第121話 水面に浮かぶ月
村の広場からは雪が軽く取り除かれ、夜にも関わらず篝火で明るく照らされる。
そこでは笛と太鼓の音が鳴り響き、空から降る雪は篝火に輝き煌めいた。
「はい、どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう」
村の女衆に混ざって食事を配るクリシェ。
受け取る男はなんともいいがたい様子であったが、素直にパイを受け取り礼を述べる。
そもそもがクリシェのための宴であるのだが、女達もお手伝いがしたいと告げる彼女がそうすることに大した疑問も持たなかった。
村の宴や祭では村の女がそうして食事を作って配る。
クリシェはそういう時にはいつも母親のグレイスやガーラと過ごしていたため、黙って座っているよりはそうして働いている方が彼女にとっても落ち着くものがあった。
それにクリシェの興味はいつだって食事。
そうして食事を配りつつ色々食事をつまめれば満足で、催しが始まる前からクリシェは十分に宴を満喫していた。
ベリーもそんな彼女に苦笑しつつ、当然のように女達の手伝いを。
そしてクリシェ達が働くとなればキリク達もその手伝いをはじめ、いつまで経っても余興すら始められず、流石に宴が混沌とし始め。
ペルが声を掛けたことで、ようやく彼女は用意された席へと座ることになった。
一応主賓席という扱いだが、椅子とテーブルが置かれているだけの簡素なもの。
クリシェが当然のようにベリーの膝に乗ると、ベリーは少し困ったように微笑みつつ、周囲の様子を見て問題ないだろうとそのままにした。
ペルは呆れたように嘆息する。
「クリシェねーちゃんは色々相変わらずだよな……。やりたいほうだいっていうかなんというか、今日はクリシェねーちゃんが主役だっていうのに」
「主役って言われても、何をしろとも言われてないですし……」
「結婚式とかああいうのなら、主役は女でも働かずに座ってるだろ。座るのが仕事なんだよ。……はぁ、おばさん達もなんにも言わないしさ」
「はは、いや、みんなクリシェちゃんと一緒に働くのも久しぶりでねぇ……つい」
ガーラが苦笑し、クリシェは小さな果実を手に取りペルの開いた口に押しつける。
ペルは顔を真っ赤にしつつ、大きく後ずさった。
「な、何するんだよ……!?」
「そうやって細かいことでぷりぷり怒っちゃ駄目ですよ。お祭りや宴はみんな楽しく、というのが決まりです」
「あ、あのな……」
「まだ駄目みたいですね。怒ったり泣いたりしてる時のペルは確か、果物を食べさせておくと大人しくなったはずなのですが……」
「……いつの話をしてるんだよ」
クリシェを抱いたベリーがくすくすと楽しげに笑い、ペルはますます顔を赤らめた。
それをめざとく見つけるのがクリシェである。
「むぅ……駄目って言ってるのに、またベリーを見ましたね。これはもうペルのお母さんに言いつけて、お尻を叩いてもらわないと駄目かも知れません」
「や、やめてくれよ! もうそんな歳じゃねぇ!」
「クリシェの二つ下ですね。……思えば二年前のクリシェはまだまだお子様でしたから、やはりペルはお子様です」
「今もお子様なクリシェねーちゃんより絶対マシだ!」
ガーラがその様子に腹を抱え、見ていた女達も噴き出した。
ベリーも笑いながら、駄目ですよ、とクリシェの体を軽く抱く。
「もう、目の毒だなんだというのはお忘れてくださいませ。わたしまで恥ずかしくなってしまいますから。キリク様のご冗談ですよ」
「冗談……でも、実際ペルはベリーを見ているとぽけっとしているような……」
「と、ともかく、その話はやめようぜ……クリシェねーちゃんは大体極端なんだよ。ほら、村長が出てきたぞ」
