第90話 良い子のクリシェ

翌日は珍しく、二日酔いのセレネをクリシェが起こした朝だった。


クリシェの軍とヴェルライヒ軍は縦列を組み、南下。

キールザランをひとまずの拠点とし、ここから両軍は行動することになる。

セレネは麾下の軍団を率い、後方の安定化を図ってミツクロネティアに残る。

相手の出方によってクリシェ達の援軍、後詰めとして動く形になるが、一旦クリシェ達とは離れる形であった。


クリシェはノーザンと共に王都へ。

そしてその戦いが今回の内乱、最終的な決着となる。

今後の動きはそのようなものであったが、それはその少し前のこと。


「……それで、なんの用ですかハゲワシ。クリシェはハゲワシを後方に送るよう命じているはずです」

「此度の行動――同行を願いに参りました」


天幕にはクリシェとセレネ、そしてアーネ。

ミアとカルアの第一班にコリンツ、タゲルの二人の兵長。

彼の世話を行なっていたビルザ第十七班があった。


そして両腕を組み不機嫌そうな顔を浮かべるクリシェの前にいるのは、片膝をつき頭を下げる黒の百人隊長――ダグラ。


「……ビルザ、クリシェはあなたにハゲワシを任せたはずです。クリシェはそのように命令しました。それが履行されていないとなれば、これは命令違反に当たります」

「お待ちください。命令したのは私です、クリシェ様。上官として、ビルザには私がここに連れてくるよう――」

「クリシェは命令を撤回したつもりがありません。通常別の指示、もしくは危急なる問題が発生しない限り優先されるのは上位者であるクリシェの命令。班長にはその辺りの教育をしっかりと行なわせたはずです」


ハゲワシは黙っていてください、とビルザを睨む。

ビルザは生きた心地がしなかったが、唾を飲み込み、目を逸らさずにクリシェを見る。


「……は。命令は確かに理解し、基本的な原則を承知しております。しかし私はダグラ隊長が戦闘指揮可能な状態にあると判断し、その上で後方送致を自己判断で不当と見なし、新たな判断を求めここまでダグラ隊長を送り届けました。その判断、責任は第十七班班長である私のものです」


細身の青年ビルザは努めて声が震えないよう注意しながら、敬礼する。

真っ先にクリシェの下へ訪れたがるダグラを説得し、ビルザ達はクリシェの下を訪れる前に黒の百人隊の所を訪れ二人に同行してもらうよう協力を願った。

そこで彼等と共に軽い『クリシェ説得論法会議』を行い、心のまま正直に話すべきだとするダグラを置き去りに、彼等は複数の状況に対応出来るよう案を練った。

その結果、クリシェに対し感情的に訴え理解を求めるのはまずい、という結論に彼等は達している。


クリシェが本質的に優しく、幼い少女であるということは皆の知るところにあったが、軍組織の規則というものに強く拘る一面もまた彼等のよく知るところ。

こうなることは半ば予測出来ており、であれば彼女に答えるべきは『命令に違反したとも言えないなんとも曖昧な答弁』である。


軍に規則は多くあるが、全てが全て明確に決まっているわけではなく、あやふやな部分も多い。

――与えられた状況の変化により新たな判断を求め、ダグラをクリシェの所に連れてきた。

こういう論調であれば、クリシェも怒るに怒れない。

命令を反故にしたのではない。

クリシェの命令は怪我を負ったダグラを戦闘継続不能と見なしての後方送致。

しかし蓋を開けてみれば回復は早く、これほど快調に向かうのであれば前提となる戦闘継続不能という判断が誤りであったと見なすことも出来、これは新たな判断を仰ぐべきである――というビルザの何とも言えない言い訳は、クリシェが最も判断を苦手とするものであった。

