。この男は弱ってなどいない。全て演技だったのだ。同情を引き、嫌なことを全て周りの人間に押し付けて批判や罵倒の数々から逃げるための。
ケニーはいつになく険しい表情でピアジェを見据えていた。
「今の話、全部聞いたよ。手紙を捨てたことも、僕のことを脆弱だと言ったことも、これまであんたに毎日のように怒鳴りつけられて無茶な仕事を振られ、馬鹿だの間抜けだの、役立たずの腰抜けだの言われたことも、僕は一生忘れない」
ケニーは手に持っていた紙をピアジェに渡した。ピアジェはそれを広げて読むなりわなわなと震え出した。
「退職届……だとぉ?」
ピアジェは紙をビリビリに破って床に叩きつけた。
「この大変なときに辞めるだと?! 冗談も休み休み言え、このウスノロが!! 俺の他に誰が好き好んでお前のような役立たずを雇ってやるというんだ?! 今まで使ってやっただけでもありがたいと思え!! この恩知らずの役立たずめが!!」
なおも捲し立てるピアジェに向かってケニーは脚と声を震わせながら言い返した。
「あんたは僕だけじゃなく、僕の甥っ子のことも散々傷つけた。他の団員たちのこともだ。どうして人を人として扱わない? 僕は確かにウスノロで間抜けで役立たずかもしれない。社会で生きていけないような底辺に見えるかもしれない。だけど……だけど僕だって生きてるんだ!! あんたなんかよりもずっとマシだ!! 逃げてるのはあんたの方だ!! 僕だって他の皆だって、動物たちだってあんたよりもずっと真面目に精一杯頑張ってる!! あんたは一番の弱虫だ!! 自分勝手に理不尽に人や動物を傷つけて、最後には理解者も何もかもを失って一人で死んでくしかない飲んだくれだ!!」
よく言った、ケニー!! と心で称賛を送るや否や、ピアジェがケニーの胸ぐらを掴んで殴りつけた。ケニーの身体は狭い部屋の壁に叩きつけられた。
「ケニー!!」
駆け寄った私を、「大丈夫だ」とケニーが手で制した。ケニーの唇の端には血が滲んでいる。
「ケニーに何するんだ、この野郎!!」
飛びかかった私の身体も、ピアジェによって簡単にベッドに張り倒された。私は男の顔を渾身の憎しみをもって睨みつけた。こんな人間は生きている価値がないのだ。以前はこの男を笑わせてやると息巻いていたが、もはやその価値すらない卑劣で下等な悍ましい生き物だ。
「お前は血も涙もない、冷酷な人間だ!! ケニーの言う通りだ、誰もお前になんかついて行くもんか!! 僕はお前に痛みを知ってほしいなんて思わない、人の心を持てなんてお前に言っても無駄だ。でもこれ以上人の心を失わせるな!! そして今すぐオーロラの手紙とマフィンを返せ!!」
「黙れクソガキ!! お前らは上下関係も知らない、生意気でどうしようもない奴らだ!! もう一度私が教育し直して……」
「もう沢山だ!!」
ケニーが叫んだ。
「お前なんかについていくもんか!! 僕はここを辞める!! お前は一生この部屋にいろ!!」
ケニーは私の手を引き、まだ何か捲し立てているピアジェの部屋のドアを叩きつけるように閉めた。
「ケニー、すごくカッコ良かったわ」
「そんなことないさ。でもスッキリしたよ」
「辞めるって本当?」
「ああ」
ケニーの顔は晴れやかだった。
「実はさ、高校時代の友達がゲーム会社を立ち上げたんだ。何年か前に誘われたんだけど、当時僕はまだ引きこもりでさ。断ったんだ。でも思ったんだ。サーカスも好きだけど、僕の本当に好きなことはゲームなんだって。僕が作ったゲームで、前の僕のような引きこもりの子どもや大人が救われてくれたらいいって思う」
ケニーが辞めてしまうのは寂しいし悲しい。でも彼が夢を見つけられたのなら応援してあげたい。ここにいるよりも別の道に行く方が幸せなのだと彼が心から思えるのなら、止める理由などどこにもない。
