第218話 約束
「ははは、まぁ、寿命と言うものでしょう。……随分、長生きをしました」
枯れたような声。
エルーガは自身の屋敷、そのベッドで横になりながらそう言った。
部屋にはクリシェとベリー、そして彼の副官クイネズの姿。
「……ガイコツはまだガイコツになっちゃ駄目です」
目の下には隈を作ったクリシェは、エルーガの手を握りながら、静かな声で言った。
軍学校での執務中、突然倒れてから一週間。
三日ほど前に目覚めてからエルーガはずっとベッドの上だった。
肉体の拡張――仮想筋肉の構築。
それすらまともに行えず、そうなればそれに頼ってきたエルーガは自分の体を自由に動かすことすらままならない。
医者は原因不明と匙を投げた。
ただ、老齢の魔力保有者にはよくある病であるらしい。
魔力を操る能力が極端に低下し、魔力で抑えられていた老化が急速に進んで内臓がやられ、死に到る。
クリシェはほとんど泊まり込みで看病していた。
魔力というエネルギーは無意識下でも働くもの。
劣化する臓器を保全し、毒素を分解し、血肉へと置き換わる。
魔水晶を魔力に変え、エルーガの体に送り込み、彼の肉体を普段のように操作し――そうすれば老化を食い止められると見込んだが、彼の体が緩やかな死に向かっていることは心のどこかで理解していた。
「クリシェ様にそう言ってもらえて、これほどの手厚い看護を受けて……私ほどの幸せ者は世界を見渡してもそうはいないでしょう」
それでも今日は調子が良く、だからこそ効果はちゃんとあると思い込み、クリシェは焼け石に水を垂らすような作業を繰り返す。
エルーガは愛おしげに彼女を見つめ、流れ込む魔力を感じて頬を緩める。
「だからこそ……もう十分です、クリシェ様。申し上げた通り、老木は枯れ、いつか肥やしになるのが定めというもの。それが自然の理です」
「……クリシェ、例え話はよく分かりません」
クリシェは拒絶するように目を伏せて言った。
「……困った方だ」
エルーガは顔を歪めるように笑う。
それから目を細めた。
「――拾えるもの全てを拾えばいつかは手に余り、重荷に潰れてしまうもの。これもいつか、クリシェ様にお伝えしました」
クリシェは黙って頷く。
「クリシェ様ならば私の延命が行えるのかも知れません。それも、限りなく長い時間を。けれどその内に、そこのベリー君が、セレネ様が、女王陛下が……同じように危うい状態になった時、あなたの手は精々二つ。あなたが救うべきは、私のような老人ではありますまい」
「……でも」
「……今でもこの老人の命のために、そのように目に隈を作っておられる。これは王国にとって大いなる損失だ」
人は全知全能ではないのです、とエルーガは続けた。
「……やれることには限りがある。クリシェ様はもっと、ご自分の時間を大切になさるべきだ」
「でも……っ」
「クリシェ様のお力ならば、同じ時間で数百人、数千の人間を助け、幸せに導けると思っております。そうした時間をこの老人一人のために使うことは、あまりに惜しい。……感情で納得が出来ないと仰るなら、損得の理屈でお考えください」
エルーガは震える右手を持ち上げて、クリシェの頬を撫でた。
そして、そこに溢れた涙を親指で拭う。
「……不思議なことですな。いつの間にか情ばかりが際立って、出会った頃のあなたはもっと強い方だったのに……随分と弱くなってしまわれた」
苦笑し、微笑む。
「心が豊かになられましたな。……もし死後に世界があるならば、ボーガン殿に鼻高々とお伝えしたいところです」
「っ……」
クリシェは何も言えずに、涙を拭われるまま。
エルーガはそれを満足そうに見守り、それが尽きるまで雫を拭う。
「……クイネズ。長年私の補佐を務めたお前は経験、能力、才覚共に申し分ない。私の後を継ぐに相応しい男だ。……我が兵と共に、軍学校を任せたい」
「……は」
黙って話を聞いていた小太りの副官は、顔を引き締め踵を鳴らし、敬礼する。
「お前が私のことをどう思っていたかは知らないが……私は私の部下として、戦友として、誰よりお前を信頼している。……私から見ればだらしがない点もあるが、何事にもゆとりを持って考えたがるお前の悪癖も、後方の勤務となれば長所に変わろう」
は、と再びクイネズは答えた。
唇は僅かに震えていた。
「……全て、お前に託す。それで私は安心だ。お前は私の期待に背いたことなど一度もない、優秀な男だからな」
