「ニートになり損ねた男」
「バカバカしいわ!」
「は?」
「すると何?私の夫が出世栄達しそこなったのは私のせいだって言いたい訳?」
「言いますけど」
今度は藤木玉枝が吠えて来た。
いや違いますとも言わずに私が平板に言い返すと、鞄から一枚の紙を取り出して喫茶店のやけにまぶしいテーブルに叩き付けた。
その用紙には、学習塾の名前と二年分の月謝、さらに所在地にマジックで付けられた大きく赤い丸が踊っている。
「話が進まないようだから言うけど、絶対祐介をこの塾に通わせなさい。自然に触れて人と人との繋がりを育み、そして学生の本分にも集中させるのよ、もちろんお金は全部出すから」
「たかが小学四年生をこんな場所に押し込んでどうする気ですか。それにこんな場所に行かせるとなると転校も考えなければならないんですよ」
「いいじゃない別に」
所在地に、思いっきり村と書いてある。
その村の人口からしても、塾通いと言うよりほとんど山村留学だ。
そこに行くには最寄りの小学校から徒歩三十分、しかも授業は週五日で三時間。それこそ、一日中勉強するに等しい毎日だ。しかも学校から最寄り駅までは徒歩三十分、しかも無人駅。
「よくこんな場所を見つけましたね」
「親は子のためならば何でもするのよ」
「小人閑居して不善を為すですか」
呆れるほど生き生きとそんなプランを提案する姿と来たら、その一言で事足りた。
「一応コンビニ店長なんでしょ、そんな暇ないはずですけど」
「暇を盗んでやった結果よ」
「常務の妻としてこんな都道府県を二つまたぐようなプランに参加させたいと思いますか」
「思うけど」
「私たちに家を捨てろって言うんですか」
「どうしてそうなっちゃうの?」
なぜ私たちが拒否するのか、その事さえもわかっているように思えない。
こんなに素晴らしい計画を提案しているのに、どうしてこの目の前の人間たちは話を聞こうとしないのか。
「僕たちが楽に生きているように見えるんですか」
「ああ見えるわ。ものすごく見えるわ。何にも悩みもなさそうに生きてて、将来がどうなるか考えもしない文字通りのその日暮らし。いつ何時首切りの憂き目に遭うのかわからないのにのほほんと生きて」
「そのために必死に蓄財してるんですか」
「当たり前よ、勉強するのが嫌なら中卒でどこかで働くか、それともせめて譲のように高等専門学校に行って即戦力になるか。大学を卒業とか言えるような富裕層ぶれるような人間だと思っちゃダメ」
他人行儀なアラウンドフォーティの息子をアラウンドフォーティーンかのように丁寧に扱い、母親の愛を見せつけようとしている。
藤木玉枝はもうすぐ定年退職と言う形で社会的地位を失う父親と違う、死ぬまで剥がれない肩書を振りかざして攻めて来る。
「で、そんなに必死になって働かせて何がしたいんです?」
「具体的に言わなければわからないの、相変わらず頭が悪いんだから」
「あなたよりはいいと思いますけど」
だが、その肩書にくっついているメッキは余りにも薄い。
すぐさま本性を剥き出しにし、こちらを取って食おうとしてくる。息子と嫁に他人行儀にされてなお、藤木玉枝は全く諦める様子がない。
「半崎あかりちゃんの事は知ってるでしょ」
「半崎あかりって……ああ……」
「知らないとは言わせないわよ!」
「こんな所で彼女の話をしないで下さい」
「するわよ、あんな子でもあんな目に遭う程度には世の中は理不尽よ。だから万一の場合を常に考えなければいけないの」
半崎あかりと言う存在がどういう運命をたどって来たのかについてはよくわかっている。だがそれはあまりにも極端かつ最悪の話であり、そんな事が起きる前提で話を進めていたら何も解決しない。それこそ屁理屈だ。
「するとなんですか、とにかく一円単位で削り続け、ぜいたくは敵だと言わんばかりの戦時中みたいな生活を送れと」
「もう、どうしてそう極端になっちゃうの。私はね、ぐうたらしてるのが嫌いなだけなの。どうしてこの先の事を考えられないのって思うだけでイライラして」
「お医者さんにかかった方がいいですよ」
「それぐらいにはお金使うわよ」
残念ながらと言うべきか、この夫婦はすこぶる健康だった。
私が大学を卒業して実質絶縁状態になるまでの二十二年もの間、二日以上病気で休んでいた事など一度もない。夫が風邪で学校を休んだ連続最長期間は五日だから、それだけでも二人の丈夫さが知れる。
「まさかと思うけど、私たちが何か病気であった方が都合がいいわけ?」
「ええ」
「まあなんて事!よそ様の不幸を願うなんて!」
「そう思われている事を自覚してください」
「譲…」
「別れませんけど」
「もうだから、どうしてそう極端になっちゃうの!もう少しだけでいいから言葉を慎むようにお願いしてくれる?ね?ね?」
自分が極論を振りかざしているのに構う事なく、極端になっちゃうのとか連続で言い出す。悪口は自己紹介とか言うけど、もしそれで今まで生きて来たのならばすごく生きづらかったかすごく楽をして来たかのどっちかなんだろう。
そしてこの二人は九分九厘、後者だ。
「人生楽そうでいいですね」
「当たり前よ、目一杯汗水流して働いて来たから。怠け者には明るい未来はないの」
「その結果社長夫人になり損ねたんですけれど」
「社長夫人にまでなりたくはないわよ、そんなリスクを冒してまで」
「そんなにも遊ぶのが怖いですか」
「仕事をやり終わってから遊べばいいの、私たちのように」
「何十年もよく我慢できますね」
「そういう事なの。譲だって十年以上我慢して来たでしょ、だからほんのちょっとばかり気を抜いてもいいじゃないの」
藤木玉枝と言う人間の、心底からの笑顔。
まだ還暦であり老婆と呼ぶには早いはずだが、どこか奇妙に老女の温かさを秘めている。母親のそれに極めて近い、こちらが何をやっても受け入れてしまうような笑顔。
だが、そこには皴以上にこちらの全ての乱行をおいたとして受け入れるだけの用意が出来上がっている。これまで十数年、ほぼ連絡を取らなかったと言う罪を許さんとする。
「あなたたちを見ていて思うんです。康介さんと夫はやっぱり親子なんだって」
「でしょう」
「康介さんはやっぱり社長になり損ねた男で」
「常務まで行ったのにその上を求めるなんて」
「で、譲さんはニートになり損ねた男だって」
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