第28話 仲間
頭痛と吐き気によって覚醒させられた。昨日調子に乗って飲み過ぎたのだ。
普段疲れて夢を見ても忘れてしまうのに、彼女の夢だけはなぜか色も輪郭も鮮明だ。そういえば、あの猫は結局私の家に引き取られたんだっけ。あとでツリーからデイジーに改名されたけれど。
ブエノス・アイレスにデイジーを連れて行かなかったのは、父が「頼むからデイジーだけは連れて行かないでくれ」と母に泣きついたからと、彼女の年齢とストレス耐性を考慮したという理由からだった。
デイジーは元気だろうか。病気一つしない元気な子だけれど、13歳と高齢だから健康面は常に心配だ。
夢の余韻に浸りながら重い身体を起き上がらせる。
本当は少しでも長く寝ていたいが、今すぐに身体を動かさないとせっかく教えてもらったことを忘れてしまいそうだ。流しの冷水で顔だけ洗い、動物の世話に向かう。
そこでトラブルは起きた。コリンズの檻を掃除していたとき檻の外にリードで繋いでいたのだが、リードを巧みに外されて逃げられてしまったのだ。そのタイミングがルチアが隣の車両に続くドアを開けた直後で、隣の隣の車両のドアも開いていたために、コリンズがレオポルドの檻のある場所に侵入してしまった。
「コリンズ、駄目だ! 戻れ!」
ルチアと一緒にレオポルドの檻にダッシュで向かう。コリンズはライオンを恐れる様子もなく、それどころか檻にぶら下がり鉄格子の隙間に長い腕を突っ込んで揶揄っている。
「キキキキッ」
猿に小馬鹿にされたライオンは怒りの咆哮を上げ、大きな口を開けてコリンズの腕に噛みつこうとした。
「危ない!!」
すんでのところで腕を引っ込めたコリンズを抱いて檻から引っぺがしルチアに渡した。おちょくられた獅子はなお苛立たしげに鉄格子の中を歩き回りながら、激しい咆哮をあげ続けている。
「ごめんよ、レオポルド。彼の代わりに謝るよ。君が怒るのも無理はない、あんな風に揶揄われたら誰でも頭に来るよ」
宥めているところにホタルがやってきて、コリンズの脱走に気をつけるようにと厳しく嗜められた。
「前にもあったのよ。下手したら腕を齧られるわ。コリンズがレオポルドの檻に手を入れられないように、何か策を講じるべきね」
ホタルは神妙に腕組みをした。
「ごめんなさい……気をつけます」
コリンズを檻に戻したルチアは大きく息を吐いた。
「いつもレオポルドを揶揄うのよ、怪我しなくてよかったけど……本当に困った子だわ」
今回は私にも非があった。もっとコリンズのリードを強く縛るべきだったし、掃除にばかり気を取られずちゃんと見ておくべきだった。
「ごめんよ、ルチア。僕がちゃんとしてれば……」
ルチアは首を振った。
「あなただけの責任じゃない、私もよく見てなかったから悪かったわ」
彼女はコリンズに語りかけた。
「コリンズ、もうレオポルドを揶揄ったら駄目よ。怪我をするかもしれないし、最悪死んでしまうかも。あなたを失うのは嫌、お願いだからもうあんな悪戯はやめて」
コリンズは頭をかいて反省しているみたいだが、またいつ同じ悪戯をしでかすか分かったもんじゃない。私も安全のために良い方法を考えないといけない。
「コリンズは寂しがりやで、誰かに構って欲しいのよ。遊んでほしくて、いつも逃げ出したり悪戯をする」
そういえば私も幼い頃、母に構われたくて台所にあるみかんや卵に油性マジックで顔を描いたり、トイレットペーパーを身体に巻きつけミイラのふりをして脅かすという悪戯をしていたらしい。
「僕も子どもの頃そうだったみたい。母さんが仕事で忙しくて、構って欲しかったんだろうな」
「私もできる限り遊んであげたり一緒にいてあげてるんだけど、彼にとっては足りないのかも」
ルチアが思い詰めていたところにトムがやってきて、コリンズの檻を開けギューっと抱きしめわしゃわしゃと頭を撫でてやった。ついには「愛してるぞ〜、コリンズ」と言いながら激しく頬擦りをして始めた。脱走犯のコリンズはたちまち大人しくなりトムに身を任せている。
「動物にはなるべく、愛情を言葉と行動で伝えるようにしとる。訓練では動きで何をするか伝えなきゃいけんから難しいが、愛情が相手にあるのが分かれば自ずと信頼関係が生まれる」
人間同士にも同じことが言えるのではないか。愛情を言葉で伝えるのは照れくさかったりするけれど、伝えないと分からないし伝えられれば素直に幸せな気持ちになる。デイジーにもっと大好きだよと伝えていればよかった。両親にも、祖母にも。母ともっと本音で話せていたらーー。
オーロラに愛してると伝えたみたいに、また会えたら大切な人たちにちゃんと自分の思いを伝えたい。
檻の掃除と餌やり、雑用が一通り終わるとトレーニングルームへ向かった。
朝の7時。普段この時間には賑やかな通路は今朝は静かだ。皆昨日のパーティーの準備と深夜まで続いた騒ぎのお陰で疲れて眠っているに違いない。
他の団員のルチアから貰ったボールでジャグリングの練習をし、鏡の前で昨日のエクササイズをおさらいしていたらアルフレッドが自主練をしに来た。
「やぁネロ、頑張ってるな」アルフレッドは微笑んで片手を上げた。