「……、了解しました、エルーガ様」
それで良い、とエルーガは笑い、クイネズも目元を拭って笑う。
「正直に申し上げれば、私はあなたが苦手でした。厳しい上に無茶振りばかり……かと言って笑えば笑顔も怖くて仕方がなかったです」
それから再び踵を打ち鳴らし、改めて敬礼を。
「……ですが、あなたの副官であったことは、私の生涯の誇りとします」
「くく、そうか」
「ええ、この名に誓って」
クイネズはそう答え、響いたのはノックの音。
失礼しますわ、と現れたのは線の細い貴婦人。
美しい赤のワンピースドレスを身につけ、金の髪を優美に揺らし、あら、とクリシェを見てエルーガを睨む。
「まぁ、わざわざ看病して下さっているクリシェ様を泣かせるだなんて、最低だわ」
「ぁ、これは違……」
「何を言われたかはともかく、世迷い言ですわ。お気になさらず」
ヴァナテラは微笑み、クリシェの頬からエルーガの手を離すとハンカチで目元を拭う。
いつも通り変わりなく、ヴァナテラは明るい笑顔を浮かべていた。
「お前は本当に口が悪いな。私を何だと思っているのか」
「夫のことをなんて言おうが妻の勝手よ。あなたが寝たきりで骨の置物みたいになってしまったせいで、レイファスも怖がって部屋から出てこないの。文句を言う前に私の苦労を分かって欲しいわ」
怒ったようにヴァナテラは言って、それから腰を折り、クリシェに顔を近づけた。
「……この一週間、本当にありがとうございました、クリシェ様。主人には過分なご厚意を頂いて」
痛ましいものを見るように、目の下の隈をハンカチでなぞる。
彼女が仮眠程度しか眠っていないことをヴァナテラはよく知っていた。
「……これ以上はお体に障ります。お休みください」
「でも……」
「良いのです。私は主人と結婚したときから覚悟をしておりましたし、それに主人も納得の上――終わりを目前にこれだけ笑えることほど幸せなことはありません」
そうでしょう、とヴァナテラはエルーガに尋ね、老人は頬を吊り上げるように頷いた。
いつも通り、邪悪に見える優しい笑みで。
「私は十二分に人生を全うしました。特にこの十年は、何より勝り……クリシェ様のおかげです。別れは寂しいものですが、引き延ばせば未練が残りましょう。……これで良いのです」
「……ガイコツ」
「この通りです。……お気になさらず、お休みを」
ヴァナテラは微笑み、それからベリーに視線を向ける。
ベリーは頷いてクリシェの頭を撫で、行きましょうか、と声を掛けた。
少しの躊躇の後、クリシェは頷き、手を引かれる。
「ガイコツ、その……」
「……あなたと出会えて良かった。心からそう思います、クリシェ様」
また明日、と言おうかと迷い、目を伏せた。
「はい。……クリシェも、ガイコツと会えて良かったです」
それからそう言って、扉の外に。
クイネズもまた敬礼し、二人に続く。
部屋に残されたのは二人。
ヴァナテラはエルーガの頬を撫でて笑う。
「ふふ、一層骨みたいになっちゃったわね。これじゃあ焼いた後も生焼けかしらと疑ってしまいそう」
「本当に……失礼な口ぶりは出会った頃と変わらんな」
「まぁ。もう少し遠慮してたわ、ちゃんと」
紅茶飲むかしら、とヴァナテラは尋ね、エルーガは静かに頷く。
ヴァナテラは口ぶりに反して、どこまでも丁寧に紅茶を淹れて茶器を用意した。
「葬儀は手間だわ。もっと若い旦那さまを選べばと後悔しちゃいそう」
「最初はそう勧めたはずだが、無視したのはお前だ」
「……そうだったかしら?」
ヴァナテラは苦笑して、エルーガの体を起こし、ティーカップを口元に。
零さないようゆっくりと、エルーガに紅茶を与える。
「あなたも後二十歳くらい若ければ良かったのに。どう考えても生まれるのが早すぎたのよ。そうすればもっと……」
言いかけて、止め。
それからくすりと微笑んだ。
「言いっこなしね。……わたしがもう二十年、早く生まれれば良かったかしら」
ヴァナテラはティーカップを置くと目を細め。
ゆっくりと、夫へと唇を重ねた。
「……ずっと愛してるわ。あなたがいなくなっても、永遠に」
エルーガはそれを受け入れ、笑う。
「私もだ。……だからこそ、若いお前には新しい相手を見つけて欲しいとも思うが」
「駄目よ。ふふ、あなたの顔に慣れてしまって、他の人なんて考えられないの。……あなたのせいだわ」
もう一度キスをして、ベッドサイドの椅子に座り。