主賓のクリシェが席に着かずどうしたものかと考えていた村長が、この機を逃さず軽い挨拶。村から出た英雄としてクリシェとガーレンのことを扱い、そんな彼女の帰郷を何より喜び歓迎したい、とこの宴の主旨を皆に伝える。
クリシェが村を出た事情などには触れず、内容としては当たり障りのないもので、言葉の端々に気遣いが見て取れた。
それを終えると笛の調子が変わり、弓を持った狩人達が前に出る。
彼等は整列すると森へ向かって弓を構え、加速する音楽と共に弦を引き絞っていく。
森への感謝を示す射儀だった。
森の恵みを宴のため贅沢に用いることの許しを乞い、これからも変わらぬ恵みを与えてもらえるよう、祈りを捧げて矢を放つ。
太鼓の音と共に一斉に弦が音を立て、矢が雪の積もる森の中へと消えていくと、再び笛の調子が変わっていく。
それが始まりの合図で、次いで始まるのは余興の大会であった。
村の腕自慢が集まって、様々な種目で村一番の男を決める。
腕力を比べる酒樽上げや、走ってゴールの旗を取り合う旗取り競争、弓の腕を競う的当てなどいくつかの種目に別れていた。
的当ては特に、村での地位が高い狩人達の戦いだけあって盛り上がるのだが、無敗の王者ガーレンが消えたことで皆以前より更に熱が入っているように見える。
それと盛り上がりで並ぶのはやはり剣術比べ。
見た目の派手さがあり、勝敗が明確なこともあって、こちらもやはり人気が高い。
子供でなければどんな立場の男でも参加ができるというのも大きいのだろう。
「おし、見ててくれよ。俺は今年から参加させてもらえるんだ」
「気を付けないとダメですよ。ペルはよく怪我しますから」
村の男達に無理矢理誘われ、黒旗特務の代表として隻眼の第十九班長キリクも入り。
およそ二十人が剣術比べに参加する。
ペルは一戦目を辛うじて勝利するが、二戦目で優勝候補に打ち負かされた。
ただその優勝候補もその次の試合で呆気なくキリクに倒され、最終的に剣術比べは部外者の優勝という何とも言えない空気が場に漂う。
隊商護衛をやっていたキリクの剣腕は元々黒旗特務でもカルアに次ぐ。
村の腕自慢程度では相手にならないのだが、とはいえクリシェがいる以上手を抜くわけにも行かず、生じた結果は悲劇であった。
場の空気をなんとかしようと考えた末、彼が声を掛けたのはクリシェ。
勝者の褒美として久々にお手合わせを、と彼女を指名したのだ。
クリシェが村を出た事情を知らないキリクは、彼女の剣技を見れば大いに場も盛り上がるだろうと考えたのだが、逆効果。
その提案で場には更に気まずい空気が漂ったものの、空気の読めないクリシェである。
部下へのご褒美と言うことで、特に気にせず前に出た。
賊を斬り殺したクリシェの剣。
忘れたものはおらず、一瞬微妙な空気が漂ったものの、とはいえ始まってみれば宴は随分な盛り上がり。
踊るようなクリシェの剣技は、こうした場で披露してみせればまさしく剣舞と言うべきもので、恐ろしい以上に美しい。
クリシェからすれば兵に訓練をつけてやるようなもの。
勝負を決めるでもなく、悪いところを指摘しつつ誘うように剣を振らせ。
二人の戦いは中々に見応えがある余興になっていた。
圧倒的な力を見せつけたキリクであったものの、クリシェに対しては赤子のようなもの。
必死に追いすがるがその剣はクリシェを捉えることなく空を切る。
とはいえ、その剣が奏でる音と威力は凄まじく、躱されていても迫力があった。
息を飲んで見守る村人達――ベリーは心配そうにクリシェを見つめるガーラに苦笑しながら、その戦いを席から眺める。
クリシェにはあのボーガンですらすぐに相手にならなくなった。
それを知っている彼女には特に心配もなく、安心して見守ることが出来る。
「いやぁ、あたしも本当は大丈夫だって思ってるんだけど、どうにもねぇ」