アルフレッドは準備運動をしたあとしばらく吊り下がったバーを使って練習をしていたが、しばらくすると私の練習を見学しに来た。
休憩をしている時にアルフレッドは訊いた。
「君、スラムに行ったって本当か?」
「ああ、本当だよ」
「何でまたそんなところに?」
彼の表情は険しかった。まるでその街の危険さを身をもって体験しているかのように。
「どうしても欲しいものがあって、ケニーと一緒にペネムってじいさんに会いに行ったんだけど……。お金をぼったくられるし、銃撃戦に巻き込まれるし散々だったよ」
事情を聞いたアルフレッドは「前代未聞だ」と頭をかいた。
「スラムはマジで危険だ、もう二度と行かない方がいい」
「ああ、もう二度と行きたくないよ」
「実は僕はアメリカのスラムの生まれなんだ。家の近くではギャング同士の争いが絶えなくて、近くの家の子どもが巻き込まれて死んだりしてた。盗難車がアラームを響かせながら走り去ることなんて日常茶飯事だった。おんぼろアパートで暮らしてたけど部屋は狭くて暖房は壊れてて、割れた窓をガムテープて塞いでた。冬は寒くて凍えそうで、夏は熱中症になりそうだった。そんな場所に両親と僕たち4兄弟が暮らしてた。学校も柄の悪い連中が多くてさ、上級生に殴られるたび兄貴が助けてくれた」
この穏やかなアルフレッドに貧しく荒んだ環境で育った過去があったなんて、俄かには信じられなかった。バラックエリアに行った時はこんな場所に住むなんて御免だと思ったけれど、思えば今この時にも少年期のアルフレッドのように過酷な環境で生きている子どもたちがいるのだ。
「大変だったね……」
「当時はそれが普通だったよ。小学生時代の僕は学校で授業中立ち歩いて悪戯をしたり、学校を飛び出したり、他の生徒と喧嘩をして怪我をしたりさせたり落ち着きのない子でさ。先生たちも手を焼いてた」
「とんだやんちゃ坊主だったんだね」
今のアルフレッドからは考えられない。帽子泥棒のコリンズなんて比にならない悪ガキぶりだ。
「やんちゃなんてもんじゃない、僕が通ってたのは所謂問題の多い生徒のいるクラスだった。先生たちからも他の子どもたちからも酷い問題児扱いだったよ。しょっちゅう母親が学校に呼び出されて、その度に怒られた」
「意外だな、君がそんな子どもだったなんて」
「だろ? よく言われるよ」とアルフレッドは苦笑した。
「一度担任の先生に言われたんだ、打ち込めることを見つけなさいって。その時はピンと来なかった。
小学5年の時、一ヶ月ぶりに家に帰ってきた兄貴が、サーカスがくるから見に行こうって言ったんだ。僕はサーカスより、兄貴と出かけられるのがすごく嬉しくてついて行った。兄貴はいつも悪い仲間とつるんでばっかで、両親とも仲が悪くて家にほとんど帰ってこなかったから。
その時空中ブランコを観たんだ。鳥みたいに空を舞う人たちが凄く自由でカッコよく見えて、自分もやってみたいと思った。キッズサーカスに入ったのはそれからだ。最初は仲間と喧嘩したりもしたけど、そのたびコーチたちが諭してくれた。
ブランコの練習はすごく楽しかった。バーを握って飛び立つ瞬間は心が自由になる。初めて熱中できるものを見つけたと感じたよ。僕は好きなことにはとことん集中して取り組むタイプでさ、上達も早かった。中学でもサーカスを続けた。粗暴な行動もそのあたりには落ち着いた。高校はカリフォルニアのサーカス学校に入った。
サーカスで僕は技術だけじゃなく人間関係や、生きる上で大事なことを学んだ。あのまま生きてたら、ギャングになって撃たれて路上で死んでたかもしれない。今生きて仲間たちと出会えて、ショーに出られていることに感謝してるんだ」
少年のように目を輝かせるアルフレッドからは、純粋なサーカスへの愛、仲間への温かい想いが伝わってくる。彼はサーカスと出会い、それまで悪い方向に使っていたエネルギーを空中ブランコに向けることで成長した。
私はスラムに生まれなかった。私の子ども時代は決して不幸ではなかったけれど、心の底から夢中になれるものには出会えなかった。その点では、子どもの頃からサーカスに打ち込んできたアルフレッドやシンディたちが羨ましかった。もし私が彼らのように早くサーカスに出会っていたら、何か変わっていただろうか。
「アルフレッド、人は何歳からでもやり直せると思う?」
その質問にアルフレッドは笑顔で頷いた。
「もちろんさ。何歳からでも、どこからでも人はやり直せる。人生を変えられるかどうかは君次第だよ」
「ありがとう、アルフレッド」
「心配しなくても君はどんどん上達するさ。身体は小さいけどガッツがある。きっと人気のクラウンになれるよ」
「なれるといいな。てゆうか、身体が小さいは余計だ!」
冗談めかしてアルフレッドを睨むと、「ハハハ、ごめんよ」と陽気な謝罪が返ってくる。目の前の明るい笑顔の青年が昔は悪ガキだったなんて、やはり信じられない。
