第126話 意地っ張り
ミルナは食事の仕度をし、カルアは子供に纏わり付かれ。
ただいまと言ったきり、ミアは何も言わずに外套を脱ぎ剣を立て掛ける。
告白はどーだった、と尋ねたカルアにミアは唇を尖らせた。
「……なんで告白ってわかるの?」
「……はぁ、普通は一目見ればわかるよ。ミアは超のつく鈍感だから分かってなかったかも知れないけど、ミアのことが好きだーって顔に書いてあったじゃん」
ミアはカルアを睨み、ミルナは機嫌が良さそうに今日はお祝いだねぇ、と笑った。
「しなくていい。わたし、断るから」
「はぁ? 何言ってんだい、あんた」
ミルナは眉を顰めてミアを見た。
「バゼルは全く好みじゃないってのかい? そりゃ男前って感じじゃないが、優しい良い男じゃないか。あたしは小さい頃から見ているのもあるが、気に入ってるよ」
「そうだけど……そういうことじゃなくて。わたしは隊の副官だって言ったでしょ、責任があるからそんな簡単にやめられないし、それに……あそこが気に入ってるの」
「はぁ……馬鹿を言わないでくれ」
ミルナは呆れたように額に手を当てた。
「お役目のため、折角の機会だってのに棒に振って。この先どうする気だい」
「これから先また考えるよ」
「あんたね……結婚もせず、家族も作らず、女としての幸せ全部放り捨てて、軍に一生を捧げますとでも言いたいのかい?」
「仮にそうだって言うなら、どうするの?」
二人はしばらく睨み合い、子供達はそのピリピリとした様子を見て示し合わせたように部屋へと戻る。
とはいえ内容は気になるのか、こっそり――丸わかりではあるが――扉を開けて聞き耳を立てていた。
「……わたしはお母さんのこと尊敬してる。織物は上手で、家庭を持って、わたしたちを育ててくれて……お姉ちゃん達だってそう。本当にすごく立派だと思うし、それは何より女としてすごく幸せなことなのかもしれないけど……」
真剣な顔で、視線をまっすぐ向けたまま言った。
「でも、それだけがわたしの幸せな未来ってわけじゃないと思うの。少なくとも、わたしは今自分がすごく幸せだって思ってるし、色々あるけれど満足してるって思えるもん」
「はぁ……まったく。じゃあなんだい、あんたはお国のために戦場に出て、そこで殺されたり酷いことされても平気だって、それでも満足な人生でしたって言えるのかい」
「お母さんは根本的に、軍人を勘違いしてると思うの」
ミアは首を振った。
「わたしは自分が殺されないために、カルアや他の人達が殺されないように、そのために軍人として戦うの。……殺されて満足な訳がないし、死ぬ覚悟が本当にあるのかって言われたら、本当は正直……よくわからないけど」
実際に殺されかけた時のことは良く覚えている。
どうしようもないほど怖くて、クリシェが来なければ死んでいただろう。
でもそんなことを経験しても、未だにあの隊で働きたいとミアは思っていた。
それだけの価値がそこにあると、そう感じるからだ。
「でもそうやってわたしが戦うことにはちゃんと意味があって、わたしにしか出来ないことが、そこに見つかるような気がするの。……もちろん、五年後十年後に考えが変わるかも知れないけど、でも少なくとも今は、そう思える」
ミルナはミアの目を見つめ、嘆息する。
目頭を揉むと、壁にもたれて目を伏せる。
「……あんたの言い分はわかった。あたしの負けだ。ちゃんとあんたなりの覚悟もあるようだ」
「お母さん……」
「でも、それでもあたしはあんたのことが心配なんだよ」
ミルナは自分の腹を撫でた。
懐かしむように、愛おしむように。
「一年近く腹ん中にいたんだ。でかくなりゃ重たいし、気を使わなきゃいけないし、生む時はそりゃ痛いのなんの。先に二人産んでたって慣れることはない、早く出てこい馬鹿って泣き叫んださ」
「…………」
「……でも、生まれてみりゃ可愛いのなんの。元気に泣いてる姿を見たら、心底良かったって思えてね。それから少しずつでかくなってく姿を、ずっとあたしは見て来たんだ。そりゃ手の掛からない上の二人に比べれば鈍くさくて手が掛かったが、それでも可愛い子供には変わらない」
ミルナは顔を上げた。