「ふふ、最初の頃はわたしも心配してはいたのですが、慣れました。……戦場に出るとなると、流石に今でも心配なのですが」
ガーラはじっとベリーを見て頷き、心配そうに告げる。
「本当は剣なんか振らず、普通に過ごしていてくれたら何よりなんだけれど……そう言うわけにもいかないんだろうね」
「……そうですね。クリシェ様は……お強いですから」
ベリーは頷き、答えた。
屋敷の掃除や果樹園の手入れ。そうして日々を穏やかに過ごす。
クリシェはそうした生活を望むにはあまりに強すぎた。
ボーガンやセレネが命がけで戦うような相手を呆気なく――クリシェの強さはあまりにも飛び抜けている。
単なる一人の少女として過ごすには、あまりにも過剰な力を持っているのだ。
それは彼女の長所であると共に、不幸でもあった。
「……昔、事故で息子を失ってね」
「事故……?」
「友達と一緒に転落したんだ、猪に追われてね。……夫も亡くした頃だったから、あたしは何のために生きりゃいいのかわからないくらいで……正直、死ぬことも考えた」
ガーラは酒に口づけ、目を伏せる。
「そん時にクリシェちゃんが、うちの家にオーブンがあるからって、パイを焼きに毎日のように来てさ。……最初は勘弁してくれって思ってたんだけれど、そうして過ごしてる内に段々、あの子が顔を出しに来るのを楽しみにするようになってきてね。……いつの間にか可愛くて堪らなくなっちまったんだ」
木彫りのコップの内に映る、水面の輝きを眺め。
苦笑しつつ、ガーラは続けた。
「普通とは違う子だっていうのは普段から知ってたから、最初はどういうつもりなのかって思ってたんだ。単にパイを焼きたかっただけなのかも知れないし、本当に慰めに来てくれてるのかも知れない。……うちの子はあの子のことを嫌ってたし、酷いことも散々言ってたから、もしかしたらあの子が何か関係してるのかも知れないだとか、そういう答えもない問答を一人で何度も繰り返して」
そこまで言うと、ふっと肩の力を抜く。
「でも……美味しいパイが焼けたって嬉しそうに笑ってるあの子の顔を見てたら、そういうことがどうでも良くなってさ。あたしも段々元気になって、一緒にパイを焼くようになって……今生きてるのはあの子とグレイスのおかげなんだ」
「……そうですか」
ベリーは何とも言えず、酒に口付ける。
ガーラも特に返答を求めていないような気がしていた。
ただの思い出語りなのだろう。
「おかしな話さ、最初はクリシェちゃんをグレイスが育てるって言った時、貴族の捨て子かも知れないって誰より反対したのに。……でも、今ではあたしにとって、誰より大切な子になってる。妙なこともあるもんだ」
「ふふ……でも、人生そのようなものではないでしょうか。よく分からないことが積み重なって、段々と掛け替えのないものになったりして」
「は、確かに。……そういうもんなのかもね」
ともかく、とガーラは告げた。
「……あたしはあの子に誰より幸せになって欲しいって思ってる。でも流石にもうこれだけ距離があると、あたしにはお祈りするくらいしか出来ないから困ってたんだ。……だからあの子のこと、ベリーさんに頼んでもいいかい?」
「……はい、必ず」
ベリーは頷く。
そのために生きると既に誓っている彼女にとって、そう答えることに迷いも躊躇も無い。
ガーラはその答えを聞いて満足げに微笑んだ。
「はは、あんたなら安心だ。もしクリシェちゃんが結婚するならその相手をぶん殴ってやろうと思ってたんだが、それも是非お任せしたいね」
「ぶ、ぶん殴る、でしょうか……?」
「ああ、クリシェちゃんみたいな純粋な子を手籠めにしようなんて輩は許せないからね。悪い虫がつかないか心配だったんだ、頼んだよ!」
「わっ」
ぱん、と背中を叩かれ、ベリーは困った顔ではい、と答える。
