生がふたりを分かつまで

春光 皓

前編

 生とはリセット。

 死とは継続である。

 誰しもが一度は考える、死後の世界。発想の転換とも言えるが、「その後の世界」が存在するとすれば、そこが本当の余生となるのであろう。

 そんな空想のような世界に、男は居た。

 生前の土産は名前のみ。その他の記憶は失っている。

 それでも男は幸せだった。ここでの生活は全てが自由で、平等で、無限だったからだ。だからこそ、「この世」に住む人はみな、この暮らしを謳歌した。あらゆる足枷から解放された身体を赴くままに動かしては、振返らずに駆け抜けていた。

 その日。

 それは、この世界で唯一、到着と同時に全員に与えられるモノである。生きる目的とも、使命とも呼べる「その日」は、前触れも予兆も一切なく、必ず誰の元にも訪れる。

 その日を胸に刻んで進む――その後の世界の決まりは、それだけだった。


 夢。理想。希望。未来。

 そこから枝分かれするかのように実る、苦しみも悲しみも、喜びも幸せさえも、行きつく先は決まっている。

 『絶対』という言葉ほど、あやふやで不明確で、不透明なものはない。

 『誓い』という言葉ほど、儚く脆く繊細で、尊いものはない。

 いつだって、その言葉を補うのは『信じる』という根拠のない感情だけである。みな平等に縛られながら、自由に行く手を阻まれながら、無限に広がる窮屈な幸せの中で、目に見える真実を信じている。

 あの先に。その向こうに。そこにある光が、自分に向かって差し込むことを信じて。


 それは音もなく回る歯車のように、唐突に始まり、動き出す。

 今日も想いを馳せながら、男は静かに目をつぶる。

 あの扉を開ける――その日のことを。


 ◆


 五十嵐幸介の左薬指には、銀色の指輪が光っている。スマートフォンを触る時、朝食を取る時、キーボードに手を置き、画面に文字を入力する時。幸介はどんなに些細なことをする時でさえ、指輪を見つめては頬を緩ませていた。

「お前……また一人で笑ってんのかよ。一体どんな思考回路してんだか」

 先輩の柳瀬秋吉。柳瀬は幸介の一つ年上で、幸介の教育係だった。今では先輩後輩の垣根を超え、いち友人のように接している。

「良いじゃないですか。まだれっきとした、新婚なんだから」

「新婚ったって、あれからもうすぐ一年が経つんだぞ? いい加減、地に足つけて――」

「俺がここに居る以上、まだ続くんですよ」

 柳瀬の言葉を遮り、幸介は強い意思を込めた視線を向けながら言う。幸介の気持ちを汲み取ったのか、柳瀬はそれ以上、何も言わなかった。代わりについた長いため息が、事務所を漂う弱めの暖房に乗って、温もりを損なわないままに流れていく。

 幸介は再び指輪へと視線を移し、口元を緩ませる。

 指輪を見る度に蘇る、色褪せない小さな記憶。

 夢のように訪れて、風の如く去って行った、「奥叶」と過ごした記憶――。


 ――四年前。

「ここに来たのは、いつ頃ですか?」

 唐突に声を掛けられた。突然の出来事に、幸介は思わず肩を竦ませ、慌てて振り返る。そこには見知らぬ女性が立っていた。彼女は両手を力強く握り、緊張の面持ちで幸介のことを見ている。どこの誰だかはわからないが、今まですれ違ってきた人たちと纏っている雰囲気が違うことだけは明らかだった。

「えっと……どちら様?」

「あ、突然すみません。私、奥叶と言います」

「奥」を名乗る女性はこちらの反応を窺うように、口元だけで笑みを作り、大きな瞳で瞬きを繰り返している。

 当然、名前を聞いただけで不信感を拭えるはずがない。しかし不思議と、幸介の目に彼女が悪い人には映らなかった。もしかすると、彼女も今の自分と同じ状況なのかもしれない。そんな偶発的な直感から、幸介は恐れながらも探りを入れることにした。

「五十嵐幸介です。奥さんは……あれ、なんか変な感じだな」

 幸介の気持ちを察したように、奥は微笑みながら応える。

「ふふ……結婚してるみたいだって、よく言われます。『叶』で構いませんよ。結婚もしていませんし」

「すみません。叶さんも、何処か違うところからこちらに?」

「えぇ。実は先程、こちらに来たばかりで――」

「え? 私もです。もう何が何だか……」

 どうやら叶も「あの体験」をしているらしい。幸介の予感は現実味を帯び、興奮のあまり叶の言葉を最後まで聞かずに言葉を重ねていた。叶は幸介の圧に驚いたのか、大きな瞳を更に見開いたが、すぐにまた優しい表情に戻った。