ただ純粋な母の顔で、ミアを見つめる。
「軍人としてお国のために働くのは立派なことだ。でも、命がけで危険なとこで働いて、そんな立派を手にするよりは……立派じゃなくていいから、あんたを好いてくれる男と一緒に家族を作って、幸せになって欲しいとあたしは思うんだ」
ミアはその目に視線を揺らした。
母の気持ちが分かるとは言えず、けれど口にしたのは真実だろうと信じることは出来た。
口うるさく怒鳴りながらも、ずっと自分のことを気に掛けてくれた母のことだ。
そんな母の真剣な言葉には確かな重みがあった。
けれど。
「……ごめんなさい。でもわたしは――」
「ミア」
名前を呼んだのは黙っていたカルアだった。
「正直口を挟むのはどうかと思ったけど、でも……一回じっくりと考えるべきだとあたしは思う」
「……なんで、カルアがそんなこと言うの?」
「そういう機会だと思うから」
カルアは部屋の角に立て掛けた剣を指さす。
ミアとカルア、二人の剣がそこにあった。
「うさちゃんへの恩を返さなきゃだからね、あたしには剣を捨てられない。でも、ミアはそうじゃない。危ないことをしなくたって、この村でこのまま、平和な生活を選ぶ事だって出来るんだ。……それはやっぱり幸せなことだと思うから、いつ死ぬかも分からない戦場より、選べるならそれを選ぶべきだってあたしは思うよ」
カルアは自分の両手を眺めた。
少し遠い目で。
「あたしは汚いことも色々やったし、戦場以外でも結構殺した。村にはもう戻れないし、流れるまま行き着いた先がうさちゃんのとこだ。それで満足しているけどね。でもミアには色んな道があって、無理に危ない所に居場所を見つけようとしなくたっていいと思うんだ」
「……わたしが辞める方がいいって言いたいの?」
カルアは少しだけ迷い、目を伏せ頷く。
「そだね、今回はミルナさんの味方かな。……ミアにはちゃんと、ここに居場所があると思うから」
「っ……」
ミアは机を叩いて立ち上がり、
「カルアの馬鹿!!」
外套と立て掛けた剣を片手に、そのまま家を飛び出した。
カルアは静かに溜息をついて、頭を掻く。
「……すまないね」
「いえ。……わたしもミルナさんと同じことを思ってましたし」
立て掛けた自分の剣を手に取り、ベルトで腰に巻き付ける。
剣を持って出ていったミアの様子に、戦場の癖が染みついているなと笑いつつ。
「わたしもちょっと行ってきます」
「ああ、お願いしてもいいかい? あたしが行くより、カルアさんの方がいいだろう。……妙なとこであたしに似て、頑固になっちまって。そんなとこが似なくてもいいんだけどね」
「ふふ、まぁでも……あの子の頑固は可愛いので好きですよ」
楽しげにそう微笑んだ。
それからふと、寂しげな顔を作る。
「……良い子ですから。あんなところじゃ珍しいくらい……でもだから、わたしはミアに幸せになって欲しいと思います。ここは本当、良い村ですから」
「……辛いことを押しつけちまうね」
「いえ、最初から機会があるなら、そのつもりで来ましたから」
ミルナは立ち上がると頭を下げ、カルアは頷く。
そして外套を羽織ると外へ出た。
空は日暮れの茜。
厚い雲が不思議と消えて、空は透き通って見えた。
夕焼けに染まる雪はどこまでも美しく、けれど何か寂しいものもあり。
カルアはミアの足跡を追う。
魔力保有者特有の間隔の広い足跡、それはそのまま森の中へ。
そこで枝に跳び乗り足跡は消えていたが、枝葉に積もった雪が落ちた痕跡。
それを辿れば、恐らくは初日にいたところだろう。
見当をつけてそちらへ進み、
「――ミア」
岩の上に腰掛ける彼女を見つける。
ミアは声を無視してそっぽを向き、カルアは苦笑すると近づきながら、雪を拾って手で固めた。
そして側まで寄るとミアの頭にそれを乗せる。
ミアは一瞬何かを言いたげにカルアを睨むが、無視を決め込んでいるのかすぐに目を逸らした。
カルアはそのままもう一つ、頭の上の雪玉に乗せて、落ちていた枝で顔を描き、胴の左右にそれを差し。
「……あの、怒ってるんだけど」
流石に我慢出来なくなったミアが口を開いた。
「ふふ、知ってるよ」