一番の悪い虫は誰かと考えれば、ベリーには誰より思い当たる存在があった。
頬を染め、肝に銘じますと彼女は答えた。
「とは言っても、それで幸せになってくれりゃあ言うことはないんだが。……少なくとも、グレイスはあの子にそういう幸せを手にして欲しかったんだと思う」
ガーラは懐かしむように、コップの縁をなぞった。
弧を描き、なぞるように。
「あの子に名前のことは聞いたかい?」
「欠けて弧を描く月……でしたね。素敵な名前です」
「ああ、色々な意味に取れる良い名だ。まぁ、グレイスはそんなに深く考えてつけた訳じゃないけどね。単純な子だから」
「……単純、ですか?」
篝火に反射し、酒杯の水面が三日月を描いた。
ガーラは笑って頷く。
「単純さ。なんでも、自分が――」
「戻りましたっ」
いつの間にか手合わせが終わっていたらしい。
膝に飛び乗られるとベリーは驚きつつ、苦笑しながら彼女が落ちないように抱きしめる。
「お帰りなさいませ、クリシェ様」
「ただいまです。なんの話をしてたんですか?」
「ああ……昔の思い出話さ。喉渇いたろう、ジュースがいいかい?」
「はい、ありがとうございます」
クリシェが頷くと、ガーラはジュースを注ぎながら言った。
「おばさんがすっごくクリシェちゃんに感謝してるって話だよ。だからクリシェちゃんをよろしく頼むってベリーさんにお願いしてたんだ」
「感謝……」
クリシェはうーんと考え込み、微笑む。
「えへへ、クリシェも沢山おばさんに感謝してますよ。オーブンの使い方教えてもらったり、パイの作り方教えてもらったり……おばさんはいっつも良くしてくれましたから」
「はは、そうかい。そりゃ嬉しいねぇ」
クリシェは頭を撫でられ、嬉しそうに目を細め。
「はい、だからなんでも言ってくださいね。クリシェもおばさんのこと大好きですから、沢山お礼をしたいなって思ってて……だからおばさんが喜ぶこといっぱいしてあげたいなって……」
そして、言いかけた途中で言葉が止まる。
何かを考え込み、じっとガーラを見つめ、ベリーを見た。
「どうかしたかい?」
「……?」
ベリーも首を傾げてクリシェを見ていた。
クリシェは首を振って目を伏せ、ジュースに口づけ、ガーラは苦笑する。
「そろそろクリシェちゃんは眠たくなってきたんじゃないのかい? あれだけ動き回って、昔っからよく寝る子だったからねぇ」
「確かに……今朝は早かったですから。お休みになりますか?」
クリシェは迷うようにしながら頷き。
ベリーはガーラと笑いあい、そのままクリシェを抱き上げる。
「見掛けによらず随分と力持ちだねぇ。大丈夫かい?」
「はい、慣れてますから。さ、クリシェ様、行きましょうか」
「……はい」
クリシェは少し静かな声で頷き、ベリーに顔を押しつけた。
翌日は朝から仕度をして雪積もる森の中へ墓参りだった。
昨晩は眠るまで少し様子のおかしかったクリシェであるが、今朝は普段通り。
ベリーはそのことに安堵しつつ、着替えを済ませてガーラを待ち。
朝焼けが落ち着いた頃ガーラは家にやってきた。
整然と並ぶ街の墓地とは違い、村では森にある木が墓の代わりとなる。
焼いた骨と灰を思い思いの木の下に埋め、枝に名前を記した木札を一枚。
それを掛ける紐が自然に朽ちて、木札が落ちた時、死人は新たな形へと生まれ変わるのだといわれていた。
森と密接な関係にある彼等には、血を尊ぶ王国の拝血信仰とは別、古来から伝わる土着の信仰がある。
花が咲き、実りが生まれて種が落ち――村ではそうした循環の中で人も生きているとされ、死は単なる死ではなく、新たな生の始まりでもあった。
狩猟で命を落とすものも多いこともあって、その慰めとして生まれたものなのだろう。
ベリーは珍しい墓の形に驚きつつ、その木に向かって頭を下げた。