生きづらい世界でもがき苦しんでいたのは私とケニーだけではないのかもしれない。シンディもアルフレッドも、クリーもルーファスもその他のメンバーも……。言えないだけでそれぞれの葛藤や苦しみを抱えて生きているんだろう。でもサーカスの最中にそれは見せられない。苦しくても悲しくても、公演中は笑顔で楽しんでいるように観客の目に映らなくてはいけない。あくまでも彼らは夢を見せる立場なのだから。
アルフレッドと話していたら、ずっとガムみたいに頭にへばりついていた悩みごとも今までの人生に対する後悔もすっきりなくなって、思考がクリアになった気がした。今までの人生を悔やんだって仕方ない。大事なのはこれからで、私がどう生きるか、どんな人間になりたいかだ。それをアルフレッドが教えてくれた。
やがてコリンズがシンディの肩に乗ってやってきて自分を構えと鳴いたので、アルフレッドは休憩のほとんどをコリンズの相手をするのに費やすことになった。
午後、ジュリエッタがメイクをしてくれると言ったのでクローゼットに向かった。ルーファスがこの間言っていたが、メイクは演じるクラウンのキャラクターを見つける過程でとても大事なのだという。
ジュリエッタはクローゼットの真ん中の机で「ネロ、待ってたわ」と手を振った。
クローゼットの中はまるで鏡の向こうにある国の不思議な雑貨店みたいで、一角がクラウンの衣装を置くエリアになっていた。壁一面が帽子掛けになっていて、しわくちゃの丈がやたら長いハットや、魔女がかぶるみたいな紫色のとんがり帽子、白と黒のブロックチェックの鳥打帽や、タケコプターのようなプロペラのついたカラフルで丸いキャップなどが並んでいる。紐のついた三角の竹笠や、後ろに黒い三つ編みの髪のついた丸い赤と青の2色のチャイナ帽もあり、何故か真ん中に『餃子』と金色の文字でプリントされている。
その横にびっしりと並んだ長いハンガーラックには、イギリス国旗みたいな赤と青と白のストライプ柄の大きなジャケットや、赤地に白の大きな水玉模様のベスト、サンタクロースの着るような大きな赤いガウンもある。パープルピンクのハートのステッチで埋め尽くされたオレンジ色ワンピースも。その服の首元には大きな青いリボンがついていて、両袖には白のフリルが付いていてガーリーで凄く可愛い。どんな人が着ていたんだろうと想像するだけで楽しい。
隣のラックには黄色に赤い格子柄のブーツカットパンツや、デニムジーンズに赤いサスペンダーのついたもの、黒に鮮やかなテトリスのような柄のついたダボダボのパジャマのようなズボンなどがあった。
ネクタイも沢山ある。水色に赤や黄色、エメラルドグリーンのカラフルな水玉模様の幅の広いタイ、自動車の柄が沢山プリントされた水色のタイや、赤にトランプのような黒いダイヤやハートなどの柄のついた蝶ネクタイ……etc。
箱に入っている靴も多様で、サイズが大きくてインパクトが強いデザインのものが多かった。モノクロの先が尖ったブーツもあれば、丸みのあるレインボーカラーの靴まで。
「見ているだけで楽しいや」
「ふふ、そうでしょ? 皆面白くて、それぞれの色がある。素敵なクラウンだったわ」
ジュリエッタ曰くクラウンには『オーギュスト』と『ホワイトフェイス』という二つのタイプの他に、キャラクタータイプというどちらにも属さない独自型のクラウンがいるらしい。
オーギュストという言葉には『間抜け、愚か者』という意味がある。このタイプのクラウンは大きな赤鼻をつけて派手なメイクをし、大きなパンツやへんてこなストライプのジャケットなど目立つようなデザインの衣装を着て、ドジで間抜けで不器用で失敗ばかりする。
一方のホワイトフェイスは、その名の通り顔を白塗りにして、一見上品なイメージのクラウンだ。煌びやかで優美な衣装を纏い、一見言動や雰囲気が洗練されているが、しょっちゅうオーギュストに邪魔されたりおかしなことに巻き込まれる。
キャラクタータイプは上のどちらにも属さない、独自の個性を持ったクラウンだ。チャップリンが演じたようなダボダボのぼろを纏い、悲しげな雰囲気を持ったトランプ(浮浪者)もしくはホーボー(放浪者)というタイプもいる。また、クラウンライトという薄いメイクのクラウンもいるらしい。
「まだどれになりたいかとか、よく分かんないや」
私の中のクラウン像は赤鼻のオーギュストだった。そのタイプしか見たことがなかったし、クラウンにいろんな種類があることも、それがメイクや服装や性格などによって分けられることも知らなかった。私が思っていた以上にクラウンの世界は奥深いのかもしれない。
「最初だから当たり前よ、これからゆっくり自分のキャラクターを模索していけばいい。皆にあなたを表現して理解してもらうためにも、メイクは大切なのよ」とジュリエッタは得意げに人差し指を立てた。
「そんなあなたに私からのプレゼントよ」
ジュリエッタはブラウンの小さなスーツケースのようなデザインの緑色のポーチを渡した。中には白いリキッドと粉のファンデーションと、赤や黒や青のリキッドカラー、ブラシやペンシルなどの道具が入っていた。
「ありがとう、ジュリエッタ!」
「どういたしまして、きっとこれから役に立つわ」