明確に決められたことに対してはそれを遵守し、厳しく当たるクリシェであるが、良いとも悪いとも言えない判断に関してはよく固まることが多い。

カルアなどはそれをよく悪用し、クリシェの怒りの矛先からするりするりとよく逃げだしている。


これならばどうか――彼等は緊張のあまり嫌な汗を掻いていたが、少なくとも彼等は正解を引いたらしい。

クリシェは言葉を吟味するように机に腰掛け、顎に手を当てぱたぱたと足を揺らす。

不作法な姿であったが、何かに集中しているとき彼女が時折見せる癖のようなものだった。

そういう場合、彼女は周囲の視線を気にしなくなる。

両足をぱたぱたと揺らしながら不満げに唇を尖らせる様は子供のそれで、ミアは困ったように、カルアとセレネは呆れたようにクリシェを見つめた。


「ハゲワシ、お腹」

「は……?」

「お腹見せてください」

「……は」


ダグラは立ち上がるとシャツを捲り、傷痕の辺りを示す。

鍛えられた腹筋に巻き付けられた包帯は幾重にも重なり、真新しい。

クリシェは眉を顰め、


「っ!?」


――引き抜かれた曲剣が正確にその包帯だけを切っ先で裂いた。


誰もが一瞬反応を遅らせ、カルアだけが感心したようにおぉ、と声を上げる。

包帯が力を失うように垂れていき、縫われた脇腹の傷が目に映った。

未だ治りきったとは言えない傷口。

クリシェは唇を尖らせる。


あれほど深い刺し傷。

完治までは一ヶ月は掛かるだろうとクリシェは見ていた。

まだあれから一週間も経っていない。

もしかすると治療が随分上手くいったのかとも思ったが、やはりその様子を見るに完治したとは思えなかった。

内臓の傷を圧迫止血しただけなのだ、クリシェは。


「これが戦闘指揮可能な状態ですか? ビルザ」

「は、は……いえ、その」

「――クリシェ様!」


ダグラが声を張り上げ、再び膝をついた。


「確かに完治したとは言えません。痛みもまだある。ですが、剣を取り戦える状態にあり、指揮能力に影響を及ぼすものではないと断言します」

「……そういう問題ではなくてですね」

「次なる戦は王国の命運を決する一戦。なればこそ多少の痛みなど……それほど重要な一戦にクリシェ様を補佐するものとして側で支えることすら出来ず、ベッドで休んでいることなどできません。一生の後悔となるでしょう。信用できぬというのであれば、一兵卒、単なる従兵としての立場でも構いません。……どうか、同行をお許しください」


その言葉にクリシェはうぅ、と言葉を考えるように足をぱたぱたと振る。

それを見ていたアーネは何かの英雄譚のようだと感動しつつそれを見守り、セレネは何も言わず静観していた。

ダグラがここまでクリシェに忠誠を誓っていることは姉として何より嬉しく思っていたし、クリシェがその実、大して怒っていないことには気付いている。

クリシェがこうした不作法な態度で考え込むとき、そこにあるのは怒りと言うより不満であり、大抵何かで困っているときだった。


そしてこの状況を見ればそれがどうしてかを察することは出来る。

クリシェは自分に好意を向ける相手に対しては、どこまでも優しいのだ。

その上でクリシェが判断するべき事――であれば口を挟むこともない。


ミアとカルアも概ね、セレネと同じ立ち位置であった。

ダグラがクリシェのお気に入りであることを知っているし、確かに命令違反に近い行動ではあるが彼女がダグラに酷い態度を取るとは欠片も思ってはいない。

ミアは心配そうにダグラを見ながらどうするのだろうかとクリシェを見て、カルアは唇を尖らせたクリシェの困り顔を眺め苦笑する。


しばらく考え込んだ後、クリシェはダグラの傷口に目をやり、彼に答えた。


「だめです」

「しかし――」

「どうか、私達からもお願いします。隊長の同行をお許しください」


コリンツとタゲル――兵長二人がダグラに並んで膝をついては頭を下げ、その後ろにいたビルザ達もそれに倣う。

クリシェはうぅ、とまた唸った後嘆息して、告げる。


「えーと、そのですね……まず、信用出来る、出来ないという話ではありません」


ダグラに指先を向けた。


「ハゲワシは優秀なクリシェの百人隊長です。だからこそ、ハゲワシには今後もクリシェの下でこれまで通り、クリシェが必要なときに長い間頑張ってもらわなきゃいけないんです。えーと、そうですね、歳を取って剣も握れなくなるような、そういう長い間、です」


クリシェは机を降りるとしゃがみ込み、ダグラの頭に手を乗せた。

驚いたようにダグラは顔を上げ、クリシェを見る。


「内乱の後、王国は不安定になります。一回の戦じゃなくて、何回も戦があるかもしれません。その間中ずっと、ハゲワシはクリシェの下で戦ってもらわなきゃいけません。クリシェは元気なハゲワシにあれやこれやと命令をしますから、ハゲワシにはその時に頑張ってほしいのです」