カルアを睨みつつ、頭の上の雪だるまを降ろして眺めた。
出来が悪く、不細工極まりないそれを投げ捨てるかを迷いつつ、ミアは自分の側へと置いた。
「……元々、ミアは戦場で剣を振る人間じゃない。良い子だもの」
「それを言ったら、カルアだってそうだよ。美人でお嬢さまで、妹のために全部を投げ出して――……わたしとカルアの違いは、何?」
「上品さと胸の大きさかな?」
「……カルア、真面目に聞いてるの」
知ってるよ、と繰り返し。
カルアは困ったように笑って、優しげに微笑み頭を撫でた。
やっぱりカルアは、そうしていると綺麗だった。
男勝りにしていても、微笑む姿は上品で。
そういう仕草の一つが不思議と綺麗で見惚れてしまう。
黒い艶やかな髪は夕日に輝き、睫毛に包まれた猫のような瞳は悪戯っぽく、でも優しげで。
「戦場に居場所なんて作らなくたって、ミアには帰る場所がある。なら、それでいいじゃないかと思ったんだ。ここはいい村で、ミアの家族もいい人でいい子達で、バゼル君もあの様子なら、きっとミアを幸せにしてくれるんじゃないかな。……それはミアが思っている以上に幸福なことだとあたしは思うんだ」
「だからわたしにはここに残れって?」
「そ。……この村は嫌い?」
ミアは首を横に振る。
カルアは続けた。
「隊長にも話した。それがミアの幸せならそれでいいって言ってたよ。うさちゃんもいい子だし、きっとわかってくれる。隊の人間だってそうだろう」
「カルアはどう思うの?」
「さっき言ったでしょ?」
「違う。……カルア自身の気持ちを知りたいの」
また困ったように。
カルアは馬の尾のように垂らした髪を弄び、少しだけ考え込み、
「……この平和な村で、ミアに幸せになって欲しいかな」
髪紐を解いた。
長い髪が風に揺れて、きらきらと散らばる。
「ちょっとだけ寂しいけど、それがいいとあたしは思う」
顔を寄せると、ミアの後ろ髪をまとめ、丁寧に結びあげる。
くすくすと笑って、ぽんぽんと頭を叩く。
ミアは目を伏せた。
「アドルとケルスは無駄にやる気を出して、ここは任せて先に行け、だなんて。殺しても中々死ななさそうなバグもあっさり。戦場はそんなところだって思い知ったよ。あたしは大して強くもなくて、力もない。……ミアを守ってあげるだなんて、自信を持って言ってあげられない。だから――……うん、そうだね、あたしは怖いんだ」
カルアは言って、静かに息をついた。
「あの空気は独特だ。普段は大切にしてるはずのものを、呆気なく捨てちゃえるんだ」
仲間のために、名誉のために、意地のために。
戦場は、命を捨てる様々な理由に溢れていた。
狂気の誘惑――誰もがそうして命を差し出す。
どこまでも狂った世界で、狂ってなければやっていけない。
「だからあたしは、ミアにはいて欲しくない」
そんな世界に、彼女はいてはいけないと思うのだ。
これほど色んな人から大切にされている彼女の命は、そんな風に扱って良いものではない。
「……だから幸せになって欲しい、か」
ミアは息をついて、立ち上がる。
そしておもむろに剣を引き抜き、その切っ先をカルアに向けた。
「勝負しよ、カルア」
「……ミア?」
ミアは剣を降ろすと、ゆっくりと歩いて距離を取り、笑う。
「わたしが勝つまで。わたしがもし立つことを諦めたら、カルアの勝ち。……わたしはカルアの言うとおり、ここに残ってあげる。単純でしょ?」
カルアはじっとミアを見つめ、それから嘆息した。
腰の剣を引き抜き、肩に担ぐと口を開く。
「いいよ、気が済むまで付き合ってあげる。……ミアがそれで満足するなら」
「満足するよ、絶対勝つもん」
「……言っておくけど、いつもみたいに手加減しない」
「それでも勝つって言ってるの」
ミアは自信ありげに微笑んで。
剣を構えて踏み込んだ。
木造土壁の簡素なもの――家と言うより小屋だろう。
だが置かれた家具を見ればやはり家と言うべきで、その中には二人の青年と一人の女。
「まぁなんにせよ、お前にしちゃ上出来だ。自信を持っていい」
「ありがとうございます、テクスさんに後押ししてもらったおかげです。……とはいえ、まだいい返事がもらえるかは、わからないんですが」