ジュリエッタはアルバムを開き、このサーカスの歴代のクラウンの顔写真を見せてくれた。白塗りメイク、ジョーカーのような派手なメイク、中には黒塗りメイクのクラウンまでいた。誰1人として同じメイクのクラウンはいなかった。
「その人の輪郭とかイメージとか色々考えてメイクする必要があるわ。基本的には自分でするけど、今日は途中まで私がやってあげる」
ジュリエッタは「まずホワイトフェイスのメイクをしてみましょう」と言って、有無を言わさず私をテーブルの前の椅子に座らせた。鏡に映る私はまだ少年のままだ。
「最初は白から塗って、徐々に濃い色を足して行くわ。黒は最後に入れる。唇を塗るのは一番最後よ」
ジュリエッタは手のひらにクラウンホワイトという白い色のクリームファンデーションを容器から取って、私の顔に指で軽く叩くようにして塗った。私も真似をして顔半分を塗ってみた。そのあと好きにメイクをしていいと言われたので、ペンシルを使って右瞼の下から頬のあたりに小さなハート模様を2つ入れ、最後に唇の真ん中あたりに小さな円を描くみたいに紅を入れた。
「なかなか可愛いわよ」
白塗りでのっぺりとしているけれど、まじまじと鏡で見ると面白い。この状態でステージでおかしなことをすると考えたら確かに笑える。
一度メイクを落とし、今度はオーギュストタイプのメイクをした。
順番はホワイトフェイスの時と同じで白から塗って行く。ジュリエッタの指示通り両目との周りに額の真ん中まである縦の長丸を描き囲うように白く塗ったあと、綿棒で余分な部分を拭き取り綺麗な形にする。白い部分の周りと鼻の上にペンシルで肌色をつけて、指で叩いて伸ばし、白い長丸の上部分にだけ黒い色でなぞった。
自分の顔がクラウンに変身して行くのが面白くて、メイクをしているうちに気持ちがノッてきた。
ジュリエッタが席を立ったあと、調子に乗った私はふざけて右目の周りを黒い星マークで囲い、両頬には渦巻き柄の赤を入れ、唇は耳まで裂けるみたいな大きなカーブを描いて真っ赤に塗った。
「ストップ、ストップ! それじゃあんまり怖いわよ! トラウマになりそうだわ」
ジュリエッタが止めたがここまで来たらもう手遅れだ。鏡にいるのは完全にジョーカーになり損ねたホラークラウンだ。でもこれはこれで気に入った。今日1日楽しく過ごせそうだ。
「そうかな? 面白いと思うけど」
「もう少し可愛らしくても良かったんじゃないかしら……」
まぁいいわとジュリエッタは頷いて、次は衣装を選びましょうと言った。
最初に選んだのは帽子だ。自分が好きな形や色というのもそうだが、ステージで面白い遊びができるような、用途を予測したものを選ぶのがベストらしい。
最初に目を引かれたプロペラのついたベビースターのキャラが被っているような七色の丸いキャップを被ってみた。空は飛べそうだが、しっくりこない。使うイメージがわかないのだ。まだいろんな知識や技術を習得していないし、自分のキャライメージも固まっていないから当たり前だが。
「自分に合った衣装を選ぶと、自ずと心が落ち着くものよ。ゆっくり選んで。あ、でもあと2時間でデートに行かなきゃだから、あんまり時間は取れないわね」
彼女を大事なデートに遅刻させるわけにはいかない。クローゼットにある服を手当たり次第試着してはみたが、いまいちこれという服には出会えなかった。そうこうしている間に1時間が過ぎてしまった。
「ジュリエッタ、オーダーメイドで作ってもらうことはできる? 僕、イラストを描いてくるよ」
「もちろんOKよ」とジュリエッタは指でOサインを作った。
「少し時間がかかるけど、それでもよければ」
「うん、よろしく頼むよ」
メイクや身につけるものが自分が演じるキャラクターを表現するツールになるんだとしたら、デザインを真剣に考えないといけないと一気に気合が入った。やっぱりクラウンの世界は広くて面白い。
観客が一目見て私と分かるような衣装がいい。遠くから見て私だって気づいた子供たちが一斉に駆け寄ってくる。そんな映像が浮かんでひとりでに笑顔が溢れた。将来そんな風に皆から知ってもらえる、愛されるようなクラウンになれたらーー。誰かの幸せを作り出しながら、自分の幸せも見出せるかもしれない。
せっかくメイクをしたのだから、試しに誰かを驚かしてみたくなった。
洗濯室の洗濯機の影に隠れてジェロニモが来るのを待っていたが、まさかのミラーが現れた。彼は神経質な性格で、私の父譲りの大雑把で適当でマイペースなところに苛立っているらしく、床に髪の毛が落ちているとかペットボトルの中身を中途半端に飲み残しておくなとか、布団を整えておけ、鼻歌がうるさいなど生活のことについて無遠慮な言葉を投げつけられストレスが溜まっていた。そんな経緯もあって、驚くところを記憶におさめてやろうという意地悪な気持ちが湧いたのだった。
洗濯予定の服を腕にかけたミラーが洗濯機の丸い黒い蓋を開ける。
その瞬間を見計らい飛び出した。
「ぐわ〜!!」
両手を挙げB級SF映画に出てくる悪役みたいに喉を枯らした大声を出したら、ミラーは「ギャー!」と叫んで尻餅をついた。
「俺は悪の化身チョーカーだ! ルームメイトへの口出しを今すぐに止めないと、お前は呪われる!」
