第79話 希望なき狩り場
――クリシュタンド軍両翼の突出。
彼等の一部はヒルキントス軍中央の弓兵に牙を向け、堪らず中央両翼の弓兵は後退を。
対するクリシュタンド軍中央は弓を撃ちながら前へ――その弓兵の後ろを長槍を構えた歩兵が整然と前進を始めていた。
何より痛いのは大きく押し込まれた右翼。
アウルゴルンは馬上から南――川向こうを睨み、顔を赤黒く染めた。
側面から射撃を受け、その上正面には精強なるグランメルドの手勢である。
速やかに兵力を送り込まねば右翼の崩壊は目に見えていた。
「右翼に増援を回せ! 立て直させろ!!」
「は! 予備はどこから――」
「ここからだ! 左翼に回した予備は動かすな!!」
左翼は速やかな弓兵後退を行ない、配置につきなおしている。
中央は両翼弓兵の後退が予定より多少早くなってしまったが、相手は長槍。
大盾で頭上を守る事のできない彼等の頭から矢を浴びせ続ければいずれ崩壊するはず――いや、違う。奴らは来ない。
アウルゴルンがそう考えたと同時、敵中央、弓兵と長槍歩兵の足が止まる。
先ほどの位置から少し前に出た程度。
そして両翼からの攻撃で数の減ったこちらの弓兵に目掛け、猛烈な射撃を開始。
敵はこちらの中央歩兵、その前衛をも射程に収めていた。
こちらの中央も矢を撃ち返しているが、左右の隊が敵両翼の攻撃によって下がった分、こちらは数を減らしている――中央の射撃戦で押し負けるのは間違いなくこちらであった。
「なるほど……ファレン、やりおるじゃないか」
小物ほど小手先の戦術に囚われるものだが、軍組織の戦闘において重要なのは前進と後退。
戦力の出し入れのタイミング。
単純な運動こそが、結果的に戦場での勝敗を決定的なものへと変えるのだ。
エルーガ=ファレンは敵ながら、それを見事に見極め、軍を操っていた。
――さてどうする。考えろ。
弓兵を再び前に出す?
ありえない。戦力の逐次投入は戒められるべきだ。
射撃戦で一度劣勢となった中央――数を増やした所で劇的な変化は望めない。
下がった弓兵は別の運用を行なう。
こちらの右翼は確実に押し込まれる。
あれだけ見事な突撃を喰らえば当然だ。
どうやって隠していたか。あのような統制取れた射撃を川向こうから受けながら、相手は武名を轟かせるグランメルド。このままでは突破も時間の問題でしかない。
――左翼を押し込むか?
いや、これだけの構え――確実に敵は北の森に兵力を潜ませている。
この状況で力を注げばその背面に食らいつかれる。
こちらの左翼に対する敵右翼がこれから徹底的に身を固め、遅滞を行うのは間違いなかった。
放置していても優勢。手をつけるべきではない。
「中央弓兵を下げろ! 突撃を行なう! 中央前列はこのまま重装歩兵だ、数で押し潰すぞ! 右翼に軽装歩兵を移動させ、下げた弓兵も半分は右翼だ!」
「は! 伝令!!」
――中央を推進させるのだ。アウルゴルンは断じた。
右翼は増援を当て、その上で実力ある軽装歩兵をグランメルドにぶつけ、その上で崩れた弓兵の代わりに中央からの弓兵を差し向ける。
グランメルド率いる敵左翼はその突破力、横からの弓兵が厄介ではあるが、それだけ。
これ以上の兵力増加はなく、突破さえくじいてしまえばそのまま始末が出来る。
「突撃は鏃――中央を重視。真正面から抜く!」
平押しの突撃では脇腹を右翼に食い破られる。
鏃の形に中央を一点突破。
そうすれば敵は両翼にそれぞれ半包囲を受ける形。
中央はそのまま数で押し切れると判断し――そしてそれがアウルゴルンの誤断であった。