「……クリシェ様」

「でも、次の一戦に参加したことで傷が悪化して、そのまま死んだりして。そうしたらクリシェはハゲワシを失うどころか、ハゲワシが中途半端に育てたミアをこれからずっと育てていかなきゃいけません。これはどうしようもない職務放棄です」


う、とミアが何とも言えない表情で唸り、カルアが楽しげに笑う。

アーネは昨日のお祭り騒ぎから謎のシンパシーを感じているミアを眺め、一人仲間が出来たような気持ちになっていた。


「軍人は場合により、上官の命令で死ななければなりません。……でもハゲワシはクリシェ直轄の部下なんですから、勝手に無理をして死んでいいのはクリシェがもう死んでいいと命令した時だけです」


真面目な顔でそういって、指先を突きつける。


「それまで健康に気を使って、ちゃんと長生きするのは守るべきハゲワシの責務です。命令ですからね」


そんなクリシェの言葉。

それを告げる彼女を見ていたダグラは言葉を失い、込み上げる何かをその紫の瞳から隠すように顔を伏せ、手を当てた。


「理解しましたか?」


ダグラは答えず、答えられず。

少しの間静寂を作り、ゆっくりと口を開いた。


「……は。この身が戦場で朽ち果てるまで。……それまでクリシェ様のお側に付き従うこと――この名に誓い、申し上げます」


顔を上げぬまま、立ち上がらぬまま。

心の臓に手を当てる敬礼を見せ、ダグラは告げる。

クリシェは話を聞いてなかったんですか、と頬を膨らませる。


「だから、勝手に朽ち果ててもらっては困ります。ハゲワシがよぼよぼのお爺ちゃんになって役立たずになったらクリシェが軍から追い出しますから、死ぬのはその後にして下さい。ガイコツは百に近い歳なのに現役なんですから、ハゲワシもせめてそれくらいは頑張るんですよ」

