第237話 望み

最低限の調度品が置かれ、あとは本と机――少しの家具と、天蓋付きのベッドがあるのみ。

窓際の椅子には一人の老婆が腰掛け、書類の束に目を通しながら、窓の外から差し込む陽光に目を細める。


顔立ちは老いてなお美しく、気品がある。

痩せた細い体はかつて大陸軍の全てを司った王国最高位の武官――元帥のそれとは思えなかったが、どこかにその凜々しさが残っていた。

黄金の髪からは色素が抜けた白髪が交じり、銀に近く。

その顔はどこまでも穏やかで、近くにある死すら完全に受け入れたもの。


そんな彼女のいる部屋の戸が叩かれ、微笑みながらどうぞ、と告げる。

かすれながらもはっきりとした音色に導かれるように、一人の少女が顔を出す。

銀の髪を二つに結び、身につけるのはエプロンドレス。

紅茶ポットとクッキーをトレイに載せて、少女は老婆を見つめると、


「ただいまです、セレネ」


鈴を転がすような音色の声を響かせ、老婆の名を呼んだ。


「おかえりクリシェ。早かったわね」


セレネ=クリシュタンドは彼女の持ってきたクッキーを眺めて苦笑し、対するクリシェはとてとてと彼女の側に。

クッキーとポットをテーブルに置くと、顔を近づけ口付ける。


「……毎日のことだけれど。全く、こんなにしわしわになってもキスされるだなんて思っても見なかったわ」


セレネ=クリシュタンドは呆れたように、今なお変わらない少女の挨拶にそう漏らし。


「えへへ、セレネはセレネですから」


幸せそうに少女の笑みで、当然のようにクリシェは返した。


「……本当、お馬鹿は変わらないわね」


そんな彼女の頬をつまみ、今日はストレートがいいわ、とクリシェに伝えた。

かしこまりました、などと使用人ぶってクリシェは答える。


静かに紅茶を注ぐ音が響き、セレネはそれに耳を傾けながら窓の外に。

しばらくの間、不自然なほどの静寂が部屋を満たしていた。

小鳥のさえずり、カーテンの擦れ合う音。

涼しい風が窓の外から流れ込み――それからふと、セレネが告げる。


「途方もないことなの。あなたの望む永遠は」


少しかすれたような声は、しかし明瞭だった。


「聞こえは良くて、とても綺麗。平和で平穏な理想郷は確かに楽園と言えるのかも。……でも、安定というものは変化を拒むこと」


――人の生き方ではないわ、とセレネは続ける。


「わたしもあなたもクレシェンタも、他の人たちだって。随分と変わったと思わない? 出会った頃に比べれば」

「……はい。変わったかもです」

「色んなことがあったからよ。嬉しいことも楽しいことも、悲しいことも、辛いことも……生きることとはそういうものだと思うの」


老婆は少女に目を向ける。

見た目の年齢を考えれば、祖母と孫娘のようであった。


「色んなことを経験して、学んで、乗り越えて――新たな何かに触れて変化して。人の心は変わるのが普通で、永遠の安定というものはある意味、死ぬことと同じ事かも知れない」


諭すように説くように。


「毎日の餌、代わり映えのない景色。鳥籠で飼われる鳥が幸せかと尋ねられて、そうだ、と確信を持って答えられる人はいないでしょう。安定とは言い換えれば停滞で、その対価は心の自由。……空を羽ばたく翼かしら」


