第35話 冷たいスコール

「そろそろお前をクラウンとしてデビューさせたい」


 ギアナ公演を終えたある休日の朝ルーファスに言われ、私は瞬きを数百回は繰り返したかもしれない。


「ピアジェはまだ早いと思ってたらしいが、クラウンを出せという問い合わせが殺到してな。お前も基礎的な技術は大分付いてきたし、クラウンも様になってきたから、デビューしてもいいんじゃないかと俺は思ってる」


「やったぁ!! ありがとう、ルーファス!! やっぱり君は最高だよ!!」 


「だが、どんなショーをやるかスキットの脚本を書いて、皆の前で演じてピアジェにOKをもらわなきゃいかん」


 脚本は私が自由に考える。アイデアノートに書いた寸劇の脚本をルーファスがチェックしトレーニングルームで意見を交わしながら修正を加え、動作を修正したりどの部分を観客に1番観せたいか、特に集中して練習すべきかなどを議論する。


 練習を重ね動きができてきたら団員たちとピアジェに観てもらう。そこでウケてOKが出ればそのままショーとして本番で使えるが、今回ピアジェから10回以上NGを喰らってしまい、散々駄目出しを受けそのたびに最初から脚本を書き直し練習し直した。その分私のデビューまでの道のりは長くなった。


 ジャグリングも最初に比べたら上達した。傘回しの難しい技だってマスターしたし、綱渡りだって足にマメができるほど必死にやってできるようになった。でも私は曲芸師じゃない。スキットがウケるようでなければクラウンとして胸を張ることはできない。


 困ったことに、「つまらん」とNGを喰らえば喰らうほど面白いことが浮かばなくなっていく。何が面白くて、何が正解で間違いで、これ以上どうしたらいいのか?


 途方もない問答の繰り返しで書いたもの全てが失敗なような気がしてきて、遂には脚本を考えることすら苦痛になってきて、せっかくできた脚本をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。


「もう一生デビューなんてできないんじゃないかな? 僕はクラウンに向いてないのかもしれない。こんなにNG喰らうなんてどうかしてるよ」


 泣き出したい気持ちでライオンの檻の前でレオポルドに語りかけていたら、アルフレッドがコリンズを肩に乗せて現れた。


「ネロ、そんなに落ち込むなよ」


「落ち込むよ」


「俺は君のショー、面白いと思うよ」


「だけど、ピアジェはつまらないって……」


「アイツの言うことなんか気にするな。笑いのツボなんて人それぞれ違うし、アイツは元々ジョークセンスが皆無だ。僕も散々酷い目に遭わされた。一つだけ言えるのは、アイツがNGを出しまくるってことは、君にはアイツが羨むくらいの才能があるって意味だよ」


「……つまり、どういうこと?」


「アイツは才能のある人間が嫌いなんだ。自分が夢を絶たれた立場だから、誰かが認められたり頑張ってるのを見るのが嫌なんだ。だからわざと邪魔をしようとする」


「なら一生OKなんて出ないじゃないか」


「僕がアイツに言ってやってもいいぞ、ネロをショーに出せ! って」


「ありがとう、アルフ。僕、自分でピアジェに直接どこが悪いのか聞いてみるよ」


 何故ピアジェはNGを出すのか? どこを直せばいいのか? 質問しても返ってくる答えは「とにかくつまらん」。他のメンバーは笑っているのにだ。納得できるわけがない。


 私はピアジェのいる事務所に向かった。私はスタッフの仕事を監視するために部屋の中をうろつき回っている男の前に立った。ケニーが心配そうな目を向けている。


「団長、僕のスキットを毎回ボツにする理由は何ですか? 何がつまらないのか、具体的に言ってもらわないと分かりませんし改善のしようがありません」


 ちょうど虫の居所が悪かったのか男は立ち上がり、私の前に仁王立ちになった。


「つまらんもんはつまらん!! どこがつまらんのか自分の頭で考えて分からんのなら、お前には才能がないってことだ!!」


「どこを直せばいいのか的確なアドバイスができない人は、指導者の才能がないと思いますが」


 ピアジェの顔はまるで親を殺した憎き敵を見るかのように歪んだ。


「何だとゴルァ!!」


 男が手を振り上げた。いつもルーファスと練習しているスラップじゃなく、本気のビンタ目的の手が飛んできてスレスレのところで躱した。敵は油断ならない。


 男が背後の壁に立てかけられた杖を手に取る。それは頭上高くかざされ、空気を切り裂く鋭利な音と一緒に振り下ろされた。


 咄嗟に目を瞑る。


「パパ駄目!!」


 ガツッと鈍い音が響く。


 目の前に現れた銀色の髪が揺れ、華奢な身体が地面に崩れ落ちた。


「ルチア……」


 彼女の白い額から赤い液体が左の瞼に向かって溢れ落ちる。何故彼女がここに? という間抜けな問いの直後、止めに入ってくれたのだと気付いた。


「ルチア!!」


 ピアジェが顔色を失い娘に駆け寄った。私はただ呆然と立ち尽くしていた。


「あぁ、ルチア……何ということだ!!」


 狼狽した男は責任転嫁するようにギロリと私を睨みつけ、「早く医者を呼べ!!」と怒鳴った。


 男への怒りを感じる暇もなく踵を返して駆け出した。アルマンドを呼んでこなきゃ。


 まさかあそこにルチアがいるなんて。彼女を巻き込んでしまうなんて。あのときあの場所でピアジェに直談判などしなければ、ルチアは怪我をせずに済んだのだ。本当は私のはずだった。血を流すのは私でよかった。自分が傷つくよりも、自分を助けようとしたルチアが怪我をしたことの方がずっとショックだった。あまりの混乱と後悔で涙が溢れてきた。


