メタルミュー

@wizard-T

第一章 あの人を支えると言う事

平凡な生活

「もしもし、あなた」

「ああ、帰りに何買ってくればいい?」

「それよりお昼ちゃんと食べてる?」

「ちゃんと社食でレバニラ炒めだよ」


 午後零時。降水確率10%。極めてどうと言う事のない日。


 ワイドショーでは最近遠くの町で起きた殺人事件がどうとか言ってるけど、結局は遠くのお話。まあそんな事を言ったらあの人が少しムッとするかもしれないけど、それでもごくごく普通の日。


 そしてうちの夫もまた、いつも通り。

 ごみ捨てとか風呂掃除とか買い出しとかその手の家事を毎週、と言うかその気になれば毎日のようにやってくれる理想かもしれない夫。あと十年のはずのローンを繰り上げ返済できるかもしれないほどには仕事もできる人。

 そのおかげで今時専業主婦なんてはやらないかもしれないけど、私は炊事掃除洗濯ぐらいしかしない生活をしている。息子も小学四年生になったし、そろそろ仕事復帰してもいいんじゃないかとさえ最近は思うようになったし夫も前向きだった。


 洋服ダンスには、十年以上着ていない私のスーツが眠っている。この前秘かに袖を通してみたが、経産婦になったのに合う物だから少しビックリすると同時に安心もした。とりあえず防虫剤くさいのには参ったが、太っていないのには満足もした。


 不満があるとすれば、夕飯の事だった。とりあえずメニューは鶏の唐揚げと食パンとサラダ、それに果物と言った所だ。これまたどうと言う事のないメニューであり、少なくとも息子は今の所文句を言わない。

(どの程度まで増やした方がいいのかな……)

 ただ息子は私にも夫にも似ず運動神経が優秀で、クラブ活動として陸上部に所属している。将来は大学駅伝から日本代表マラソンランナーになりたいとかで、最近は相当に張り切っている。当然体力も消費するしおなかもすくだろうから、私の分を減らして息子に与えるべきかもしれない。クラブ活動もあって最近午後三時に帰って来る事もないから「おやつ」も与えられていないが、もっと増やす事も考えなければならないだろう。



 そして今の悩みの一つは、最近夫がなかなか帰って来ない事だ。それ自身についてはもう諦めていると言うか割り切っている。


「本当さ、新商品の開発ってのは難しくてね。昨今の情勢もあるしニーズも弁えないとまずいからさ」

「当分必要ないんじゃないの」

「確かにそうだけどさ。でも新商品ってのは発売されたその日からもう旧式になる危険性を秘めているからさ、二の矢三の矢はどうしても必要なんだと」

「でもそれはマーケットリサーチでしょ、あなたの担当じゃないでしょ」

「それはそうだけどね、うちは各部の提携が第一って考えでさ、足並みを揃えるのが第一だって」

「出世には責任が伴うのよね」


 うちの夫はつい最近、課長になった。その分給料も上がったが、それに伴い責任も増えた。同じ会社の別部署の同級の人たちとの会合も増えた。当然帰りは遅くなり、夕飯を食べる機会も減った。

「お父さんはえらくなるとご飯が食べられなくなるの?」

 そう息子に言われたこともある。実際、その通りだった。それこそご飯を食べるために偉くなっているはずなのに、出世すればするだけ余計に息子と一緒にご飯が食べられなくなるってのは何なんだろうか。理不尽と言えば理不尽だけど、しょうがないと思えばしょうがないのだろう。


 だがどうしても不安が付きまとう。

 あの人がなぜ、こうなったのかを思うだけで。




 元からあの人は、友達が多い方じゃない。

 ずっと私と言う彼女はいたけど、友人は同性でさえも二人。休みになると私とデートするか、それとも勉強しているかのどっちか。結婚した後もやたらまめまめしく私たちのために動き、私が妊婦になった事を知るやそれこそ私たち以外の全てがおまけ扱いと言わんばかりに粉骨砕身していた。運動神経はそれこそ最低クラス、昔から運動会ではビリが定位置だったけど、そんな体力のなさそうなお話をすべて否定するかのように、あの人は動いた。時々ぐっすり眠って起きない時もあったけど、それでも一晩寝れば回復していた。

 もしそれが愛の力だって言うんなら、愛は地球を救うって言葉を私は信じたい。


 そんな人だから、今のメーカーに入った時もほとんど人と関わらない開発部に入れられた。そしてそれこそじっと機械に向き合っては新商品の開発のためにずっと仕事に向き合い、与えられた仕事とは別にまた何かやっていた。そんなまめな社員だったから息子が生まれてほどなくして主任になり、三年前に係長になり、そして今年課長になった。