窓の外から響く、鳥の囀りを聞きながら。


「あなた達の鳥籠は、独善的な閉じた檻。……わたしの意見は昔と変わらずね。その様子だとカルア達にも断られたんでしょう?」

「……はい」

「普通の事よ。自分から進んで鳥籠に入る鳥なんて、よほどの変わり者くらいだわ。そろそろ自覚してきたんじゃないかしら」


くすりと笑って紅茶を傾け、唇を湿らせる。

その言葉にクリシェは目を伏せた。

薄々と彼女も理解はしている。

彼女の望む永遠は独りよがりなもので、少なくとも、真っ当な人間は望むこともしないのだろう。

誰もが命の終わりを、いつか受け入れるべきものとして尊んでいるのだ。


クリシェには理解が出来ない感情だった。


「……クリシェは、お子様ですか?」

「そうね。……正直、ここまでお子様だなんて思わなかったわ」


セレネが呆れたように言うと、クリシェはきゅっとスカートを掴んだ。


「何十年もすればもう少し大人になってくれるのかもって思っていたのだけれど……期待しすぎね。あなたはやっぱりこの先も、きっとそうなのでしょう」


そんな少女の頬に手を。

少しかさついた老婆の手が、柔らかい頬を愛おしげに撫でた。


「……?」

「わたしの意見は昔と変わらず、あなたもお馬鹿でお子様で、変わらぬ所は変わらぬまま」


顔を上げると、老婆は困ったような笑みを浮かべて少女を見つめる。

白髪が増えて、皺が増え、そんな風に老いてなお、変わらぬ姉の表情で。


「でも、好きにすればいいわ。……あなたがどんな選択をしても、わがままを言っても、わたしはあなたの姉だもの。ちゃんと、あなたのお馬鹿の面倒くらいは見てあげる」

「それ、って……」


言いかけたクリシェの頬をつまんだ。

その柔らかい頬を弄び、ふと、昔を懐かしむように。


「それなりに、じっくりと考えたわ。いくら理屈と感情をこねくり回したところで、多分、わたしが愛しているのもベリーと一緒で、そういうお馬鹿な性根の部分なんでしょう」


花咲かせるは種ね、と目を細める。


「変わったようで変わらない。未だにわたしは頑固なままで、あなたはお馬鹿。クレシェンタは相も変わらず偉そうで、ベリーは最期までずる賢い意地っ張り。……ふふ、変わるものが人の本質なら、変わらないものも人の本質と言えるのかも」


彼女がもう少し物分かりが良かったならば。

クレシェンタがもう少し素直なら。

ベリーがもう少し、人に甘えてくれたなら。

セレネが自分の頑迷さを嫌っているように、彼女達の全部が全部好きな訳ではなかった。

欠点を探すならばいくらでも――けれどそれら全部を含めて、クリシェであり、クレシェンタであり、ベリーであった。


「……その上で好きなら、どうしようもない。言葉遊びはベリーの領分だけれど、結局愛というものはそういう単純で下らないものなんじゃないかしら」


頬をつまんで、伸ばし、それからその手で髪を梳く。

銀の髪は水のように滑らかで、綻び一つも存在せず、歪なまでの完全性を示すかのようだった。


物語の中から飛び出してきたかのような完全無欠。

けれど彼女の周囲には不合理しかなく、それ故歪み。

されどその魂は、曇ることなく永遠を。


「……どうするかはあなたの自由。わたしはそれに委ねるわ。今日明日に人生が終わっても後悔はないし、この先延々とあなたのお馬鹿に付き合うことになっても後悔はしない」


彼女は人として明らかに歪んでいた。

しかし、だからこそなのだろう。

だからこそ、セレネ=クリシュタンドは彼女に囚われたのだ。


「こんなに甘やかして、わたしもお馬鹿ね。……好きになさい」


――ただただ、そんな歪んだ美しさに。


「セレネ……」


クリシェはそう告げるセレネの顔を眺め、微笑み。

その頬を撫でて、頬を柔らかく指で挟んだ。


「……はい」


クリシェは嬉しそうに、幸せそうに。

いつものように、どこまでも控えめな微笑みだった。


それを見つめ返して苦笑して、セレネは告げる。


「欲を言えば、ベリーには色々と文句を言いたいわね」


わざとらしく不機嫌を顔に浮かべて。


「わたしが悩まされるのは大体あなたのことで、あなたがお馬鹿なままなのは大体ベリーのせいだもの。おかげさまであなたが来てから数十年、忙しいばっかりで暇なんて少しもなかったわ」