ゴルカ、グレイス。
そこに掛けられ、同じ紐に結ばれた二つの木札には名前が記され、それに続いて何かが書かれている。
王国で使われている西部共通語ではなくここに古くから伝わる文字のようで、ベリーには読めないものだった。
「次に生まれた時も夫婦になれるよう、なんて意味合いの言葉を書いてもらったんだ。二人はすごく仲が良かったからね」
「なるほど……」
「次なる生でも同じ縁が結ばれんことを、って書かれているみたいですね」
ガーラが少し驚いたようにクリシェを見る。
「ご当主様の持っていた本に、この辺りで使われる古語についてのものがありましたから」
「はぁ……そりゃすごいもんだ。クリシェちゃんが村にいたら祭司になってたかもしれないね、言葉を覚えるのが随分大変だって話だけれど」
「ん……結構同じような意味合いの言葉が多いので、クリシェもちゃんと理解出来てるかは怪しいのですが……」
「いやいや、それだけ読めりゃ上等さ。昔から頭が良かったからねぇ」
ガーラは木札に近づき紐を見た。
紐は少し劣化していて、既にほつれもある。
紐はその死に方によって編まれ方が違う。
老衰や幼い子を持つ親の死であれば、長く村に留まり子らの成長を見守ってもらえるようにとしっかりとした縄のような紐が。
不幸な死の場合は早く旅立てるようにとあえて細めの紐が編まれる。
そういう意味で二人の紐選びは少し難しいところであった。
二人の紐であれば太いものが良いと感じていたが、このように少し細い紐となったのはクリシェが一人でも平気だと言ったためだ。
その時はどうかと考えたものだが、しかし今のクリシェを眺めれば、ガーラはこれでいいと、そう思える。
死人への未練から太い紐をと願うものはいるが、どうあっても失われたものが帰ってくるわけではない。
むしろ早く紐が切れ、死人が旅立つことを願う方が形は良いとされていた。
「……かあさまたちは本当にここにいるのでしょうか? 生まれ変わりというものがあまり、クリシェには信じられないのですけれど」
「さてね、それは誰にもわからないさ。でも、いると思えばいるのかもしれないし、いないと思えばいないのかもしれない」
ガーラは言って木を見上げる。
「でも今だけは、こうしてそこからクリシェちゃんを見てくれているんじゃないかっておばさんは思うよ。本当がどうであれ、そうであって欲しいと思うし、そうであれば嬉しい。……人には魂なんてものがあると言うが、グレイスとゴルカのそれがきちんとクリシェちゃんを見守ってくれているってね」
ガーラは微笑み、クリシェの頭を撫でた。
「わからないことは自分にとって一番幸せになる解釈をするもんだ。正しいかどうかじゃなく、どうであれば良いかってね。信仰って言うのはそういうもんだとおばさんは思うよ」
「……そうですか。でも、体がないのにずっとここにぶら下がっているのは大変ですから、クリシェは早くかあさま達に旅に出て幸せになって欲しいです」
「ははは、それもまぁ確かに。クリシェちゃんがそういうなら、グレイスもゴルカも安心するだろうさ」
クリシェは木に頭を下げ、ガーラは楽しげに笑う。
ベリーはそんなクリシェに苦笑して、もう一度木に頭を下げた。
言葉に出来ない感謝の念が沢山あって、本当に今もここで二人がクリシェのことを見守ってくれていれば良いと思う。
しばらくそうして顔を上げると、さて、とガーラが言った。
「すまないけれど、あたしの方も済ませておいていいかい?」
「はい、すぐ近くでしたね」
「ああ、そっちの木だね。ええと……」
雪を踏み固めながらガーラが進み、クリシェは不慣れなベリーの手を引く。
言ったとおりガーラの目的とする木はすぐ近くにあった。
ただ――
「……木札が」