いや、その状況であれば選んだものに間違いはない。
戦場の混乱にあって、その頭脳は冴え渡っていた。
命令の通り、滞りなく中央の兵士達は前進する。
兵士達は強行軍の果て疲弊しきっていたが、それでも自らの責務を忠実にこなす。
そのほとんどがこれまで西の国境を守ってきた兵士達――質は決して低いものではない。
先頭を進む重装歩兵達も、こちらを待ち構える長槍への突撃という誰もが恐れる状況にあって勇気を振り絞り前へと進む。
最前列付近の兵達はそれで自分達の多くが死ぬだろうことを理解していた。
それでも一本の槍を一人が潰せば、後列の味方が更に前へと進める。
長槍は拮抗した戦いにおいては無類の強さを誇るが、数で押す重装歩兵の前にはいつしか抵抗力を失い、崩壊することを彼等は知っている。
そして長槍兵はその武器の長さ故に、一度崩れれば立て直しは不可能だった。
自分が死んでも続く者が仇を討つ。
だからこそ喊声を上げ、突撃を敢行できる。
しかし――
「っ!?」
長槍の眼前、一人、また一人と転がるように地面へ倒れ込んだ。
そして後列の味方もそれに蹴躓く。
突撃の恐怖と緊張――当然足のもつれるものもある。
恐怖から自ら転倒を選ぶ者もいる。
だが、それにしてはあまりに数が多い。
彼等は何かに足を取られるようにして転倒する。
それが些細な草の結び目であることにも気付かず、次々と、無視できない数の兵士が矢の雨の中転倒した。
勢いに任せた突撃は本来ありえた衝力を失い、統制なく疎らに槍の穂先へ。
その機会を逃す敵などいない。
一人一人と長槍に串刺しにされ、彼等は無意味に命を差しだしていく。
続く者が淡々と刺し殺されていく姿を眺めながら――
「――様子がおかしい。何をもたついておる?」
「思ったよりも疲労が濃かったのかもしれません。……我々は強行軍です」
「ちっ……まぁよい。数で押せる」
遠目には何が起きたのかはよく分からなかった。
よもや草の結び目程度の小細工によって突撃の勢いを殺されているなど想像もつかず、アウルゴルンと副官ベルーゼは疲労によるものと判断する。
「右翼は増援が向かったようだな。これであの犬の群れも終わり――」
そしてありえぬ光景をアウルゴルンは目にした。
幅四間の荒れ狂う川――そこを黒塗りの鎧を着た兵士達が悠々と飛び越える姿であった。
「……準備は良いですか?」
「は! しかし、心が躍りますな、敵の裏を掻き、予期せぬ場所からの攻撃……本当に、私はクリシェ様にこの隊を与えられたこと、誇りに思います」
「そうですか。えへへ、でも、無茶しちゃだめですよハゲワシ。将軍の首は適当にやっていれば流れで飛びます」
「もちろんですとも」
クリシェは微笑み、第五大隊長ガインズを見た。
「ガインズ、上手な弓兵だけ前に。ここからは川岸に出て曲射ではなく直射を。間違ってもクリシェ達を撃っちゃだめですよ?」
「お任せを。はは、しかし私のあまりの活躍にクリシェ様のお心を射止めてしまうかも知れませんな」
「……ん? ええと……はぁ」
よく分かっていない様子で首を傾げるクリシェに、ガインズは笑い、尋ねる。
「後続はすぐに向かわせますか?」
「はい、状況は非常に良いです。ここで決めましょうか」
「は!」
クリシェはそう告げると森を駆け、一息に川の岸へと出ると軽々それを飛び越えた。
魔力を操る体――この程度の距離など何の障害にもならない。
百人隊がそれに続き、踊り出たのはヒルキントス軍右翼の背面。
「深く斬り込むな! 一時動きを封じるだけで良い」