「な……何だよ、呪いって?」
「お前の服は洗濯後に激しく色落ちするだろう。そして、テレビのリモコンがいつもやたら遠くにあるとか、お札を入れたら自動販売機のお釣りが全部10円で返ってくるという恐ろしい呪いがかけられる!」
「何だそれ」
ミラーの顔に疑惑の色が混じり、やがて確信に変わったみたいに目を見開いた。
「お前……ネロだな?!」
ミラーの額に青筋をみとめ、「何のことやら」としらばっくれて口笛を吹いてみせる。
「この野郎、騙しやがって!」
顔を真っ赤にして掴みかかってきたルームメイトをかわし、廊下に逃げ出した。
「捕まえられるもんなら捕まえてみな〜!」
舌を出してみせる行動がミラーの怒りを余計に煽ったらしい。彼は自分の財布を盗んだ窃盗犯を追いかける勢いで全速力で追いかけてきた。だが駆けっこに自信のある私を捕まえられるはずがない。
通路を全力で駆け抜けるジョーカーもどきに、すれ違った仲間やスタッフがギョッとして声をあげる。
途中また逃げ出したらしいコリンズが肩によじ登ってきたので、抱き上げてすぐ後ろのミラーの顔に被せてやった。ミラーが顔にへばりついたコリンズに気を取られているうち、女性車両のシンディの部屋に逃げ込んだ。
シンディはホタルとお茶をしながら何か深刻な話をしているみたいだったが、突然部屋に飛び込んできた私の姿を見て一斉に驚きの声を上げた。
「誰?!」
外に声が漏れないよう口に人差し指を当ててみせた。扉に耳を押し当ててみると、外から「どこに行った、ネロ! 出てこい!」というミラーの怒りの声がする。
ミラーがいなくなったのを確認してシンディのそばに駆け寄った。
「ジャーン! 僕だよ、ネロ!」
両手を広げて正体を明かしたら、2人はほっと胸を撫で下ろした。
「どこのジョン・F・ケイシーかと思ったわ」とホタルが息を吐く。シンディは「良かった、殺されなくて」と笑った。
シンディはサイダーとクッキーをご馳走してくれた。ミラーに追われていたことも忘れ、しばし他愛のない雑談に耽っていたらシンディが思い出したように口を開いた。
「そういえば、ジュリエッタこれからデートなんでしょう?」
「みたいだね」と答えると、ホタルが「マジで? 今度はダメンズじゃなきゃいいけど」と顔を顰めた。
「そうね……」とシンディが俯く。2人の神妙な雰囲気を感じて私まで心配になってきた。
部屋を出て動物たちの様子を確認してからもう一度クローゼットに向かうと、ジュリエッタが全身鏡の前で髪を整えていた。アーモンドの花のような薄ピンク色のファーコートを羽織り、モノクロの花柄の膝丈のワンピースを着て、柔らかい秋風のメイクをした彼女はとても綺麗だった。
「綺麗だね」と声をかけたらジュリエッタは「ありがと!」と微笑んだ。
私はシンディが懸念していたことがずっと気になっていた。デート相手が彼女を傷つけるような人じゃないのかどうか。躊躇ったのち訊いてみることにした。
「ねぇジュリエッタ、その人は……相手の人は、本当に良い人なの? 君のことを大切にしてくれそう?」
ジュリエッタは「多分ね」と頷いた。
「まだ会ったばかりだから分からないけど……昨日話した印象だと、すごく紳士で才能もあって優しくて素敵な人だと思うわ」
「そっか……それならいいんだ」
色んな男性と付き合って来たから分かる。いくらお金持ちでお洒落でハンサムで洗練されていたからって、中身まで美しいとは限らない。中にはすごく嫉妬深くて私の友人関係も着る服も何もかもを管理したがる人もいたし、浮気ばかりしている人も、仲間の悪口ばかり言っている人もいた。お金にだらしなかったり薬物に依存していたり。ごく稀に人柄の出来た人もいたけれど、結局多くの人は愛情に飢えていて満たされたいがために、私に多くを求め、そしてそれが叶わないと知ると去って行った。
私はジュリエッタのデート相手の男性のことを知らない。本当は悪い奴かもしれないし彼女を傷つけないとも限らないけれど、こんなに幸せそうなジュリエッタを止める資格なんてないし、止めたって彼女は行くだろう。私にできるのは、彼女のデート相手が自分本位の人間じゃないことを祈るだけだ。
「楽しんできてね」
「ええ」
ジュリエッタの笑顔がいつになく眩しくて、これが失われないようにと切に願った。
時間ができたのでオーロラにまた手紙を書くことにした。そろそろ手紙が着いていてもおかしくないし、何なら返事が来ていてもいいくらいだ。オーロラなら、手紙が届いてすぐにインターネットで公演情報を調べて返事を書いてくれるだろう。
でも、返事を待っていることなんてできなかった。彼女に話したいことが、シドニーにいた時によく食べた、小洒落た箱の中にひしめく色とりどりの包み紙に包まれたリンツチョコレートみたいにパンパンに詰まっていた。前の手紙は眠気が酷過ぎて現状報告だけであまり大事なことが書けなかったから、今日はちゃんと濃く深く書くつもりだった。
浮き立つ心をそのままに便箋にペンを走らせる。
『オーロラへ
元気してる?
2通目の手紙よ。1通目はちゃんと届いたかしら?