ガーラがそれを見て立ち止まり、呆然と木を眺めた。
その木には既に札がなく、劣化し巻き付いた紐だけが残されている。
少しの間目を閉じ、しゃがみこみ。
ガーラは雪を手で掻いてその下を探って、凍り付いた木札を手にする。
「……夏にはぶら下がってたんだけれど、そうか。先日の嵐かねぇ」
「それは、その……」
「ああ、息子のだ。事故で死んだって言ってた」
ガーラはしばらく木札を眺め、そこに書かれた名前を愛おしげになぞる。
クリシェはそんなガーラをじっと見つめ、ふとベリーを見上げた。
ベリーが首を傾げるとクリシェは首を振って、また視線をガーラに。
「馬鹿でわがままで喧嘩っ早くて……まぁよく出来た子ってわけじゃなかったが、やっぱり寂しいもんがあるね。なんだかんだで、可愛い一人息子だったから」
ベリーはなんと声をかけるべきかを迷い、掛けるべき言葉も思いつかず。
そんなベリーに苦笑してガーラは大丈夫、と言った。
「……まぁ、そろそろかと思ってはいたんだ。何年も前のことだし、心の整理もついてる。こうして旅立ったのなら何より、笑って見送ってやんなくちゃね」
ベリーは頷くと、ガーラが持つ木札に頭を下げる。
クリシェはその様子をじっと見つめながらガーラに尋ねた。
「……埋めますか?」
「ああ、そうしよう。手伝ってもらっていいかい?」
「はい、えと……スコップ持って来ます」
クリシェは走って家に向かい、すぐにスコップを一本持ってくる。
木の下の雪を広く?き分け、凍り付いた土へスコップを突き立て、何度かそうして小さな穴を作ると何も言わずに一歩下がった。
ガーラはしばらく木札を眺めて胸に抱き、目元を何度か拭う。
それから木に残った紐の切れ端を丁寧に解くと木札とまとめ、クリシェの掘った穴に、ゆっくりと名残惜しむように置いた。
「次はちゃんと、親を悲しませないよう長生きしておくれ」
そう言ってクリシェに頷くと、クリシェはスコップで土を戻し、軽く慣らして雪で覆う。
ガーラは再び頭を下げ、ベリーも倣い。
クリシェだけがしばらく、そうして頭を下げるガーラを眺めていた。
明日の出発もあり、クリシェとベリーには一応やることがある。
また後で、ということでガーラとは別れ、帰り道の食材を買うための手続きを行なう。
クリシェは墓参りから少し何か言いたげな様子で、何かを迷うようなそぶりであった。
どうしましたかと尋ねれば、迷うように首を振るだけ。
ガーラが手入れしていたというクリシェの家へと入り、紅茶を淹れて一息をついた頃だろう。
紅茶に浮かぶ自分の顔を眺め、クリシェが静かに口を開いた。
「……ベリー」
「はい」
ベリーはいつものように微笑んだ。
なんとなく、うっすらと。
クリシェがどういうことについて話そうとしているのか察しがついていた。
昨晩ガーラから聞いた話だけならそう思わなかっただろう。
けれど墓での様子や、紫色の瞳を揺らして少し怯えるような今の様子。
思い出すのは、いつぞやロランドを殺そうとした時の彼女であった。
彼女が村にいた頃、賊を殺したことを知っている。
ロランドを殺そうとした彼女の姿も知っている。
必要であるならば、クリシェは人を殺すことに抵抗がない。
あえて尋ねた事はなかったが、もしかすると村でもそういうことをしたことがあるのかもしれない、くらいには思っていた。
賊殺し――彼女が村で行なった殺人が本当にそれだけであったのかと問われれば、ベリーには分からなかったからだ。
「……おばさんの子供、昔、クリシェが殺したんです」
クリシェという少女が、どのような人間であるのか。
だからそれら全てを含めて考えれば、ベリーにもその言葉は予想がついた。
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