ここは長女ミースとテクスの家だった。
はぁ、とバゼルは嘆息し、笑いながらテクスはその肩を叩く。
「そればっかりはミアちゃん次第だがな、まぁ大丈夫だと思うぜ」
「そうですかね」
「ああ……お前は悪い男じゃない。ずっとお前を見て来た俺は少なくともそう思うし、それはミアちゃんだって知ってるだろう」
「……ありがとうございます」
頭を下げるバゼルに、礼はいい、とテクスは笑い。
そんな二人を見ていたミースは首を傾げてうーん、と唸る。
「二人とも意地が悪いわ。ミアのことを好きだったなんて、もっと早く言ってくれればわたしだってちゃんと協力したのに……」
「お前が出てくるとややこしくなりそうだからな……」
テクスは嘆息する。
確かに黙ってはいたが、かれこれ二年近くテクスはバゼルの相談に付き合っているのだ。
ミースの立場からすれば察して気付いて当然なのだが、案の定――
『え? バゼル君がミアに告白? えと、え……? ミアのこと好きだったの?』
などと欠片も気付いていなかったらしい。恐ろしいほどの鈍感さである。
テクスは彼女を嫁にするため、十年の歳月を費やした。
バゼルがテクスに対し相談を持ちかけたのもそれが理由で、同じく凄まじく鈍感なミアを口説くため先達のご教授を賜りたいとバゼルが頭を下げてからの付き合い。
それまでは縁のなかった青年であったが、今では弟のように可愛がっていた。
「まぁ、何より伝えられたようで良かった。俺も肩の荷が下りたよ」
「はい、本当にありがとうございました。それじゃあ、これで」
「ああ、それじゃ。吉報を待っているよ」
「はい」
バゼルは深々と頭を下げ、二人の家を後にする。
夕食を頂き、日はすっかりと落ちていた。
澄んだ空には三日月が浮かんでおり、今日の自分を祝福するかのよう。
頃合いだろう、とバゼルはミアの家に向かう。
「あっ、お兄ちゃん!」
「おお、ミーリア。どうした、外に立って。ミルナさんに叱られたか」
「違うよ、もう……、わたしは怒られるようなことしないの」
家の前に立っていたのはミアの妹ミーリアだった。
彼女はバゼルに抱きつきながら、周囲を見渡す。
「ミアお姉ちゃんとカルアさんがご飯食べ終わっても帰ってこなくて、それでちょっと外を見てたの」
「ミアが?」
「うん……お兄ちゃん、ミアお姉ちゃんに告白したの?」
「ん? ああ……もしかしてそれで、なんかあったのか?」
ミーリアは頷き、ミアとミルナの話を掻い摘まんで話す。
バゼルは眉を顰め、嘆息し。
ミーリアの頭を撫でた。
「そうか……あいつは言い出したら聞かないからな」
「お兄ちゃん、慰めてあげようか?」
「馬鹿言え、そう簡単に諦められるか。もう何年も努力してきたんだ……俺も行ってきて、もう一回、ちゃんと伝えてくるよ」
ミーリアはじーっとバゼルを見上げ、バゼルは首を傾げた。
バゼルの胸ほどしかない彼女はうんうんと頷き、微笑んだ。
「じゃあ、ミアお姉ちゃんにフラれたらわたしがお嫁さんになってあげる」
「はは……縁起でもないことを言うなよ。まぁ、ありがとう」
「……本気なのに」
頬を膨らませるミーリアの頭を撫で、苦笑するとそのまま森へ。
恐らくはあそこだろう。
雪に足を取られないようにしながらもやや小走りに。
――そうして、響いてきたのは剣戟音だった。
剣を構えるのは二人の女。
長い黒髪を揺らす美女は、大振りな曲剣を自在に操り剣を受け。
対する栗毛の女は直剣を手に、雪を吹き飛ばしながらその周囲を駆け剣を振り抜く。
木々を足場に天地もない。
理解が及ばぬほどに跳躍は高く。
平然と枝を蹴って頭から雪に突っ込むように。
身を包む黒の外套――その胸に刻まれる三日月髑髏の隊章は、名高き黒の百人隊を示すもの。
自警団の訓練で見る戦いなどとは全く別次元のものだった。
彼女がミアだと確信していて、けれど一瞬誰かも分からず。
そんな彼女の剣を軽々と、黒髪の美女――カルアは受け、ミアの体を投げ飛ばす。
叩きつけられ舞い上がる雪の勢いを見れば、加減などされていないのではないかと思えるほど乱暴だった。
「……これで五十四回目。まだやる?」