今私はブラジルのマナウスにいるの。サーカス列車に乗って旅するのは、すごく新鮮で楽しい。毎日朝早くから雑用や動物の世話や練習で息つく暇もないくらい忙しいけど、1日1日が過ぎるのが凄く早くて景色が鮮やかな感じがする。ちょうど、あなたが描いてる絵本みたいに。
ブエノスアイレスにいる時はすごく退屈でうんざりしてたけど、今は何もかもが刺激的で充実してる。生きてるって感じがする。こんなこと初めてで、自分でもびっくりしてる。
この間言い忘れてたんだけど、この前猿に帽子を盗られたわ! そのおかげで仕事に遅刻したのよ、参っちゃう。彼は可愛いけど悪戯っ子なの。
団長は嫌な奴で頭にくるしルームメイトは口うるさいけど、仲間がいるから何とか頑張れてる。
困ったことにまだ携帯を使えなくて、あなたや家族に連絡することができない。何度も公衆電話から家に連絡したんだけど、通じないのよね。参っちゃうわ。
これを言ったらあなたはビックリするかもしれないけど、実は今サーカスでクラウンを演じる練習をしてるの。今はまだ最初の段階だけどね。ショーに出るのを想像するとすごくワクワクする。いつかあなたにも見て欲しいな。
あなたに会えなくなって本当に寂しい。最近あなたのことをよく思い出す。夢も見たわ。小学生の時にデイジーを木から助けた時の夢。あの時あなたは泣いて私に謝ったわよね。
私たちは子供の頃から気づいたら一緒にいて馬鹿やったり助け合ったりしてたから、こんなふうに離れているのが信じられない。今でもあなたの作るオレンジピールのマフィンが無性に食べたくなる。
ねぇオーロラ、この間も書いたけど、私のことは本当に心配しないで。心配性のあなたのことだから、私がシリアルキラーに監禁されてるんじゃないかとか、悪の組織に人体実験のために連れ去られて無理やり手紙を書かされてるんじゃないかって思うかもしれないけど、私は本当に大丈夫。ちゃんと生きてるし、側にケニーもいるわ。
だから、あなたは絵本作りに集中してね。あなたのことだから、もう新作を書き上げてたりして。
子どもの頃から気づいてた、あなたは特別よ。何かを表現したり創り出すことは痛みを伴う。どんなに辛くても孤独だと感じても、あなたはあなただし、あなたにしかできないことが、描けない物語がある。自分の中にある生み出す力をいつまでも大切にしてね。
私がロンドンに行ったら、公演を観に来て。
また会える日を楽しみにしてるわ!!
アヴリル』
「誰に手紙を書いてるの?」
突然後ろから覗き込まれて「わっ」と驚いた。声の主はルチアだった。私の反応を見て彼女はくすくすと笑った。
壁にかけられた鳩時計を見て驚いた。夢中で手紙を書いていたら1時間が過ぎていた。
「もしかしてラブレター?」とルチアは興味津々だ。
「違うよ、友達に手紙を書いてたんだ」
「ふーん、例の子?」
「うん、これから出しに行ってこよっと」
立ち上がるとルチアが「私も一緒に行っていい?」と訊いた。
「いいよ」
ふとジェロニモも誘おうと思いついた。どのみち団員宛ての手紙や小包を受け取ってこないといけないし、あの量を1人で持つのは大変だし、何より2人をくっつけるいい機会かもしれない。
ジェロニモはトレーニングルームでクラブジャグリングの練習をしていた。ルチアと2人で部屋に入った途端、ジェロニモは動揺したのか投げていた3本のクラブを床に落とした。恥ずかしそうに顔を赤らめクラブを拾うと、ジェロニモは「何か用か?」とぶっきらぼうに尋ねた。
「これからルチアと郵便局に行くんだけど、よかったら君も一緒に行かない?」
ジェロニモはしばらくモゴモゴ言っていたが、「いいぜ、行っても」と頷いて、「部屋からバッグとってくるよ」と忙しなく出て行った。
「何ならジェロニモと君の2人で行ってきてもいいよ」
手紙はルチアに出してもらうように頼めばいい。かえって私は邪魔かもしれないし。
さりげなく気を遣おうとしたもののルチアの反応は微妙だった。
「彼とはあまり話したことがないの。だから、2人だけで行くのはちょっと気が引けるわ……」
「そっか、ならやっぱり3人で行こう。ゴーストバスターズみたいに」
「ふふ、マシュマロマンが出てきたりしてね」
「おかしな奴が出てきたら、ゴーストバスターズに電話だ!」と戯けて映画の歌詞を叫んでみせたら、ルチアは声を上げて笑った。
「あはは、ネロってば可笑しい!」
やがて大きなバッグを持ったジェロニモが戻ってきたので、歌の続きを歌いながら3人で郵便局へ向かった。
郵便局に行く途中、オーロラから返事が来ないからちゃんと手紙が届いているのか分からないと漏らしたら、ジェロニモは「そうか……」と答えたきり黙り込んだ。台詞の空白部分に違和感を感じたものの、深く考えなかった。
郵便局でオーロラに2回目の手紙を出した。彼女の宛名を書く時、どうしてかいつも手が震える。字もミミズみたいに下手くそになる。もっと綺麗にスタイリッシュに綴りたいのに。
ジェロニモから受け取って担いだ荷物はずっしり重くて、歩くたびにバッグの紐が肩に食い込んで痛かった。
「ネロ、一緒に持つわ」
ルチアから有難いオファーをいただいたが、ここで2人で荷物を持つという共同作業をしてしまってはジェロニモを嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。
「大丈夫、僕はこう見えて力持ちなんだ」