「は。……肝に銘じておきます」


セレネはクリシェの言葉に満足そうに微笑み、静かに紅茶へ口付けた。

周囲の者達はクリシェの言葉の意味を見て取り喜び、アーネなどはその美しい主従関係が築かれるワンシーンを見ただけで感涙であった。

一人だけ完全な部外者であるはずの彼女であるが感極まったのか、よかったよかったと目元をハンカチで拭っている。


「えっへへぇ、うさちゃんはいい子だねぇ」

「え? と……」


カルアは抱きつき、クリシェの頭を撫でた。

困惑し、やや迷惑そうに、しかしクリシェは少し嬉しそうにカルアを睨み――静かに紅茶を飲んでいたセレネは一瞬固まり、二人を見つめる。

昨日のお祭り騒ぎから気付いていたが、随分とカルアはクリシェを気に掛け、クリシェもカルアに随分懐いている様子である。


クリシェに『はい、あーん』などと衆目のある中平然とやってのける様子を見るに、彼女は押しが強く、他人の目を気にしないタイプなのだろう。

クリシェから聞いたところによると、セレネのいない野営中はミアという副官と共に添い寝までしていたらしい。

吹っ切れたベリーに続いて、セレネの目の届かないところに現れた怪しい存在。

セレネは何やら落ち着かない。

先んじて褒めてやれば――いや、それはセレネの立場が許さなかった。


「ふふ、おねーさんもうさちゃんの部下で良かったよ」

「えへへ、そうですか?」


頬を緩めて嬉しそうに、頭を擦りつけるクリシェ。

どうあれクリシェは上官のはずであったが、カルアは気にした様子がない。

セレネはもやもやとしていた。

何かを言うべきかを考え迷う。

上官に対してその態度は云々などと苦言を口にすると、人付き合いが苦手ながらもこれまで頑張って良い関係を築いてきたクリシェを否定することになりかねない。

クリシェはこれでいいのである。

しかし、しかし。

二人を見つめながら言葉を探していたセレネは、膝をついたままのダグラを見やり、ようやくのことで声を掛ける。


「く、クリシェ、ずっとそのままじゃダグラ達が可哀想よ」

「あ、そうですね。もう頭を下げなくていいですよ」


クリシェはカルアから離れ、困ったようにダグラの肩を叩き立ち上がらせる。

既にその顔に涙はなく、晴れやかな笑みを浮かべていた。


「は」

「ダグラ、椅子に座ってちょうだい。会議の前にファレン軍団長とヴァーカス軍団長のところの話を聞いておきたいわ。多少状況は分かっているんでしょう?」

「畏まりました」

「……クリシェも、ほら」

「はい」


クリシェはとてとてとセレネの隣に座って、椅子を近づけ肩を寄せる。

安心したようにセレネは一息をついた。

セレネの妙な様子に小首を傾げたカルアは、同じくカルアを見たセレネと一瞬目が合う。

しかしバツが悪そうにセレネの目はすぐに逸らされる。

カルアは得心がいったように、ぽん、と手を叩いた。

そして苦笑すると定位置に戻り、横から将軍の幼さ残る横顔を見て微笑んだ。








中央に作られた大天幕には王女派の主だった将軍と軍団長、大隊長が集まっている。

長方形のテーブル、上座に座るはセレネ=クリシュタンド。

彼女から見て左手をクリシェ達クリシュタンド軍の軍団長が並び、その対面にはノーザン=ヴェルライヒとその軍団長達が並ぶ。

ガーレンはセレネの背後で腕を組み、軍団長達の力強い目に満足を覚えていた。


各軍団から二人の大隊長が選出され同席を許されており、彼等は天幕入り口に整列。

いつも通り黒の第一班とアーネが黒豆茶などの用意を行なっていたが、流石に人数が足りないためセレネの側からも五名ほど気の利く兵士を手伝いに回していた。


セレネの背後には王国の全体図が描かれた地図。

そして机には王都周辺を描いた中央の地図が広げられ、そこに小さな駒がいくつか乗せられている。


「――今言ったように、事前にヴェルライヒ将軍を交え会議を行ない、ある程度の方針については固めているわ。ヴァーカス軍団長、ファレン軍団長、問題点は?」

「俺の方にはありませんな」

「概ねそれでよろしいでしょう。剣をヴェルライヒ将軍が、盾をセレネ様が担う。その方針について疑問はありません」


二人は頷きながらも、しかしエルーガは続ける。


「しかし、兵員数にもう少し偏りを持たせても良いのではないでしょうか? セレネ様が2万5000、ヴェルライヒ将軍がクリシェ様も含め3万7000。とはいえ王弟殿下は7万――場合によればそれ以上の兵力を用意していると報告を聞きました。寄せ集め――その練度はともかく、数の利は大きい」


セレネはキールザラン南部から敵の迂回を阻止するべく行動し、ノーザンはクリシェと共に更に南下、主攻として王都を目指す。

ノーザン=ヴェルライヒ、クリシェ=クリシュタンドの能力を考えれば、正面対決で敵を打ち破るのは確実――そう考えられたからだ。


だがいかに優れた能力を持つ将とは言え、数の劣勢が優位をもたらすことはあり得ない。

仮にギルダンスタインが全兵力を持ってぶつかりに来た場合、ヴェルライヒ軍は単独で倍する相手と戦わねばならず、セレネが走るにしろ到着は二日掛かる。

要するに、その状態で二日は持ちこたえねばならないと言うこと。


兵力優勢な敵に勝利する手段は確かにある。

英雄譚では倍する敵を打ち破る英雄の姿が無数に描かれてはいるが、実際それは容易なことではなく、戦における基本的原則は敵に対する数的優位を確保すること。

装備、練度、そうしたものは多少の数の差を覆す手段となるが、よほど力の差がない限り決して倍する敵に打ち勝つ手段とはならない。

そしてギルダンスタインは無能ではなく、どうあれ英雄ボーガン=クリシュタンドを打ち破り、先には東部拡張に多大な貢献を見せた名将。

相手の無能に期待し、倍する敵を相手に挑むなど愚の骨頂であった。


王都周辺は平野であり、策に用いることの出来る地形が少ないことも理由にある。


「クリシェ様に加え、もう一人軍団長をヴェルライヒ将軍の方へ向けるほうが良いと私は思います。決して、ヴェルライヒ将軍の力量を疑うわけではありませんが……」

「ええ、わかっております。ファレン軍団長の懸念は理解ができる。確かに全軍でこちらに来るのであれば問題は大きいが――」

「ガイコツ、クリシェが提案しました」


天幕に響いたのは甘く幼い少女の声。

エルーガはクリシェに目をやる。


「正面対決による決戦――確かに王弟殿下がそれを選択したならば色々と問題がありますけれど、クリシェはいまいち、王弟殿下がそれを選択するとは思えません」

「……さて、それはどういう?」

「戦術的な問題、という訳ではないのですが……王弟殿下とは竜の顎で一度、お会いしました。クリシェは護衛を何人か殺して、けれどクリシェは……その」


クリシェは恥じ入るように崖の上――ギルダンスタインとのやりとりを簡潔に伝えた。


「……結果クリシェは王弟殿下の口車に乗せられて、そのまま見逃してしまいました。だから次あったときは必ず殺すと決めているんです。目の前に出てきたならそれは容易で、そういう状況を作れば――クリシェは必ず王弟殿下を殺します」