ダグラの叫び。クリシェはそのまま前方――右翼背面へ。
外套が翻り、黒の百人隊の前を銀色の髪が左右に揺れる。
指揮者自らが常に先頭に立って行くのだ。
続かぬ兵士などありはしない。
前方には完全にこちらへ背後を向けた兵士達の姿があった。
何人かはクリシェ達に気付き振り返っているが、もう遅い。
「ハゲワシ」
「投槍、構えぃ!!」
それぞれが持つ投槍を肩で担ぐように。
「放てッ!!」
五尺の槍が、人の身を超越した速度を持って射出される。
柄に巻き付けた巻き布が解け、風圧で螺旋を。
九十ほどの槍はその全てが吸い込まれるように、眼前の隊列を貫いた。
魔力保有者がその速度のまま放つ槍。
単なる投槍とは全く威力が違う。
咄嗟に構えられた盾と鎧を容易に貫き、無数の悲鳴が空を覆った。
彼等は混乱の最中、恐怖に濁った目をこちらに向け。
――クリシェは更に加速した。
顎で地を擦りそうな前傾を取り、風を裂くように踏み込んだ少女は腰の曲剣を煌めかせる。
鋭く薄く。
刃は何の抵抗もなくこちらを向いた兵士の首を通る。
噴き出す血すらが彼女には追いつけない。
一人、二人、五人、十人――無造作に兵士の首を刈り、紫の双眸は無数の投槍を浴びて混乱の最中にある兵士達の隙間を見通す。
背面からの突撃。
目的の相手はすぐに見つかる。
古びた甲冑を纏う馬上の男――この右翼を指揮する軍団長であった。
兵士達の隙間を縫うように、彼等の影を通り血花を咲かせ。
踏み込みいざなうは必死の間合い。
軍団長は従兵から槍を受け取り、吠えるように叫んでいた。
背面からの攻撃に対し指示を飛ばし――だが遅い。
兵列を容易く抜いたクリシェの刃が先に届く。
「ぁ――がっ!?」
彼等には、突如首から鮮血を撒き散らした軍団長が見えただろう。
見ていた誰もが何が起きたかも理解していなかった。
そしてそれを理解する前に、その副官達も次々に意識を失っていく。
首を中程から鋭利に切断され、歪に傾けながら。
歩兵を指揮統制する指揮者と伝令、馬上の男を数名切り裂き、居並ぶ旗手を始末する。
その時点で既にクリシェの意識はここにない。
入ってきたときと同じように後退――乱れた兵列を抜けていく。
「後ろだ!! 後ろから敵が来――ぁ、っ!?」
そう叫んだ男の首を行きがけの駄賃とばかりに裂き散らかす。
血のアーチを潜り、再び黒の百人隊と合流するまではほんの僅かな時間であった。
槍を適当に二本ほど拾い上げて、黒の百人隊を認めたクリシェは足を緩め。
先頭にいたカルアはクリシェを見て笑い、隣のケルスが叫ぶ。
「軍団長が! 軍団長がやられたぞ!! 奇襲だ、敵が数千はいるぞ!!」
他の百人隊はケルスの言葉に笑いながら、同じように声を張り上げた。
混乱を広げるように。知らしめるように。
事実として彼等を指揮する軍団長はもういない。
クリシェ=クリシュタンドの刃に首を裂かれて死んでいるのだ。
前面――怪物グランメルドと対峙していた男たちの何人かが背後を振り返り、指揮官の所在を示す軍団旗が落ちていることに気がつき震える。
その旗は兵士達――彼等が身命を賭して守り抜かなければならないはずのもの。
彼等を軍たらしめるもの。
失われた旗の存在は彼等を絶望へと叩き落とす。
そして更に、川沿いにあった最右翼の兵は更に別の絶望を感じ取っていた。
「ひっ」
右後方――森から現れたそれは丸太を重ね連ねた分厚い板であった。
長さは六間余り。それが川へと運ばれ、ロープで起こされながらゆっくりと下ろされていく。
簡易で作られた橋であった。