「あなたの夢を応援する。あなたならきっと世界中の人を夢中にさせる凄いゲームが作れるわ。いなくなるのは寂しいけど……また会えるしね」
「ありがとう。僕も寂しいよ。君には沢山支えてもらったからね。でも、うん。また会えるよ」
ケニーは少年のように笑った。私も笑った。オーロラがまたお菓子を作って送ってくれるのが、ケニーが夢を叶えることと同じくらい楽しみだった。
ケニーが辞める日の前日の夜、盛大に列車内で送別会が開かれた。皆が作ってくれた料理、シャンパン、ワイン、ケーキがテーブルに並ぶ。
「せっかくだからシンディと話したら?」と訊くとケニーははにかんで、「そうだね、そのうちね」と答えた。
「そのうちじゃなくて今話してきなって、ほら早く!」
「どうせなら気持ちを伝えてしまえばいいんじゃ」とトムが冷やかし、「そうだそうだ、人生短いからな。後悔のないようにやれ」とルーファスも続いた。
ケニーは最初躊躇っていたが、ジャンたちと話しているシンディのところに行って輪に混じって談笑し始めた。最初きたばかりのときは人に酔い固まっていた彼がここまで変わったこと、そして夢を見つけたことは大きな財産だ。
「寂しくなるわね、ケニーがいなくなって」とジュリエッタに言われた。
「うん。でも、彼がやりたいことを見つけられたんならそれでいいんだ。それにまた会えるしね」
「そうね、また会えるわね」とジュリエッタは頷いた。
「ケニーは変わったよ、あんなに人と話すのを怖がってたのに」
「人は未知のものに対して恐怖を抱くというけど、逆に本質を知ったことで怖くなることもあるわ。人間の嫌なところ、汚いところを知ったことで怖くなることもある。心の傷はなかなか消えないけど、別の一面をーー人間の面白い部分、温かさなんかを見る機会さえあれば、するっと抜けられたりもする」
ジュリエッタと話していて、あの日ケニーとスラムで銃撃戦に巻き込まれたのは運命だったんじゃないかと思った。神様は私とケニーに試練を与えることで、無理やり方向転換をさせようとしたんじゃないか。あまりにワンパターンで刺激のない人生に区切りをつけて、一歩踏み出させるために。
ケニーがシンディのところから戻ってきた。
「手紙を書くよと伝えたら、『待ってる』って言ってくれたよ」
ケニーは完全に浮かれている。
「ねぇケニー、さっき考えてたの。あなたと私がこの列車に乗ったのは運命だったんじゃないかって」
「僕もそう思うよ」ケニーは頷いた。
「ここに来てなければ、僕は嫌な思いをしないで済んだ代わりに人といる楽しさも、サーカスっていう素晴らしいものがこの世界にあるってことすら知らなかった。でも僕が思っていたより世界はずっと広かった。君はもっと広い世界を見てくるといい。そして、自分と向き合うといい」
「そうね……」
私はクラウンを演じるようになってからというもの感じていた苦しみについてケニーに話そうと思った。
「クラウンを演じるのはすごく新鮮で楽しいわ。だけど、演じれば演じるほど元の自分が分からなくなっていったの。リングから降りても自分に戻れなくて、自分の感情や考えや話し方、そういう諸々のことを忘れそうになることがある。一体どれが本当の自分なのか? って。前は普通にできてたのに……」
「今もできてるよ」
ケニーはにこりと笑った。
「僕と話しているときは君は君のままだ。オーロラと電話で話してるときもね」
ハッとした。確かにそうだ。列車の中で完全に偽りのない私自身でいられるのは、ケニーの前でだけだった。今こうしてケニーと話している自分が私自身だ。オーロラの声を聴いた瞬間に溢れてきた感情だってそうだ。他の誰でもない、アヴリルという生身の人間から溢れ出した真実の奔流だった。