 その三年間でのスピード出世を果たせたのが、夫が与えられた仕事とは別にやっていたそれだった。


(あの人にはそういう才能の方が合っている。それこそ自分勝手にあれこれできるようなポストが。それがあればいいけど、まあ私が決める事じゃないし……)


 もし自分が社長ならば何か適当な名称の部でも作ってそこに思うがままに動く少数の人間を夫と共にかき集めて好き勝手な事をやらせるのにとか言う益体もない事を考えてみたが、その結果がいいのか悪いのかと言う責任なんか私には取れない。夫と結婚して息子を産むまで働いたのはわずか五年、それも教師と言うある意味特殊な労働環境にいた人間の言葉なんてどこまで通るか自分でもわからないし、その気もない。

「まぐれ当たりでないと言う保証はどこにもないからね」

 夫の言葉は正しい。もし自分の言うとおりにして夫が自由に動きヒット商品を次々に生み出せるのならばそれでいい。でももし一発屋で終わってしまったら夫は現在の大ヒットを帳消しにするどころか逆に会社に大打撃を与えた戦犯になってしまう。その事がわかる程度には夫は頭がいい。それもまた自慢だった。




「ただいまー」

 その日、結局夫が帰って来たのは七時半だった。八時だと予想していたから不愉快ではないし、事前に連絡も入っていた。

「お帰りなさい」

「祐介は」

「まだ起きてるわよ。今日はパパと一緒にお風呂入りたいって」

「そうか」


 実に優しい笑顔だった。

 でもその事をよその奥様に話すと生返事をされる。のろけ過ぎかと言い返されるのかと思っているわけではない。


 夫は今年で三十七歳、私と同い年だ。だが時々町内会とかで夫を近所の奥さんたちに会わせた時、四十半ばかと言われた事もある。その時は夫の方が悲しむと言うより驚き、次の一言で場を混乱させた。

「僕は童顔だと思ってたけどなあ」

 実際、夫は首から下と言うか鼻から下の毛が薄い。それでも年相応の貫禄はあったはずなのだが、自覚だけはなかった。それでも高く言われるのは会社内での立ち位置以上に、皴の深さだっただろう。

 髭も白髪もない代わりに皴がやたら多く、仕事のせいか知らないが眼鏡の度も高め。もしそれらの理由で老けて見えるとすれば、それって男の勲章って奴なのかもしれない。


 夫の友好関係は、さっきも言ったように大きくない。

 せいぜい浅野治郎さんと言う目をかけている部下が一人いるぐらいだ。

 浅野さんは夫とは違って口数が多く、時々奥さんと一緒にうちに来る。こっちから行く事もある。まだ子どもはいないようだがあの調子ならば絶対いいパパになると私は見ている。

 その浅野さん曰く、夫は仕事場ではいつもしかめっ面で、しかも職人気質で自分の仕事のできなさにイラつく事もあると言う。大ヒット商品を送り出した時は好きでやっていた仕事のはずなのにコーヒーの量が増え、ひと月に缶コーヒーで一万五千円消えていた事があった。缶コーヒーってのが夫らしいですねと浅野さんは言っていたが、実際夫はお酒は必要最低限(要するにお付き合いで)しか吞まないしタバコは吸わないし、休日も積極的に動くので中年太りとも今の所無縁だった。


 そんな風に仕事に懸命な夫、疲れているはずの夫がもう小学四年生の息子をお風呂に一緒に入れてくれるなど、まったくどこまで私はツイているのだろうか。


 祐介は夫の事が好きだ。体を動かすだけでなく適当にゲーム機にかじりつく平凡な小学四年生の男児ならばそうかもしれないが、うちの夫が時の人とまでは行かないにせよそれなりに著名である事もあり祐介はよくなついていた。



「今日はずいぶんと嬉しそうだな」

「ねえねえパパ、グララットはさー、」

「グララット?」

「パパグララットも知らないの、教えてあげる、グララットのじしんはミラチャンにすっごく有効でね、それで今日もタツヤがカッコよく勝ってたのー」


 お風呂場から聞こえて来る、祐介の自慢の声。祐介は他の子と同じようにキャッチザモンスター、略してキャッチモンの事が好きだ。ただゲームとしてはあまり熱心ではなく買ってあげたのを半年ほどやってそれきりほとんど触っておらず、もっぱらアニメに夢中である。それでその内容をパパに向かって話しまくっている祐介と来たら、ものすごく楽しそうだ。これを邪魔する理由がどこにあるのか。

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