長さのために幅は狭く、だがそれは一つではない。
二つ、三つ、四つ――次々に増えていく。
それを横に連ねれば、千を超える兵を渡すに十分な一つの橋が出来上がる。
そして当然のように、その奥の森から現れるのは無数の兵士達。
ヒルキントス軍の兵士達はそれを見るまで、自分達がクリシュタンド軍をこの地に追い詰めたのだと考えていた。
しかしそこでようやく、自分達が罠にはめられたのだという事実を理解する。
――自分達は敵を追い詰めたのではない。
誘い込まれたのだ、この狩り場へと。
彼等の中に残っていた精神的優位はもはや完全に崩れ去っていた。
「ハゲワシ、このまま敵右翼後方からの圧迫を。増援が渡った後こちらに合流してください」
「は!」
「ミア、タゲル。第一隊は兵を率いクリシェに同行を。中央からの増援――こちらに展開途中の弓兵を狩ります」
「はい!」
流れるように兵を半数に分離させる。
ダグラ達は混乱の渦に叩き込まれた敵兵を乱し、足止めを行ない後続の時間稼ぎ。
クリシェは中央からこちらに迫る弓兵の排除へと向かう。
敵の新たな増援は中央から。
1000人ほどの軽装歩兵がヒルキントス軍右翼と中央の間を抜きに掛かるグランメルドの前に立ちはだかっていた。
その後方、こちらに展開しようとしているらしい続く弓兵は2000ほど。
敵は猛烈な射撃によってグランメルドを仕留めようと考えていたのだろう。
グランメルドほどの魔力保有者を討つには同等の力を持つ魔力保有者をぶつけるか、あるいは弓兵による飽和攻撃を加えるしかない。
アウルゴルン=ヒルキントスはエルーガやノーザンの言った通り悪くない将軍。
混乱にあって冷静さを保ち、判断も妥当であった。
そして妥当であるが故、やらせるわけにはいかない。
軽装歩兵はともかく、この弓兵はこちらで始末する必要がある。
「タゲル、三つに分けます。ミアとあなたで兵を分け、麻痺させてください」
「は!」
「いつも通り、クリシェは兵の損耗が好きじゃないです」
十班のタゲル隊は更に五班ずつに分かれた。
片方に約二十五人――展開途中の弓兵を狩るならばそれで十分だった。
相手は白兵戦闘の心構えが出来てはいない。
狙うは常に羊ではなく、それを指揮する牧羊犬。
一時麻痺させればそれで事足りる。
「ミアは右手、タゲルは左手、クリシェは中央です」
「はい!」
眼前の弓兵達はこちらに走り寄る途中。
中央前面で射撃していた彼等は後方に退避した後、すぐさまこちらへ走ってきたのだろう。
射撃位置についてから整列するつもりであったらしく、完全な散兵状態。
クリシェは手に持った槍の一本を構えた。
最高速に乗った体――クリシェは上体を反らし、踵で地面を蹴りつけ急制動を掛ける。
体を前進させる全ての力を右手の槍へ。
一瞬その華奢な腰と背が放たれる前の弓のようにしなり、右手に構えた槍にその全ての力が集約され――体ごと吹き飛ぶかのような勢いでその槍は放たれた。
戦場を走るは、槍とも思えぬほどの轟音。
城壁を穿つ攻城弓すら彼女の投槍を表現するには不足するだろう。
投擲されたそれは左手最先頭にあった百人隊長の頭蓋を兜ごと易々と粉砕し、その後ろにあった数名の命を易々と奪った。
彼女が手にもつのは投槍ではなく、敵兵の持っていた白兵槍。
六尺余りの槍には確かな重み。穂先を使わずとも太い柄による打撃によって相手を致死に至らしめること容易な重く頑丈なアルガナの木で出来ている。
矢よりも速く――城壁すら耐えきれぬ白兵槍の運動エネルギーは人が受けきれる威力を優に超えていた。