しかしミアは全身を雪だらけに、呼吸を切らしながらも立ち上がる。
汗は蒸気のように。
張り付いた雪はすぐに溶けて体を濡らす。
対する彼女の親友は、息一つ切れていない。
肩に担いだ大曲剣。
立ち姿は隙だらけのように見え、しかし異様な威圧感があった。
ミアの人間離れした動きに驚きつつ、けれど素人目にも絶大な力の差がそこにあるのがわかる。
「けほっ……まだやる」
「このまま千回続けたって勝てないよ」
「千一回目は、わからないもん」
「……本当頑固」
「っ!?」
カルアは踏み込む。
足元の雪全てを吹き飛ばすような、巨獣が如き疾走。
雪などものともせず。
噴霧の如き雪煙の中、体を捻り繰り出した剣は轟音を響かせた。
辛うじて躱すミアの背後――そこにあった木をへし折り、体を捻って蹴りを繰り出す。
躊躇も遠慮もなく。
辛うじて剣の腹で受けたミアは吹き飛び、再び転がった。
「これで五十五回。次は五十六回目。……立たないの?」
面白くなさそうにカルアは言って、衝撃から立ち上がれずにいるミアに近づく。
そこでバゼルは硬直が解け、咄嗟にその場へ踊り出た。
「ま、待て! どういうことかはわからないが、少し落ち着け」
「落ち着いてるよ、少なくともあたしは」
はぁ、と嘆息して、カルアは再び、剣を肩に。
咳き込みながら、バゼルの背後でミアは立ち上がる。
「バゼル、ちょっとどいて」
「どけるか。何考えてこんなこと……ともかく、やめろ。怪我をしたらどうするんだ」
「わたしの中じゃ大切なことなの」
カルアは呆れたように軽く跳んで、ミアの前に。
そのまま押し倒すと剣を首に突きつけた。
「五十六回目。このまま続けて本当に勝てると思う? ミアとあたしじゃ経験が違う。努力じゃどうにもできないくらいの差があるってことくらい、わかるでしょ」
「わからない。わかるのは、カルアならちゃんとわたしに付き合ってくれるってことだけ」
「っ、と」
ミアは雪を投げつけようとし、カルアは跳んでそれを躱す。
ミアは荒く息を吐きながら立ち上がり、体の雪を払って剣を構える。
「気絶でも何でもさせて、勝とうと思えばカルアはいつでもわたしに勝てるでしょ。それをしないって時点で、もうわたしの勝ちなの」
「あのね、その言い分は卑怯……」
「だってわたしは、動けなくなるまで諦めないもん」
カルアは深く溜息を吐いて、わかった、と頷く。
「じゃあ言うとおりにしてあげる。それで終わりってことでいいんでしょ?」
「無理矢理終わりにしちゃうんだ?」
「……そうしないと諦めないって言うなら、あたしはそうする」
バゼルは再び二人の間に入り、声を張り上げた。
「待て! とりあえず落ち着け……カルアさん、どういうことなんです?」
「はぁ……あたしが勝ったらミアは村に残る。そういう勝負をしてるんだよ。知っての通り、この子は意地っ張りでね」
「あー……」
バゼルは何とも言えない顔で頭を抱えた。
そして、ミアを見る。
「ミア、そんなに俺は嫌か?」
「……そうじゃない。そういうことじゃないの」
「じゃあなんだ、何がいけない。……言ったとおり、俺は絶対、お前を幸せにしてみせる。嘘じゃなくて、本当に心の底から思ってる。俺は――」
「それなの」
ミアは剣を握り締めて、カルアとバゼルを見る。
「バゼルがそんなこと言ってくれて、びっくりしたけれど……もちろん嬉しいよ。でも、違うの」
そして首を振って、笑みを浮かべた。
「幸せになって、幸せにしたい、お母さんもバゼルも、カルアもそんなことを言うけれど……でも、わたしは今十分過ぎるくらい幸せなんだ」
「……ミア」
「軍人になったのはたまたま、最初はすごく辛かったけど、でもそこで頑張って、そうやって認められて、任せられて……わたし、すごく嬉しかったの。不器用でおっちょこちょいで、そんな馬鹿なわたしが初めて、自分の手でそういうものを手に入れられた気がしたから」
ミアはまっすぐとカルアを見た。
「クリシェ様や隊長やみんな……カルアと出会えて本当に良かったと思うの。単なる偶然の巡り合わせで入った場所だけど、すごく大切なの。だからこれからも、あの場所でみんなと一緒にやっていきたいと思って……だからこうして意地を張ってるの」