「じゃあ五十嵐さんも――」

「私も幸介で構いません」

「では……幸介さん。あなたも〝あの扉〟から?」

「明確な記憶はありませんが、おそらく。周りに何もありませんでしたし」

「ですよね、私もなんです。それで、取り敢えず歩いてみたら一つだけお店があって……もしかして幸介さんも、あのお店で家の場所を?」

「まるで一緒の状況――のようですね。そうです、私も自宅とやらを目指しているところで」

 叶は、そうなんですね、と呟きながらズボンのポケットに手を入れ、折りたたまれた一枚の紙を取り出し、広げる。その紙は、ここから目的地までの道順が描かれた地図だった。それを顔の横まで運ぶと、控えめな叶の笑顔が覗く。

 その光景を見た幸介も、「それ、一緒です」と叶に見せつけるように、手に持った地図をひらひらと揺らした。

 間違いない。彼女も一緒だ。

 二人は並んで歩き、これまでの話をしながら互いの家を目指した。つい数分前まで、まるで自分の脳内を映し出したように、真っ白で何も見えなかったはずの世界は色を帯び、姿かたちまでもがはっきりと形成されていく。気が付けば、あっという間に地図が示す場所まで辿り着いていた。

「こんな偶然ってあるんですね。まさか、家がお隣だったなんて」

「本当ですね。なんだか、こうなることが決まっていたみたい」

「また、お話ししたい……なんて、すいません。図々しいことを」

 無意識のうちに飛び出した言葉に、幸介は何とも言い難い羞恥心を覚えた。その場の空気から逃げるように視線を逸らし、痒くもない後頭部を指で掻く。

 ふふ、という優しい声が幸介の耳を熱くする。

「もちろん。私ももっとお話ししたいと思っていました」

「ほ、本当ですか?」

 鏡で見なくとも、笑みが零れているのがわかる。その証拠に、叶は堪え切れないといった表情で、手を口に当てて笑っていた。

「はい、本当です。お家もお隣なんですから、『自由な時間』を、一緒に有意義に過ごしましょう」

 曇りのない、柔らかな表情だった。叶の見せるその表情に心を奪われ、目が離せなくなる。幸介は興奮を抑えることなく声に乗せ、距離感を忘れた大きな声で返事をした。


 ――あの出会いから半年が過ぎ、幸介と叶は多くの時間を共有していた。互いの家を行き来することはもちろん、この世界で見る初めては、そのほとんどが叶と一緒だった。叶と話す時間は何処か懐かしく、心地よく、二人の距離が近づくのに、然程時間は掛からなかった。

「不思議だよな……初めてここに来た時は全てが真っ白で、本当に何も見えなくてさ。それこそ、〝自由〟の意味もわからなかった」

 隣同士でベンチに座り、澄んだ空を見上げながら幸介は言う。

「そういえば、あそこで色々と話をされたものね」

 互いに敬語を使い合うこともなくなった。思いの丈をありのままに口にしては、高まる体温と共に、胸の抽斗へと保管する。そして、そこから溢れ出た想いが再び言葉となって口を衝き、会話を交わしていくたびに、幸介の心は温もりで満たされた。

 叶の毛先を小さく揺らす穏やかな風が、彼女の香りに旅をさせる。その香りが幸介の鼻先に立ち寄ると、全身の血流が激しく騒ぎ立てた。血液を運ぶ音は、身体から滲み出る想いを表現しているようだった。

「そうだったね。でも、あの時は本当に考えたよ。自由ってなんだ? 誰の許可もなく、呼吸が出来ることか? だだっ広い世界を、永遠と歩けることか? それとも、一人の時間を持て余すことなのか――って」

「いきなり身に覚えのない場所に来たんだもの。私も同じような感覚だった気がするわ。……ところでさ、幸介がその話をされた時、担当はどんな人だった? 私は良く言えば営業スマイルの上手な、悪く言えば、人の心がない機械みたいな――」

「柳瀬さんって人?」

「そうそう! 柳瀬さん。正直、全然理解のできない話を、淡々と聞かされた気がする」叶は当時を思い出したかのように笑う。

「わかる。でもさ、今思えばあの人はただ純粋に、ここに居る人たちの――」

 幸介がそう口にした時、広大な空を飛び回る無数の鳩たちが、その翼を勢いよく羽ばたかせ、二人の背中を追い越した。この世界の生き方を現すようなその姿は、幸介にある決断をさせる。

「――悔いのない生き方そのものを、伝えようとしてたのかもな。あんな風に行きたいところへ、行きたい人と、寄り添って、戯れて。誰からも口を出されることもない。あの話が本当なら、俺たちの手元に〝手紙〟が届くまで、どんなことをするのも自由だから」

 叶の朗らかな表情が、幸介に伝染する。幸介は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺はそんな自由を君と……叶と一緒に歩きたい。俺と――結婚してください」

 その言葉は一瞬、叶の感情を奪うかのように、ひと時の静寂を運ぶ。そして、再び表情に明かりが灯ると、叶は恥ずかしさを誤魔化すように髪を耳に掛けて微笑んだ。

「……はい。よろしくお願いします」

 幸介は互いの体温を一つにするように、叶を強く抱きしめた。

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