猫のように手を突き転がり、体勢を立て直すと同じ動作を繰り返す。
続く二本目の槍は右手の百人隊長に。
男は老練――巧みな剣腕を持っていた。
狙われていることに気付いた男は剣を引き抜き、その槍を弾き飛ばそうとする――が。
なまじ軌道の変わった槍は螺旋を描いたままその肩を貫通し、受けた百人隊長の右半身が千切れ飛ぶ。
そこで彼等も先頭を行く小柄で華奢な銀の髪――彼女が化け物であるとようやく理解する。
間隔を空けた散兵状態であればこそ、彼女の放つ槍の威力が誰の目にも明らかだった。
人一人を殺してなお止まらず、砕けた骨と槍の破片が後続の兵士にばらまかれる。
その破片すらが人を致死に至らしめるに十分な威力を秘めているのだ。
一定の領域を越えた魔力保有者は、それそのものが大隊に匹敵する戦力。
コルキス、ギルダンスタイン、グランメルド――そうした者達の前には戦場の小兵など無価値であり、そして経験ある多くの兵士はそれを実体験として知っている。
彼等のようなものは数と矢で押し殺すか、もしくは同等以上の力を持つ魔力保有者を対峙させる以外には止める手段が存在しない。
もし密集していれば先の槍だけで数十名が死んだだろう。
散兵状態であることが彼等を救った。
しかし、白兵連携の取れぬ散兵状態にてこのような化け物と対峙する。
それは彼等の脳裏に、次なる悲劇の到来を明示していた。
「っ、密集隊形!! 間を抜かせるな!!」
誰かが叫ぶ。
その声の前に前方の弓兵からは矢が放たれていた。
だがその目測は大いに誤っている。
少女だけでなく、黒塗りの兵も皆歩兵でありながら、その全てが騎兵よりも速く駆けている。
放たれた矢を置き去りにその下へと滑り込み、黒の46名が斬り込んだ。
「さっすがうさちゃん、さいっこぉ!」
狂い笑い、血走った目で眼前の敵を切り伏せる。
左手最先頭を斬り込むのはカルア。
斧が如き曲剣を振るい、眼前の敵を両断する。
城壁すら穿つであろう。そんなクリシェの投槍を受けた弓兵達は怯えきっていた。
そして怯えた兵を切り裂き、狂った笑いに頬を吊り上げるのは黒塗りの兵達。
対峙した誰もが、彼等もまた尋常のものではない能力を有していることを理解し、腰が引ける。
そんな彼等が狙うはただ、怯えた羊を指揮する犬――
「カルア、左半!」
「はいはーい、っとぉ!!」
眼前の敵の首を刎ね、目を向けたのは赤い兜飾り。
向こうは既に剣を抜いていた。
カルアは左手の方へと姿勢を落として踏み込む。
四足歩行の獣が如き低姿勢――強化された脚力が生む推進力を余すことなく前方へ。
彼女もまたクリシェから動きを学んでいた。
姿勢を低く保つのは単に敵の剣をかいくぐるためだけではない。
常人では転倒するような低姿勢によって風の抵抗を減らし、両足から生じる推進力を無駄なく前進に用いるためだ。
魔力を操るものはその動き一つ一つを見直し、自身の有り余る力の使い方を考える必要があるのだと、口を酸っぱく語られたクリシェの言葉と理念。
それを才覚により、誰より理解するのはやはりカルアであった。
カルアに対する敵百人隊長の反応は早い。
彼もまた魔力を操るものなのだろう。
常人では反応すら出来ないカルアの切り上げ――それを咄嗟に後ろへ跳躍することで回避する。
「ぐっ!?」
「やーるぅ!」
楽しげにカルアは笑った。
更に踏み込む。
今度は横薙ぎの一刀――これも百人隊長の男は顔を歪めながら避けた。
若く見えるが腕がいい。とはいえ外見の年齢ほど信用ならないものもない。