そして前に進み、カルアに近づく。
「いつか言ったでしょ。わたしはクリシェ様と……カルアのために剣を振るって。カルアはどう思ったかは知らないけど、でも、わたしは本気でそう思ったの。そういう自分になれたらいいなって、本気で思えたの」
カルアもまたミアの目を見返し、それから目を逸らした。
ミアは更に前へと進む。
カルアの側まで。
「それをカルアが迷惑だって思うなら、好きにしていい。……これで負けたら諦める」
ミアはそう言った。
カルアの前にある彼女は隙だらけで無抵抗――勝つことは容易で、赤子の手を捻るより簡単で。
けれど何より難しい。
「……やっぱり、なんだか卑怯だ」
カルアは答えず、肩を落とし。
「カルアは誰より優しいって知ってるもん。……相手のことをちゃんと理解して、相手の弱いところを突くのが戦術の基本だって、わたしはそう教えてもらったよ」
ミアは言って、カルアの胸の中心――心臓に直剣を突きつけた。
そして子供のように、満面の笑みを浮かべる。
「これで、わたしの勝ち。ほら、言うとおりだったでしょ?」
「……はいはい、ミア様の勝ちですよ」
諦めたようにカルアは曲剣を外套で拭って鞘へ。
ミアは嬉しそうにカルアに抱きつき、疲れたようにしながら笑う。
「ごめんね。……カルアのそういうとこ大好き」
「なんだかなぁ、もう」
呆れたようにカルアもため息をついて、ミアの頬を引っ張り。
それでもミアは嬉しそうに笑って、バゼルの方へ向き直る。
「……バゼルのことが嫌いなわけじゃないよ。嬉しかったのは本当で……でもわたしは今、やりたいことあるんだ。だから――」
「謝らなくていい、惨めになるから」
バゼルはそのまま尻餅をついて、カルアと同じく肩を落としてため息をつく。
「村を出る前なら、チャンスはあったか?」
「……そうかも」
「……そうか。それだけ聞ければ、俺はいい」
そう言って目を閉じ、立ち上がる。
未練を残さぬようにか、笑って告げた。
「教訓にしておくよ。次からは最初から、真正面から行くことにする」
「んー……いや、いきなりすぎて正直すごくびっくりしたし、普通はもうちょっと段階を踏んだ方がいいんじゃないかとわたしは思うけど……」
「……お前な」
呆れたようにバゼルは頭を掻き、カルアを見た。
「……ミアを頼みます。戦ってもミアの足元にすら及ばないだろう俺が、こうやってミアの心配するのも馬鹿みたいな話ですけど……やっぱり言っておきたくて」
「うん、わかった。……ふふ、バゼル君はいい男だね」
くすくすと笑って、ミアの頭を叩いた。
「バゼル君ならミアじゃなくても、きっといい子が見つかると思うよ」
「はは……村には同年代がもうほとんど残ってないんですよね」
「あー……そりゃ残念」
「はぁ、街行きの馬車護衛にでも混ぜてもらおうか」
カルアは苦笑し、バゼルも笑う。
それからバゼルは空を見上げ、一つ頷く。
「それじゃあ、また。出発は明後日の朝だな?」
「うん」
「見送りに行くよ」
バゼルはそう言って、背を向け歩いて行く。
カルアは呆れたようにミアを見た。
「……もったいないなぁ。いい男なのに。もう二度とチャンスがないかも」
「うるさい。……カルアだって、わたしがいなくなったら寂しい癖に」
「んー……そだね。まぁ、否定はしないよ。寂しい」
「そ、そう……」
「……自分で言っておいて何照れてるの」
「う、うるさいっ」
顔を赤くしたミアの頭を、軽く叩いて手を差し出す。
「帰ろっか」
「……うん」
その手を取って、ミアは微笑み。
カルアは今日何度目かのため息をついた。
「ミルナさんへの説明はミアがしなよ。あたしはパス」
「なんで!? 一緒に説得してよっ」
「さっきの調子なら大丈夫。……あたしは疲れたし、部外者だし」
「そういうとこだけ急に部外者になるのはずるい!」
「ずるいのはどっちだか……」
そうして二人は歩いて行く。
三日月に輝く夜の道。
灰色の森の中、その先だけが輝いて見えた。
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