それからエルーガへもたれ掛かるようにして目を閉じた。
「あなた以上の人なんていないわ、エルーガ。……少なくとも、私にとって」
「罪深いことをしたものだ」
「ええ、最低だわ。……最後まで責任を取ってちょうだい」
それきり、言葉が途絶え。
エルーガは震える手を持ち上げて、それ以上に震える妻の背中を撫でた。
もはや言葉はいらなかった。
葬儀はそれから四日後のことであった。
ファレン夫人ヴァナテラは参列者に笑顔すらを見せ、涙を流す我が子を慰める。
終始涙を見せることないその姿を立派であったと語るものもあれば、事情を知らない者達は情のない結婚であったのだと語る。
歳の差を見ればそのようなもの。
そのような目で見られながらも、ヴァナテラはその態度を崩さず、毅然としたまま。
自ら遺体に火をくべて、焼けた遺骨を骨壺に収めてなお、その表情を崩さなかった。
「……ありがとうございました、女王陛下。クリシュタンド辺境伯」
王族やそれに近しいもの――もしくは王国に多大なる貢献を行ったもの。
彼等が埋まる王の墓地に骨壺を埋め、ヴァナテラは息子や使用人達と共に礼を述べた。
「気にしなくて構いませんわ、ヴァナテラ様。ファレン様は王国に尽くした忠臣、国葬によって送られ、ここで眠るべき方ですもの。……混じり合う血の中で、安らかなる永遠を」
血のように赤いドレスを身につけたクレシェンタは、そう語ると手を組み、少しの間祈りを捧げて見せた。
軍服姿のセレネはそれを眺め、告げる。
「……ごめんなさい。こんな大々的な葬儀は望んでなかったでしょうけれど」
「いえ。……主人が成したこと、そしてそれが認められた結果ですもの。妻として何より誇らしく思います」
静かに葬儀を行いたいと遺族が思っても、立場というものがある。
セレネとしてもどうにも出来ない問題であった。
国葬は妥当と言えたが、やはりヴァナテラ達の心情を考えると何とも言えないものがある。
「……それから、クリシェ様とベリー様も。少しの間でも、最期に主人との時間が取れたのはお二人のおかげです。……色々お手伝いもして頂いて、心より感謝を」
「……いえ」
着慣れぬ軍服を身に纏い、クリシェは首を横に振る。
ヴァナテラは苦笑すると腰を折り、顔を近づけた。
「ふふ、そのようなお顔は似合いませんわ。主人はクリシェ様の笑ったお顔が大好きだと常々……そんなお顔をされては、主人も悲しみます」
「……はい」
クリシェは頷き、そろそろ行きましょうか、とベリーが声を掛ける。
「はい。……失礼します、ヴァナテラさん」
「ええ、今度はまた、笑顔でお会いできますよう」
優雅にヴァナテラが一礼すると、クリシェ達も同じく。
クレシェンタとセレネはクリシェの様子を窺いながら先を歩き、ベリーはクリシェの腰に手を回してそれに続く。
しばらくは無言で歩き、馬車へと乗り込む寸前、クリシェはふと背後を振り返る。
墓前にて顔を俯かせ、両手で顔を覆うヴァナテラと、彼女に抱きつく息子レイファスの姿が見えた。
クリシェはそれに目を奪われ、目を伏せて。
ベリーは何も言わずその手を引いて、馬車の中へと彼女を誘う。
馬車は王領へ。
クレシェンタは何かを喋ろうとしたものの、姉の様子を見て断念し。
セレネはクリシェを心配そうに見つめながら、何かを考え込み。
アーネとエルヴェナ、使用人二人も同様――口を開くには空気が重い。
石畳の上を転がる車輪の音だけが響き、しばらくして屋敷の前まで到着すると、クレシェンタはセレネに、
「セレネ様、今後のことについてちょっと話したいですわ」
と告げ、
「そうね。わたしの部屋でいいかしら?」
とセレネは応じる。
そして二人はベリーに視線を向け、ベリーは静かに頷いた。
それからセレネはアーネとエルヴェナにも目をやり、二人は頷く。
先に降りるわ、とセレネは言い、三人が続き。
ベリーは少し間を空けてクリシェを抱き上げ、静かに言った。
「……少しお休みしましょうか」
クリシェは頷き、抱かれたままに彼女の部屋に。
軍服を着替え、ネグリジェに。
「……どうして、人は死ぬのでしょうか」
ベッドに座り込んだクリシェは、ぽつり、と零した。
ベリーは少し考え込んで、微笑む。
「とても、難しい質問ですね。どうして死ぬのかと尋ねられれば、そのように生まれたから、以外の答えをわたしは知りません」
隣に腰掛けるとさらさらとした銀の髪を撫で、目を細めた。