恐らくは長年軍で過ごし、それなりに死地を潜ってきているのだ。
――だが、それで終わり。
男の首に後ろから短剣が突き立てられる。
別の黒塗り――同じ班のアドルであった。
「貸しだぞカルア」
「馬鹿言わないでよ、あたしが譲ってあげたんでしょ?」
力比べをしないこと。
これもまた黒の百人隊にある決まりであった。
強敵には複数で、群がり囲んで息の根を止める。
相手の勇者――魔力保有者を執拗に狙い、殺して士気を下げ。
少数精鋭である黒の百人隊であればこそ、囲まれることだけは避けなければならない。
相手は常に多勢。
全員が死にものぐるいで来るならば、生き残る道などないのだ。
だから怯えさせ、恐怖させ、結束を乱して屍肉に食らいつく。
クリシェがそうであるように、彼等もまた無駄な戦闘は極力避けた。
その徹底こそが自分達を生かすことを知っていた。
彼等に射撃を行なうものはない。
『生き残らされた敵の臆病者』は黒の百人隊にとって盾でもあるのだ。
戦場で誤射はつきもの。仲間の矢で死ぬものなどいくらでもいる。
だからと言って、千人の中に紛れた数十に向かって矢の雨を降らすことなど誰にもできはしない。
戦意を挫いた敵の中――そこは他のどんな場所よりも安全な空間であった。
左手はミアが、右手はタゲルが。
中央をクリシェが崩す。
そしてそこにダグラ達が向かってきていた。
ヒルキントス軍右翼――森から現れ川を渡った1500は敵右翼を後方から取り囲む。
ほとんどが弓兵であるが、彼等も兵士。隊列整え剣を抜くならば白兵戦は行える。
恐ろしき黒塗りの兵士達に軍団長を殺されたヒルキントス軍右翼は、更なる増援が十分過ぎるほどの戦力を有していることに気付き、恐怖を強めた。
1500は可能な限り翼を広げ、敵右翼を後方から包囲していく。
混乱に次ぐ混乱――右翼の士気は半ば崩壊していた。
そしてそこに――
「よぉし! 川に追い詰めろ! 皆殺しだ!!」
右翼と中央の間を抜いたグランメルドが全身に血を浴び、叫ぶ。
獣のような声であった。
いくらかを増援の対処に割きながらも弓兵主体の1500と合流。
川を用いた完全包囲を築きあげる。
敵右翼前方はクリシュタンド第一軍団第二大隊――ファグランの重装歩兵が壁を作る。
グランメルドはそのまま川の方向――南へと敵を圧迫しはじめた。
敵弓兵の援護は皆無であった。クリシェと黒の百人隊の遅延攻撃が利いている。
敵右翼にあるのは絶望でしかない。
周囲に壁を作られ、圧迫され、押し出される。
そして押し出される先は――流れ激しく荒れ狂う川。
「やめっ! やめろ、押すな!! おい!!」
それが眼前に差し迫った兵士は叫ぶ。
しかし彼の声の意図を理解するのは周囲の者達だけだった。
彼等は必死で堪えようとする。剣すら放り出していた。
そんな彼等の対岸には弓兵が整列していた。
――その弓がゆっくりと引き絞られていくのを、彼等は目にする。
「やめろ、やめてくれっ!! 助け、助けて――ぇぐ!?」
一斉に放たれた矢。
それが最後の抵抗を崩した。
踏みとどまり、必死で堪えていた彼等の命を無数の矢が奪う。
途端にそこから抵抗が失われ――まるでそれは堤を切るように。
「助け、ぇぶ……っ、あ……っ」
男たちは川へ押し出され、次々に悲鳴と共に水音が響いた。
甲冑を着込んだ男たちは荒れ狂う水の中へと、望まぬ自殺を強いられていく。
一度出来た流れは止められない。
右翼中央にいた兵の一部は周囲から圧迫を受けたために圧死したものすらあった。