「……セレネは仕事がなくても仕事を作ってくるので、それはクリシェのせいばかりじゃないと思うのですが」

「口答えしない」

「うぅ……」


指でクリシェの頬をつまんで引っ張り、セレネは笑う。

クリシェの視線の先には書類の束――アルベリネアの戦略、戦術論をかみ砕き文書化したもので、軍参謀部における資料の一つ。

元帥位をノーザンの嫡男に譲ってからは、日がなそうして後世に残すための様々な軍事資料を書き記していた。


セレネは己が飛び抜けた才覚を持たない人間であると知っている。

しかしなればこそやれることがあるのだと、いつからかそのように考えるようになっていた。

歪な天才の角を丸めて柔らかく――そうして他に馴染ませるのは、誰より彼女を理解する己以外にありはしないし、そしてそれは己以外に出来ることではない。


「車軸の油ね」

「……?」

「ガテェアル=ゴートンの車軸には油を塗って、摩擦を弱めるでしょう? そういう些細な事って結構大事だと思うのよ」

「がったんごーとで、ぅにっ」

「どっちでもいいわよ」


――己の人生のどこに意味を見いだすか。

それを誇りに思えるか。

結局、そこに尽きるのだろう。


武勇と名誉に生涯を捧げるものもいれば、美味しいパンを焼くことに生涯を捧げるものもいる。

どちらが秀でるだなんて競うことは無意味な事であった。

己が価値を見いだす何かに心血を注げるならば、それがどのようなものであれ実りある人生と言えるのだろう。


答えはすぐ目の前にあった。

彼女は己が得手とする前者のことなど欠片も望まず、後者にばかり。

史に名を残す英雄であることよりも、使用人として屋敷で過ごすことの方が彼女に取っては遥かに重要で、それが全てであった。


誰よりも強いのに、剣よりも包丁を。

敵軍掃討などより屋敷の掃除に精を出した。

見方によっては愚かで馬鹿げていたが、けれどそれでいいのだろう。

彼女はそれで満足していて、それが彼女の幸福なのだから。


人生に見いだす意義とはそのようなものなのだと思う。

得手か不得手などではなく、そのようにして見いだすものなのだ。


世界で一番愚かだろう少女は、誰よりも幸福だけを追い求めていた。

滑稽で間抜けで不器用で。

でもふと気付けば、己のこだわりの方が間抜けに思え。


――結局、何でも良かったのだと思う。

けれどセレネはいつも、自分の先を行く誰かの何かを欲しがった。

色々なものがあることにも気がつかず、そればかりを見て視野が狭まり。


「……言葉も呼び名も些細なものよ。わたしはわたしの好きな風に呼ぶし、じゃらがしゃはジャレィア=ガシェアでがったんごーとはガテェアル=ゴートン。お分かりかしら?」

「うぅ……」


不満げな彼女の頬を両手で引っ張り弄ぶ。

全ては全て些細なもの――例えば愛などと、それすら言葉でしかないのだろう。

それすらを優劣で語ろうとしたのが、そもそもの間違いであったのだ。


これだけ歳を取ってなお、ベリーは嫉妬するほどに大きな存在で羨ましく、妬ましく。

けれどそれを踏まえた上でセレネはクリシェを愛していたし、ベリーのことを愛していた。

その感情は何かと比較など出来るものではなかったし、セレネだから抱くもの。

清濁混じり合うその感情は受け入れるしかないもので、そしてそれが分相応の己という存在で。


「ふふ」


愛とはつまるところ、独善的なものなのだ。

重要なのはただ、それに納得が出来るかどうか。


「……愛してるわ、クリシェ」


美醜など好みの問題でしかなく。

それが受け入れてもらえるならば、それ以上の納得なんてどこにもありはしないのだ。


「っ、えへへ、クリシェもですっ」


押しつけられる唇の感触は何十年と変わらない。

その意味合いも、そこに込められた感情も、何十年と変わらない。


それに気付くためにはきっと、時間が必要だったのだと思う。


「……本当、お馬鹿」


何度口にしただろう、そんな言葉を繰り返す。

彼女がお馬鹿であるならば、それを愛する自分はどうしようもない大馬鹿だろう。


――しかし、それで良いのだと思えることが、どれほど幸せなことであろうか。


「ん……美味しい」

「ふふん、今日のクッキーは干しニルカナを混ぜてみたんです。ちょっと甘すぎるかもですけれど――」


胸焼けがするような甘さの中に、ほんの少しの酸味が混じり。

そのクッキーは、セレネのこれまで全てを示すような味がした。











大地よりそびえ立ち、莫大な魔力を放射する。

さながらそれは、天に突き立つ刃の塔。

その内壁は大地よりせり上がる、樹木の茶と緑に侵食され始めていた。


下層においてはいっそ森のようで、そのハリボテの内側を通る魔力を養分を木々が取り込み、塔の壁面と融合し始め。

もはや塔と言うよりも、一本の大樹と言えるだろう。

外壁こそ美しい白き塔の威容を見せていたが、それは言うなれば卵の殻。


世界そのものを糧に、空へと伸びる神秘の極点。

――正しくそれに名を付けるならば、世界樹と称するが正しかろう。


その頂きにて青き光を眺めるは少女であった。

薄紅のドレスは風もないのにひらりと舞い、赤に煌めく金の髪が、青の光に紫を帯びる。