 しかし、アルマンドの部屋のある車両に入るなり空間全体に漂う香辛料の匂いに絶望した。これは診察を断られる可能性大だが駄目元でドアを叩いた。が、反応はない。カレーの匂いがしているのに、だ。


「それでも医者か、馬鹿野郎!」


 開かないドアに向かって大声で悪態をついた。本当に困ったときに役に立たない医者なんて。ただのカレー好きのおっさんでしかない。


 ホタルを探して走り回った。自室にはいなかったが、彼女は幸い動物車のトリュフの檻の前にいた。支離滅裂な事情説明にも関わらず、ホタルは「分かった、すぐに行くわ」と答えてくれた。


 幸いルチアの怪我は大事には至らず、止血後傷の手当てをしてガーゼを当て、包帯を巻くだけで済んだ。安心で身体の力が抜けて床に座り込んだ。


「私の可愛い娘、お前がいなくなったら生きていかれぬ……。私のせいで、悪かった。私がもっと気をつけていたらこんなことには……」


 ピアジェは気味が悪いほどねっとりした甘々な口調でルチアに語りかけている。ルチアは事務所のソファの上で何も言わずに俯いている。


「ごめんよ、ルチア。僕を庇ってこんなことになってしまって……」


 ルチアは小さく首を振った。


「あなたは悪くないわ、ネロ。私が余計なことをしたのが悪かったの」


「そうだ、お前が悪い!! お前が下らん抗議などしてこなければ、俺の娘は……」


「もう辞めて!!」


 ルチアの声が空気を裂くように響く。


「いい加減にして、パパ。何でも他人のせいにして、人にも動物にも乱暴ばかり働いて。私は誰かが傷つくのも、辞めていくのももう見るのは嫌。ネロをショーに出さないのだって、彼が凄く才能があるから悔しいだけなんだわ!」


「ルチア……」


 最愛の娘に悪事を追求された団長は、余計に覇気を失ったようになり、人目も憚らず娘の前に追い縋るように跪いた。


「ルチア、私が間違っていたよ。心を入れ替える。だから……」


「そんなの嘘よ。ママにもいつもそう言って謝っていたけど、同じことを繰り返す。しまいにママはボロボロになって消えてしまった。パパは寂しい人よ。そんなだからみんな離れていって、最後には1人になるんだわ!」


 いつになく感情的になったルチアは事務所を飛び出して行った。


「待って、ルチア!」


 嫌な予感が頭を掠め、ルチアの後を追った。ケニーも後ろから追ってきた。


 ルチアは食堂車の窓を開けて身を乗り出していた。スコールの混じった冷たい風が車両に吹き込んでいる。


「辞めろ、ルチア!!」


 ケニーが投げ出されかけた彼女の腰を両腕で掴んで車内に引き戻した。


 ルチアを抱えたケニーの背中が硬い床に叩きつけられる。


「離して!!」


 泣き叫ぶルチア。冷たいスコールが彼女の頬と、ブラウンの格子柄のワンピースを濡らしている。


「ルチア、落ち着くんだ」


 ケニーはルチアの背中を摩って、席に座らせ窓を閉めた。


 私はあまりのことにただ呆然としていた。ケニーは事務所からコップに注がれた温かいレモンティーを持ってきてルチアに手渡した。


「心配してついてきてよかった」とケニーは汗を拭った。


「凄かったよ、ケニー」


 ケニーのファインプレーがなければ、ルチアは死んでいたかもしれない。


 私は何もできなかった。代わりにポケットから大きなハンカチを出してルチアに渡したら、憔悴しきっていたルチアはぷっと吹き出した。


 少し落ち着いたのか、ルチアはこれまで封じ込めてきた思いを打ち明け始めた。

 

「私、昔から誰かが悲しんでいたり、傷ついているのを見るのが嫌なの。誰かの気持ちや感覚が伝わってくるっていうか。誰かが具合が悪いと自分も具合が悪くなるくらい。


 パパはあの通りだから、小さい頃から数え切れないくらい泣いている団員や、傷ついた動物たちを見なきゃならなかった。そのたびに自分の部屋であ〜!! って大きな声で叫ぶの」