冷ややかな声は、静かな天幕に響いて満ちた。

ここに来て彼女の言葉が驕ったものだと、異を唱えるものはなかった。

彼女がそういう存在であると誰もが知っているからだ。


それを仮に疑うものがあっても、ノーザン、コルキス、グランメルド――武勇名高きその三人が彼女の言葉へ一切の疑問を持たないところを見れば、口を挟めるものもいない。


「クリシェに敵わないと一度逃げだした王弟殿下が、クリシェと真っ向から戦いたいとは思えません。勝算がない戦いを挑むような相手には見えませんから。だから、普通に考えれば王弟殿下が狙うのはセレネだと思ったんです」

「……セレネ様を」

「とはいえ、クリシェがセレネの側へ行けば、ヴェルライヒ将軍の下へ全力での決戦を挑む可能性が高い。かといって最初からこちらも決戦の構えで行けば、後方を脅かされる可能性が高い。兵站という意味では側の王都から兵站を繋げることができる王弟殿下が圧倒的な優位ですから」


困ったようにクリシェはその唇を指でなぞる。


「もちろん、根拠はクリシェの想像で……クリシェ、あんまりそういうことを考えるのは上手じゃないですから確実ではないのですが……この形が良いと感じました。本当はガイコツも連れて行って万全という形が良いのですが」


ギルダンスタインが軍を分けるのであれば、共に連携が取れる状態ではなくなってしまう。

クリシェとセレネ、コルキスを残しそちらを少数にする案もあったが、そちらに同数からやや上回る相手を向けられ徹底した遅滞戦闘を行なわれると、ヴェルライヒ側の決着が怪しくなる。