「君の演じているクラウン、僕は好きだよ。だけどさ、幼い頃から君を知っている僕からしたら、生身の君が一番素敵だと思うんだ。例えば一万人のメイクをしたクラウンがいたとして、その中に素顔のままの君がいたら、皆の視線は君に向く。君はそれだけでオンリーワンになれるってことだ」
「ノーメイクのクラウンか……」
考えたこともなかった。ルーファスが言っていた。私のままで演じたければそれでいいと。これまでステージの上では詩でいることが当たり前だった。皆の熱い視線と大きな歓声を浴びることに快感をおぼえていたけれど、いつからか重荷になっていた。リングに立つのは義務のようになり、時々リングの外から道化としての自分を客観視して嘲笑いたくなることすらあった。
だがそれがクラウンなのだとしたら、そう生きるしかないのだと思っていた。他人に求められる姿で笑いを提供する存在のままで。
だけど、それは以前の私と全く同じじゃないのか? これは違うとずっと思っていた感覚の正体がようやく掴めた。変わったと思っていただけで、根本は変われていなかったのだ。
「なぁオッサン、辞めないでくれよ〜。ようやく仲良くなれたのにさ〜」
酔っ払ったジャンがケニーに絡み始め、ジュリエッタは「そうよ〜、いつでも遊びに来なさいよね! 待ってるから」とケニーの脇腹をつついた。
シンディが大皿のチキンをトングで取ってケニーの皿に載せてやった。「ありがとう」と微笑むケニー。
「何なに? いい感じじゃない?」とジュリエッタが2人を指差す。
「青春じゃのう」とトムがしみじみ言い、「遅れてきた青春ってのもいいわよね」とジュリエッタも続く。
こうして皆でいる時間がずっと続けばいいと思った。明日にはケニーはアルゼンチンに帰ってしまう。私の一番の理解者である彼がいなくなる実感がまだない。
列車に賑やかな笑い声が響き、夜は更けていった。
翌日、ケニーをシドニーの空港まで見送りに行った。シドニーの4月は秋だ。今日のケニーは水色の半袖シャツにベージュのパンツを履いている。前よりも痩せたけれど、優しい笑顔のつぶらな目は彼のままだ。
「ママに私は夢を見つけて元気でやってるって伝えておいて。オーロラにも……」
「ああ、もちろん伝えるよ。任せておけ」
ケニーは私の頭をぽんぽんと撫でた。幼い頃から今まで、彼の温かさにどれだけ救われたことだろう。
「あなたを巻き込んで本当にごめん。大変な思いをさせてごめん。ここまでついてきてくれてありがとう」
「いいんだよ、僕だって後悔してない。お陰で一歩踏み出す勇気が出たんだ。君がいなけりゃ、部屋にこもってゲームばかりする人生だったよ。ここでサーカスのみんなに出会えて毎日大変だったけど同じくらい楽しかった。それに、僕でも働くことができるって分かった。まだまだ弱々だけどな」
寂しさで言葉に詰まった私に向かってケニーはニコリと笑った。
「アヴィー、君は強くなったよ。もう僕がいなくても平気だ。以前、僕はこのまま1人で寂しく死ぬんだと思ってた。だけどサーカス団に入ってそんな絶望は綺麗さっぱり消えたよ。僕には君がいて皆がいる。離れていても、いつも世界のどこかでお互いを気にかけて応援できる仲間が。何より自信がついた。自分には何もないと思っていたけど、僕にもできることがあると分かった」
「あなたも強くなったわ。きっと大丈夫、あなたなら世界一面白いゲームが作れる」
ケニーは私を抱きしめた。あまりに温かい体温だった。涙が抑えきれなかった。
「じゃあアヴィー、元気でな」
ケニーは目に涙を溜めて微笑んだ。
「うん、元気で」
ケニーの背中が遠くなっていく。何度も振り返るケニーの顔が涙で滲んで見えなかった。その姿が小さくなって搭乗口へと急ぐ人混みに消えて行くと、私は涙を拭って歩き出した。
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