「分かるよ、凄く。誰かの気持ちが伝わってくるのは辛いよね」とケニーが相槌を打った。


「いっそ何も感じない方が楽なんじゃないかとよく思うの。誰かが辞めるたびに消えてしまいたくなる。何もできない、見ているしかない自分が嫌になる。私が檻の前で泣いてると、動物たちが心配するの。彼らは人の感情に敏感なのよ」


「人間が鈍いだけさ」


 ケニーは言った。


「そうかもしれないわね。パパに彼らくらいの鋭さや繊細さがあれば、あんなに誰かを平気で傷つけることもないのに」


「世の中は不公平だし理不尽さ」


 ケニーが遠い目をして語りかけた。


「僕も昔死のうとしたことがあるんだ。首を吊ってね」


「そんなこともあったよね」


 5年前、ケニーが自殺未遂をしたことがあった。


 アルゼンチンからブエノス・アイレスに向かう飛行機の中ずっと母は泣いていて、私は母を励ましながら神様に祈ることで、恐怖に押しつぶされそうな心を必死に保とうとしていた。


 ケニーがいなくなってしまうことが凄く怖かった。彼ともうゲームができない、学校のことを相談することも、一緒にアイスクリームを食べることもないんだと考えるとあまりに虚しく絶望的だった。


 病院でケニーの意識が戻ったと聞かされたとき、全身から力が抜けてその場に座り込んだ。


「会社で馬鹿だの出来損ないだのと言われるうちに、自分が本当に駄目な奴だと思えてきた。人は平気で他人を傷つけるし、自分のことが一番大事だ。エゴで生きてるんだ、誰もみんな。それを見えないように必死に隠してるだけさ。隠すことは悪いことじゃない。利己的な感情を抑えられるってことだからね。エゴを隠せない人間に限って、嫉妬や憎しみを他人にダイレクトに向ける。真面目で正直な人間が八つ当たりを喰らったり馬鹿を見ることもある。


 でもさ、そんなことばかりじゃない。辛いこともあるけど、前の会社と違うのは励ましてくれる人がいることだ。君は1人じゃない。自分だけで抱えようとしないことだ。辛い時は自分の殻にこもってしまいがちだけど、死ぬしか選択肢がなくなる前に僕たちに泣きつくんだ。怒って泣いて暴れてもいい。そうすることでしか楽になれないのなら。


 君たちのショーは僕を生き返らせてくれる。長い間死んでいたような心が、ショーを観て感動して動き出したんだ。こんなことは初めてだったよ。


 君とコリンズのショーを僕はまた観たい。動物たちのショーがとりわけ好きだな。見返りを求めず純粋な心で頑張っている彼らを見ると、自分も頑張らなきゃなと奮い立たされる。


 動物たちにも君が必要だ。気持ちを代弁してくれる君の存在が。君にとっては辛く感じることが、誰かにとっては救いになる。だから、悲観しすぎることはないんだ」


 ルチアは大きなハンカチで顔を覆って泣いていた。彼女を笑わせようとも思ったが、やっぱり好きなだけ泣かせることにした。彼女の啜り泣きとケニーの貰い泣きにつられて私も泣いた。


 窓の外で降りしきっていたスコールは上がり、曇り空に晴れ間が覗いていた。

 


 翌日呼び出されて事務所に行ってみたら、ピアジェは憔悴した様子で椅子に腰掛けていた。


 男は私の顔をジロリと見て一言告げた。


「お前をショーに出そう」


 聞き間違えだと思った。


「えっ……。でも僕のスキットはつまらないんじゃ……」


「今考えたらそこそこウケそうなものもいくつかある。クリーやヤスミーナの話だと、ジャグリングや綱渡りも上達したということだ。まだまだ十分なレベルには達していないし気は進まないが、ルチアに免じて出してやろう。お前をショーに出さないと、娘がいつまでも口をきいてくれないだろうからな」


 結局ルチアのためか。心の中で大きなため息が出た。


「頑張ります」


「だが条件がある」


 ピアジェはピシャリと言った。


「スキットは必ずルーファスと2人でやれ。ルーファスがオーギュスト、お前がホワイトフェイスを演じるんだ。下らないパントマイムだけは辞めろよ。あんなもの、言葉をおざなりにしている」


「……分かりました」


 私だけの能力を買われたわけじゃなかったことに落胆したが、ルーファスと2人でやるなら安心でもある。確かに私たちはいいコンビだし、賢くて才能に溢れた彼と2人なら面白い寸劇が作れそうな気がする。


 ついでに言うと、パントマイムはつまらなくなんてない。ルーファスがやるのを何度か観たことがあるけれど、本当に物体がそこに存在するみたいに見えて凄く面白い。感性に乏しいピアジェが面白さを理解していないだけだ。


 事務所を出る直前、ピアジェは釘を刺した。


「ミスは絶対に許さない。一つでも綻びがあれば、どうなるか分かってるな?」


「分かってます。精一杯やります。それと、パントマイムは面白いですよ。さっき言葉をおざなりにしていると言いましたが……。僕はこう思うんです。サーカスは聴くものじゃなくて、観るものだと」


 ピアジェはくっと短い声を出して押し黙った。

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