周囲の空間全てを無数の紋様が埋め尽くし、青い曲線が周囲を踊り――青き放射から流れ出すように空へ。

星そのものを覆い尽くしていくように。


彼女の吐息はもはや大気そのものであった。

指先は森羅万象を操り、その瞳はこの世の全てを見通した。


国を統べ法を敷くのが王なれば、森羅万象を掌握し、法則を生み出す存在は、神と呼ぶべきものであろう。

彼女はもはや、国と国との小競り合いなどに脅かされることもなかった。

絶大なる力を持った古竜でさえ、遠き日に栄華を誇った化石の如く。


――少女はかつて求めていた全てを、その掌中に収めていた。


「……何かしら、アーネ様」


鈴の鳴るような声で少女が尋ねる。

荒げるでもなく明瞭なそれは、発するだけで広き空間を満たすような美声であった。


「いいえ、いつもながらお美しいと」


尋ねられた使用人の老婆は微笑を浮かべて答える。

ほとんどが白髪になった黒髪を揺らして。


少女――クレシェンタは呆れたように振り返り、彼女の所へ。

老婆――アーネはクレシェンタを眺め、それから青き光の投射に目を細める。


「……いつ見ても驚くような光景です。王領で働いていた頃にはこのような場に自分が居合わせることがあるとは思っていなかったのですが」


お伽噺でございますね、とアーネは苦笑し。

現実ですわ、と不満げにクレシェンタは答えた。


「これと同じようなやりとりもこれで七十三度目なのですけれど。そんな見た目になってもあなたは同じことばかり、全然変わりませんわね」

「感動というものはいくつになってもそれほど変わらぬもので」

「……あなただけですわ」


両手を腰に、クレシェンタはアーネを見上げて睨み付け。

それから静かに嘆息する。


「ふふ、ですが女王陛下もお変わりなく。……人間とは案外そのようなものであるのかも知れません」

「もう人間というより、わたくしは神そのものですの。あなたと一緒にしないでくださいまし」

「……確かに、民衆から見ればそのように尊きお方ではあるのかも知れませんが」


アーネは神妙な顔で頷き、考え込み。

それからまた柔らかい笑みを浮かべた。


「やはりわたしにとっては、随分昔と変わらぬまま。……今も過程と考えれば、より一層」

「……?」

「愛するもののため、人が神様の領域にまで手を伸ばすという物語は、どのような物語よりも美しく愛に満ちたものだと思えますから」


クレシェンタは眉間に皺を寄せる。


「……誰のことを言ってますの?」

「今、女王陛下が思い浮かべたお方のことでしょうか」


楽しげに言って、目を閉じる。


「世の中には、取り返しがつかないこともあるとは思います。……けれどその逆もまた」

「わたくし、別にアルガン様のことなんてどうだっていいですわ」

「……気にしないようにすることは、意識することと同じことだと思うのです。僭越ながら、何よりわたしがそうですし」


――今久しぶりに、アルガン様のお名前を出す女王陛下を見ました。

アーネはそう告げ、クレシェンタは視線を逸らす。


「結局、人生のほとんどをクリシュタンドで過ごしました。後悔は欠片も。今はこれで良いと思えますし、このような歳になっても毎日幸せです」


けれど、と続けて静かに微笑む。


「いつが一番幸せだったかと尋ねられれば、やはり数十年前――アルガン様がお元気でいらっしゃった頃でしょう。わたしはいつもドジばかり、けれど屋敷はいつも賑やかで……何より、女王陛下も今よりずっと幸せそうに過ごしておられました」

「……うんざりでしたわ。何が言いたいのかしら?」


アーネはスカートを折り、クレシェンタの前でしゃがみ込むと、その端正な顔を覗き込んだ。


「わがままを申し上げるならば……また、そんな女王陛下のお姿を眺めてみたいです」

「……女王のわたくしに、使用人の分際で要求を?」

「黙り込むよりも口にしろと、女王陛下はいつも仰りますから」


不出来な使用人をお許しください、とアーネは手を伸ばし、白い彼女の頬を撫でた。

クレシェンタはされるがままそれを眺め、それから視線を切った。


「……下らないですわ。わたくしの目的は、既に全部叶ってますの」

「……はい」

「それに、今ではドジなんて踏まないかのような言い分ですわね。わがままを言う前にもっと使用人として主人に尽くせるよう努力すべきではないかしら」

「……返す言葉もございません」


恥ずかしそうに苦笑すると立ち上がり、アーネは頭を下げる。


「ご無礼をお許しくださいませ、女王陛下。……もうわたしも歳ですから、改めて申し上げておきたくなっただけでございます」

「……本当、出来の悪い使用人ですわ。帰りますわよ」


はい、とアーネは頷き、それから言った。


「……アルガン様はきっと――」

「その話は終わりですの。……黙って歩くことも出来ないのかしら」


会話を切るように。

そんな言葉にアーネは黙って頭を下げて、クレシェンタの先を歩いた。


魔導式の昇降装置に乗り込む二人――その背後では、光の柱が世界の全てを包み込んでいた。

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