また、逆にセレネ側へ戦力集中が行なわれた場合であっても、ヴェルライヒ軍の支援を受けられぬまま圧倒的に戦力勝る敵へ1万5000程度で挑むのは苦しい。

ギルダンスタインは並々ならぬ武勇の持ち主であり、そして王都を掌握した以上、指揮官に関しても悪くない人材が揃っているのだ。


――対面すれば、相手がどんな勇者であっても必ず殺す。

単なる個人でありながら、敵将の首を一方的に狩り取るクリシェの刃はこの戦略会議の場でも非常に大きなウエイトを占めている。

ヴェルライヒ側が挑まざるを得ない五分の戦いを勝利に傾けるため、クリシェがそちらにあることは必要不可欠な要素であった。


一定の領域を越えた魔力保有者――怪物に対峙するには、それに互する怪物が必要となる。

ノーザンとグランメルド、ヴェルライヒ軍にもギルダンスタインに対処出来る存在はあれど、ギルダンスタインに対し確実な勝利を収められるかと言えば五分の賭け。


クリシェをどちらに配置するかについては議論がなされたが、結果としてセレネの軍を厚くし、ヴェルライヒ軍に同行させるという結論になっていた。


「……なるほど。理解致しました」

「ガイコツにはセレネのところで、セレネをちゃんと支えてあげてほしいです。ガイコツがいればちゃんと、クリシェも安心出来ますから」

「はは……これは責任重大です。しかと」


エルーガは朗らかな――非常に邪悪な笑みで笑いかけ、クリシェもその笑みをにこやかに受け止める。

ガイコツという罵倒の如きネーミング。

謎の信頼関係。

『人嫌いで冷酷な恐ろしき軍団長』で有名なエルーガの邪悪な笑みと、そこに宿る意味合いに誰もが困惑を覚えていた。

とはいえ真面目な会議の席でそのことについて尋ねることなど誰にも出来ない。

誰もがその呼称を気にしながらも、無言で周囲のものと顔を見合わせるのみだった。


先日からクリシェの口から発せられるガイコツという呼称――理知的に、真面目な顔で地図に目を落とす姿勢を崩さぬ将軍ノーザンも同様であった。

クリシェの口からガイコツという言葉が響く度、密かにぴく、と体を反応させている。

非常に気になることではあるのだが、かつての上官であり、恩師でもあるエルーガの前でガイコツとは何かと尋ねられるはずもない。

その上将軍たる己がそのような呼び名一つに好奇心を刺激され、我慢出来ずに尋ねるなどいかにも滑稽――沽券に関わる。

ノーザンの中にあるプライドがそれを許さなかった。


「……しかし、敵にも名だたる武勇の士がある。腕がなりますな。王弟殿下もそうですが、聞いた話では襲撃の折、側には剛腕のナキルス=フェリザー、エルメル=ザインの後継者ウォルター=ザーガンもいたそうではないですか」

「あまり腕比べに拘るなよグランメルド。求めるべきは勝利だ」


楽しげなグランメルドを諌めるようにノーザンが言い、クリシェは聞き覚えのある名前に小首を傾げた。


「ん……ザーガン」

「聞き覚えが? ザイン式剣術の正統後継者です。王国有数の剣豪として名高い。もしかすると王弟殿下と対峙した際、側にいたかも知れませんが……」


グランメルドの言葉に、ああ、と頷き、ぽんと手を叩く。


「王弟殿下の側にいたおじさんもそんな名前で呼ばれてました。邪魔だったのでクリシェ、殺しちゃったのですが」

「…………そうですか」

「わんわんの楽しみを奪ってしまいましたね」


困ったように告げるクリシェに一同は固まる。

ロールカ式と並び、ザイン式を学ぶものも軍には多い。その正統後継者たる剣豪のあっさりとした死に困惑を覚え、そしてグランメルドに対する呼称もそうであった。

一瞬にして空気は凍り付いていた。


「あ、あの、クリシェ……? わんわんって……」


まさかとは思いつつもセレネは尋ねる。

クリシェは嬉しそうに答えた。


「クリシェが考えたヴァーカス軍団長の愛称です。えへへ、笑った顔が犬にそっくりだったので、わんわんって名付けたんですよ」


子供の悪口レベルの発想。

しかし両手を頬に当て赤く染め、上機嫌なクリシェである。

いつもの通り、一人だけ凍り付いた空気にも気付かず彼女は楽しげであった。


とはいえ誰もがグランメルドという男を知る。

元は荒くれ者の賊上がりで、彼を愚弄したもので生きているものはいないとされていた。

――それがわんわん。

彼等は皆一様に驚愕の視線をグランメルドに向けていた。


「……その、ヴァーカス軍団長、嫌なら素直に嫌と言っていいのよ? この子、お馬鹿だからあんまりよくわかってないの……」


クリシェはおばかじゃ――と頬を膨らませるクリシェにセレネは取り合わない。


「……いえ。まぁ、クリシェ様ほどの方につけられたとなれば俺も文句は言えません」


あらゆるものを心の内に封じ込めるような声であった。

自分よりも実力がある相手であり、そして悪意もなく――むしろ純然たる好意である。

その絶望的なネーミングセンスは堪らないものがあったが、流石のグランメルドであってもこの上機嫌なクリシェに水を差すというのは憚られた。


「……クリシェ様に関しては、ですが」


釘を刺すように周囲を一睨みすると、彼を注視していたものたちは目を逸らした。

エルーガだけがにこやかに――ガイコツ染みた邪貌で微笑み頷く。


「何、ヴァーカス軍団長。すぐに慣れるとも」

「……はは、あなたが言うと重みがある」


苦笑し見守っていたガーレンは一つ頷き、懐かしむように言った。


「いやはや、狂犬と呼ばれた男も昔に比べ丸くなったものだ。わしは良いことだと思うところだが」

「……昔から噛みつく相手は弁えているつもりでしたがね」

「はは、そうかね。なんにせよこういう娘だ。良くしてやってくれ」


皺の深い顔に微笑を浮かべ、クリシェの頭を撫でた。

おじいさま、などと嬉しそうなクリシェに頷き、彼は両手を叩く。


「話が逸れた。大まかな動きはこれで良いとして、細かい部分を詰めていかねばなりません。そうでしょう、将軍?」

「え、ええ……そうね。では気を取り直して――」


そうして会議は多少の問題はあれど、つつがなく進む。

ガイコツという密かに気になっていたネーミング。

それがどうして生まれたのかを自分の腹心を通じて知ったノーザンは、何やら一人満足げであった。

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