右腕を折りマッスルポーズを決めると、「嘘つけ、女みたいに細い腕のくせに」とジェロニモが揶揄った。頭にきたから「君とそう変わんないよ」と言い返してあっかんべーをした。まるでコリンズのようだと思いながら。
3人でアイスクリーム専門店のテラス席で船の形の皿に山盛りになったアイスをつついている途中、胃腸が冷えてパーフェクトストームだと嘘をついて、苦しそうにお腹を抑えてみせ2人を残したまま店を飛び出した。これで邪魔者は消えたから、ジェロニモはルチアと2人きりでデートを楽しめるってわけだ。私は恋のキューピッドならぬ恋のクラウンだ。なんて。
街に飛び出したもののお金もないし、知らない土地だから地理についても通じていない。仕方ないからその辺を散歩していたら公園を見つけたのでベンチで一休みすることにした。
木の下で長方形の箱を使ってジャグリングをしている大道芸人らしき人が目に入った。見ているのは3、4人の老人や子どもだけで誰1人チップを投げる様子もないのに、その中年の大道芸人の男は笑顔で演技を続けている。私は近くに寄って彼の動きを観察した。彼の手の間で自在に操られる箱の動きを観ていたら、いつの間にか夢中になっていた。おかげでいつの間にか周りに私だけになってしまっていることにも気づかなかった。
男が私に向かって笑顔で礼をしたので、反射的に拍手を返した。わずかなチップを投げたら男は" Obrigado" と白い歯を見せた。多分、ブラジル語でありがとうと伝えているのだと予測した。スペイン語が話せればブラジル語も何となく理解できるというのは本当だ。
私は茶色いスーツケースのような箱に道具を片付け始めた男の後ろ姿に声をかけた。
「ねぇ、その箱を貸してくれない?」
男は不思議そうに私を見上げた。
「シガーボックスのことかい? 君もジャグリングをやるのか?」
「まだ始めたばかりなんだ、サーカスでクラウンをやるんだ」
男の顔がパッと輝いた。
「そいつは面白そうだ! 確かに君の髪と雰囲気は、クラウンにピッタリだもんな!」
「ありがとう」
男は向かって右側から赤、青、黄色のシガーボックスを三つ胸の高さで持って見せ、右端の赤、または黄色の箱だけを回転させる端返しや、赤と黄色だけを動かす両端返し、真ん中の青と、両端の赤と黄色を同時に回転させる組み合わせ技や、真ん中の青の箱を宙に放り、赤と黄色を拍手させるようにくっつけて離し、その二つの箱で黄色の箱を挟むクラップというという基本的な技を教えてくれた。
彼に教わった通りにやっているうちに、だんだん楽しくなってきた。
陽が沈んで段々と木陰の翳りが濃くなっていくのも構わず練習していたら、1組のカップルがやってきて噴水前のベンチに腰掛けた。ジュリエッタと、デート相手の音楽家とすぐに分かった。茶色いスーツを着た男は、しばらくジュリエッタと真剣に何かを話していたが、やがて口論のようになりジュリエッタが顔を覆って泣き出した。
昂る感情任せに男のところに詰め寄ろうとしたら、ジャグラーが私の腕を掴み首を振った。
「どうして止めるんだ! 彼女は僕の友達なんだ! 泣かされてたら助けるのが友達だ!」
ジャグラーは私の肩に手を置き、「落ち着きなさい」と静かな声で宥めた。
「君はクラウンになりたいんだろう? クラウンなら、こんな時どうするか考えろ」
私は一度深呼吸をして男の言葉の意味について考えた。私はクラウン。まだ卵だけど、身近な人を笑わせるのがクラウンだ。それなら私が彼女にできることはーー。
私はそっとベンチに近寄った。何やらジュリエッタを詰っていた男が目を丸くした。ジュリエッタも一拍遅れて顔を上げ、「ネロ? どうしてここに……」と言った。近くで見ると男のスーツは古びてよれよれでズボンの丈は短く、中に着たシャツの襟が黄ばんでいた。
私は何も言わずにポケットからスカーフを取り出した。ジャグリングの練習用に、ヤスミーナから借りていたものだった。ワインレッドに濃紺や緑色の大きなダイヤの柄が刺繍されている。私はそれを広げて見せて、「これから手品をお見せします」と言った。
胡散くさいスーツ男は「何だお前は?! 邪魔をするな!」と怒鳴って追い払おうとしたが、無視して続けた。
「このスカーフのダイヤの柄を四角形にして見せます」と言いそれを畳み、ぽかんとしているジュリエッタに渡した。
「広げてみてください」と声をかけると、ジュリエッタはそれを広げた。
「どうです? 四角形に見えるでしょう?」
「見えるっちゃ見えるけど……」
ジュリエッタはしばらくそのスカーフを縦にしたり横にしたりして凝視していたが、やがて何かを悟ったみたいな顔で私を見た。
「……何も変わってないわ」
数秒後、彼女は自分で導き出し答えを反芻したみたいに吹き出した。
「ああ、おかしい!」
咄嗟の思いつきだったし内容的には完全に滑っていたけれど、やったことは後悔しない、彼女が笑ってくれたならやってよかったのだ。
彼女の隣の男は「訳が分からん! こんなつまらんことをやってる暇があるなら、靴磨きでもしたほうがよっぽどいいわ!」と怒鳴り散らした。私は彼が何故こんなに不機嫌に当たり散らしてるのか意味が分からなくて、段々チャップリンの無声映画を観ているみたいに滑稽に思えてきた。最初あんなに頭に血が昇っていたのが嘘のようだ。