そうした死体が重なる度に、つまずき、揺れて、流れが波及する。
前方で戦う兵士は怯え、後ろに下がり――後方にいる兵は川へ落とされる恐怖に叫ぶ。
当初6000人ほどいた兵のほとんどがそうして無惨に殺されていく。
人数が減るほど加速度的に――降伏を叫ぶものがあったが、聞く必要もない。
降伏はその場にある兵の指揮者が申し出る必要がある。
しかし彼等の指揮者はもはや存在せず、そして引き継ぎもできてはいない。
そして全体では未だ戦闘が継続中なのだ。
新兵も古参も臆病者も勇者も全て関係なく、そうして全てが荒れ狂う川へ叩き込まれて殺される。
もはやそれは虐殺であった。
右翼の消滅――その光景を目の当たりにした中央軍は、自分達が一転窮地に追いやられたことを理解する。
指揮を執っていたアウルゴルンも同様であった。
「くそ、くそ、くそぉ!! ダルケンスのクズめが! あんな無能を軍団長に据えたのが間違いであった!!」
クリシェに殺された右翼軍団長を悪し様に罵り、アウルゴルンは叫ぶ。
憤怒に目を血走らせ、額には血管が浮かび上がっていた。
長年彼に付き従う副官ベルーゼですら怯えるほどの怒り。
「しょ、将軍……」
「撤退だ!! あれだけの準備……最初から罠だったとしか考えられん! 俺に左翼の森を警戒させ、右翼、川向こうからの包囲殲滅!! なるほど見事だ、笑いが出るほどにな!!」
「では――」
「左翼の予備を使う! まずは右翼の足止めだ!! 優勢な左翼はそのまま現状維持――突出した中央左翼側から順次後退させろ」
「は!! 伝令――」
そしてそれが勝敗を決する言葉であった。
中央から右翼へ向かった増援は惨劇を目の当たりにしながらもグランメルドに対峙、東西に両翼を広げて中央への攻撃阻止に努める。
グランメルドは迂回を図り背後を取ろうとしたが、ここで左翼予備からの増援と噛み合った。
予備を使い果たし裸になった本陣――何一つ余裕などない。
兵は精々百人、その中からアウルゴルンは唾を撒き散らしながらも怒りの中冷静に指示を飛ばし、撤退を指揮する。
その点はやはり西部を長年守り抜いてきた将軍――罠にはめられ窮地に陥りながらも、彼は頭脳を働かせ兵を指揮する能力を決して損なわなかった。
――だが、ここで彼の頭から思考を奪う状況が発生する。
アウルゴルンからは左斜め後方、北の森。
そこから現れた300の騎兵と1000の軽装歩兵である。
――旗にはクリシュタンドの鷹と雷。
指揮するはクリシュタンド軍第一軍団、第一大隊長ベーギル。
「栄誉ある決着の一撃に間に合ったことを喜べ!! 総員、突撃ぃ!!」
馬上から叫んだベーギル、そして兵達の喊声が続く。
彼等もまた、南の川向こうにあったものと同じ伏兵であった。
戦場から随分と北上したところに陣を取り待機していた彼等は、戦闘開始と共に南下してきたのだ。
アウルゴルンの読みは当たっていた。北の森にあった彼等こそが戦場の雌雄を決する一手。
アウルゴルンが森から兵を引くのを確認した後、彼等は森を出たのだった。
勝敗を決するために。
彼等は喊声と共に中央へ迫り――そして先頭の騎兵が突撃を敵に食らいつく頃兵列を切り抜いた黒塗りの兵士達が南から中央へ。
1万5000のクリシュタンド軍と、2万7000のヒルキントス軍で始まったこの戦い。
ヒルキントス軍は圧倒的な兵力優位を手にしながら、しかし――その結果はヒルキントス軍の完膚なきまでの敗北であった。
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