「どのようなものであっても、物事には始まりと終わりがあるものです。炊事洗濯、料理のような作業から、考えごと、物語に至るまで。どうして死ぬのか、という疑問はそのまま、どうして生まれたのか、という疑問に繋がるでしょう」
それから天井を見上げる。
「生物としての理屈はともかく、あえて定義するならば……死というものは結果である、ということになるでしょうか」
「……結果?」
「料理を作るのは楽しいですが、最終目的はテーブルに並べて食べてもらうこと。そして自分が完成した品に満足するか否か――それが結果でしょう?」
言葉を紡ぎながら言葉を探し、そのままベリーは真後ろに。
仰け反るようにベッドの上へと身を沈めた。
「生まれた以上は死が定め。あるいは死を迎えるために生まれてきたのかも。……どうあれ、結果としての死に本人が納得出来るならば、それはやはり誰がなんと言おうと、幸福な結末と呼べるのだと思います」
ベッドの天蓋を眺め、
「これまでの人生で積み重ねてきた全てがそこに詰まっていて、そしてその結果に満足されたのですから」
そして赤い髪を手に取り、弄びながら微笑む。
「……ファレン様もガーレン様も……ご当主様やねえさまも。自らの死を前にして笑っておられました。良い人生であった、と」
しばらくクリシェは黙り込んだまま、俯き。
ベリーの方を向いて、倒れ込むように胸に顔をうずめた。
「ベリー、も?」
「ふふ、そうですね。わたしもいつかは……ぁ」
それから、言いかけた唇を唇で塞ぐ。
宝石のような紫色でじっと見つめ、
「……絶対、嫌です」
一方的にそう告げて。
くすくすとベリーは笑い、ご安心ください、とクリシェの頭を抱いた。
「もっとずっと先の事ですよ。わたしがしわくちゃのお婆さんになってから……ふふ、その頃にはクリシェ様も、あんまり変わりすぎてわたしが誰だか分からなくなってるかも知れませんね。キスもして下さらないかも」
「そんなこと、ありえません」
ベリーは苦笑し、クリシェの頭を撫でた。
銀の髪がさらさらと、指の間をくすぐっていく。
「……ずっと、側にいてくれるって言いました」
「……これは困りました」
嬉しそうにベリーは言って、考え込み。
そのままクリシェを横に転がし押し倒す。
クリシェはされるがままにベリーを見上げ、告げる。
「ベリーは、約束を破ったりしません」
ベリーは目を見開き、細め。
愛おしげに口づけ、微笑む。
「ではクリシェ様がわたしにうんざりして頂けるくらいにべったりと、これから何十年と頑張らなくてはいけませんね」
「……何十年はずっとじゃないです」
「ふふ、お嬢さまと違って、クリシェ様を言いくるめるのは大変そうです」
もう一度、唇を優しく重ね。
それから身を起こし、クリシェを抱き上げベッドの中に。
そしてその額を撫でながら言った。
「ご安心ください。わたしはクリシェ様の悲しいお顔を見るのが大の苦手ですから、クリシェ様を悲しませるようなことは致しませんよ」
「……本当ですか?」
「ええ。ふふ、わたしは人に誇れるような正直者ではありませんが、クリシェ様に嘘なんてつきません」
この名に誓って、とベリーは続け、クリシェは静かに頷いた。
「ひとまずは少しお休みを。辛い時にはそうすることが一番です。ヴァナテラ様が仰ったように、ファレン様もクリシェ様がそんなお顔をなさっていては悲しみますから。次のお墓参りの際には、笑顔で墓前に出られるようにしませんと」
額を撫でられながら、ぼんやりと尋ねる。
「……ベリーも魂、信じてるのですか?」
「いつぞやガーラ様の言った通り、ないと思うより、あると思える方がずっと幸せなことに思えますから。……きっとファレン様は今もヴァナテラ様やレイファス様、クリシェ様の事を見守っておられると思いますよ」
ベリーは微笑み答え、わたしもそうです、とクリシェに言った。
「いつかわたしが死んだとしても、きっとクリシェ様を――」
「……そういうこと言っちゃ駄目です」
「ふふ、申し訳ありません」
ベリーは苦笑し、クリシェの目を覆い。
約束です、とクリシェは言って、約束です、とベリーも答えた。
クリシェは目を閉じ、疲れていたのだろう。
少しして寝息を立てはじめる。
ベリーはただ、愛おしげにその寝顔を見つめた。
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