そうしているうちにジャグラーがやってきて、男の前でリングを使ったジャグリングを始めた。そのうちジャグラーの投げたリングが男の首に3回連続でかかり、ジャグラーがポケットからだしたラッパで威勢のいい音楽を奏でたものだから、ジュリエッタの笑いは最高潮に達した。男はリングを地面に叩きつけ、苛立った様子で帰って行った。何で彼女が泣いていたのかも、あの男が怒っていた理由も分からなかった。一つだけ確かなのは、お腹を抱えて笑うジュリエッタの目から流れているのは悲しみの涙ではないということ。
彼女を傷つけた男を怒鳴りつけることもできた。でもそれを飲み込んだことで学んだ。クラウンはどんな不条理も悲劇も喜劇に変えるのだと。
日が沈み閑散とした公園で、ジュリエッタは私とジャグラーの前で打ち明けた。噴水の流れるチョロチョロという水音と、視線の先に仄かに浮かぶ等間隔に並んだ街灯の灯り、どこかで猫の喧嘩する声だけがあった。
「あの男、音楽家なんかじゃなかったわ」
ジュリエッタは言った。
「だと思ったよ」と私は頷いた。
「胡散臭かったもんな」とジャグラーも同意した。
「彼、私を彼の嵌ってる宗教に引き入れたかったみたい。信者としてじゃなくてね。だけど、話を聞いてるとどことなくおかしいのよ。要は、年寄りをターゲットにしてひきいれて高いお金を寄付させたり、わけの分からない言葉で書いてある経典を売りつけたりしてるみたい。だから言ってやったわ、私が信じてるのは私だけ、神様も宗教も信じないって。そしたらブチッときちゃったみたいで、女男とか女装した変態野郎とか散々罵倒されたわ」
「酷いな、やっぱり僕が頭突きを喰らわせてやればよかった」
怒りが再燃してきた私を宥めるみたいにジュリエッタは微笑んだ。
「いいのよ、慣れてるから。私はいつもこうなの。心は女なのに理解してもらえなくて、身体が男だって分かった途端に逃げられたり、こんな風に罵倒されたりね。私は自分が好きだし自分なりに今を楽しんでる。サーカスの仲間は私をこのままで受け入れてくれるけど、世の中はそうじゃない。白い目で見る人もいれば、笑う人もいるわ。デパートで見ず知らずの子どもに『男? 女?』って訊かれることもね」
ジュリエッタは苦笑した。長年の悲しみを閉じ込めたみたいな笑顔を見ているのが辛かった。言葉を探していたらジャグラーが口を開いた。彼の首には輪っかが3本かかっている。
「少し違うけどね、私もこんな生業なもんで差別を受けるよ。見ず知らずの人が白い目を向けてくることもあれば、パフォーマンス中に『下手くそ!』『やめちまえ!』と詰られることもある」
「必死にやってる人を馬鹿にするなんて、そんな奴らの方が馬鹿だ」
憤る私に男は微笑みかけた。
「君もこれから理不尽な思いをすることもあるかもしれない。世間の目は優しいことばかりではない。でも大道芸をしてその日暮らしで色んな場所を歩いていると、不思議と、普通に生きていては見えない部分に自然と目が行く。普段会えないような人に出会える。道端にうずくまっている宿無しの詩人、車椅子の老人、猫と暮らすロックミュージシャン……。そんな人たちの方が、シビアに世界を観ていたりする。そして私が出会ったそれらの人たちは、もれなく愛情深かった。自分も大変なのにパンを分けてくれたりね」
つまり何が言いたいかというと……とジャグラーは続けた。
「広い庭とプール付きの豪邸で暮らしていたら、きっと私は空腹のときのチップのありがたみも、世界に蔓延る孤独や優しさも全て知らずに通り過ぎていただろう。私は世界が面白いと思う。大富豪になりたいなんて思わない。色んな国を渡り沢山の人と出会って、自分の芸を磨いて生きていきたい。人と違うということは悲劇じゃないんだ。その分君たちは、広い世界を観ることができる可能性を秘めているってことだ」
ついこの間まで私は自分を普通だと思っていたし、その考えを疑ったことすらなかった。今あるのは、ずっとこだわり続けていた普通という枠にしがみつきたいという気持ちではない。誰かに認められたいとかお金を稼ぎたいというのとも違う。金欠で早く給料が出てくれと待ち遠しく思ってはいるけれど。
望みはあまりにシンプルだった。ただ自分らしく自分のしたいことをーークラウンを極めたい、サーカス列車で知った広い世界をもっと知りたいという気持ちだった。
「何だかわからないけど、元気が出たわ」とジュリエッタはまた涙を拭った。
「分からんのかい!」と男がコケて見せ、可笑しくないのに何故か笑えた。
「ネロもありがとう、あなたは最高のクラウンだわ」
ジュリエッタは私の身体をぎゅうと抱きしめた。
ジャグラーのおじさんと別れて帰る道すがら、ジュリエッタがジャケットのポケットから赤い何かを取り出して首を傾げた。
「これ何かしら? あのおっさんが入れたのかしら? いつの間に?」
赤い何かの正体は街灯の下で明らかになった。それは可愛らしいマトリョーシュカだった。首を取り外すとその中にはもう一つ小さなマトリョーシュカが入っていて、3番目の一番小さなマトリョーシュカの中に紙が折りたたんで入れられていた。広げてみたらまさかの携帯電話の番号だった。ジュリエッタは驚いていたけれど満更でもなさそうだった。彼女の好みを考えれば、年齢的にはあのおじさんも許容範囲だろう。
「電話番号貰ったはいいけど携帯がないわ、どうしましょ」
「公衆電話からかけて公演情報を教えれば、旅先から手紙が来るんじゃない?」
「なるほど、ネロってば頭良いわね」
「まあね」
月に照らされた路肩の火焔樹の真っ赤な花が私たちを見下ろしていた。
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