第70話 裏の裏

クラレ=マルケルス。

歳は六十――貴族と言えどいくらか老いが見え始めた痩せ身の男。

代々伝わる優美な甲冑を着込み、馬上から草原に広がる幾万の軍勢を睥睨する。

空は晴れ渡り、薄く雲が千切れる。

風向きはこちらの追い風――悪くないと男は笑った。

堂々とした将軍の姿。そこには確かな風格が宿る。


彼の美点は、その果断さと勇猛さにある。

人が恐れ思い悩む決断であっても彼は恐れない。

そしてその選択がどうであれ、彼は兵だけを犠牲にするつもりはなく、いざとなれば自身が死地へ飛び込む勇気を持ち合わせる。

武人の鑑というべき男で、彼のそのような美点は兵もまた知っており、兵達からの確かな尊敬を集める名将の資質を有していた。


しかし欠点はと言えば深く物事を考えられぬその気質だろう。

貴族として名誉を重んじ、小細工を好まず真っ向からの勝負を好む男。

自身がそうであるというだけであるならば致命的な欠点とは言えない。

兵力優勢の状況であれば、勝利を手にする力もある。

けれど彼には相手にもまたそうであることを求め、そしてそう信じる悪癖がある。


総じて彼を示すならば愚かとまではいかずとも、抜けたところのない凡将。

大隊長、百人隊長であれば非常に優秀な男であっただろう。

そう評されるべき男であった。


しかし王家に連なる血筋を持つマルケルス公爵家の嫡男として生まれた彼にそうなることは許されず、父を継ぐように将軍の地位を得る。

平時においてはそれで良かっただろう。

だが戦場においてそれは悲劇であった。

泥まみれの戦場をその才覚一つで駆け上がったノーザン=ヴェルライヒを相手取るには、クラレ=マルケルスという将軍は役者不足と言わざるを得ない。


兵力優位にありながらこの三日、ノーザンを仕留めきれなかった理由を彼の無能とするか、ノーザンが有能に過ぎたとするかは難しいところではあったが、結果としてみればやはり二人の間を隔てるものが非常に大きかったと見るべきだろう。


それを知らぬクラレは馬上から戦場を眺め、深く皺の刻まれた顔に不可解を浮かべた。


「今日には攻めてくると考えたが……どういうつもりだ?」


ヴェルライヒはまったく動きを見せない。


「……妙ですな。ヴェルライヒ将軍は竜の顎の奪還を目的にしています。ここで時間を取られれば問題も大きいはず」


――どうすべきか。

気に掛かるのは届いていない輜重であった。

それをどう考えるかでやりようが変わる。


一万の増援。その後ろから来ていたはずの輜重が届いていないのだ。

余裕は十分にある。切迫した問題ではない。

輜重の内の片方は問題なく届いてもいる。

気に掛かるのはそのせいで兵が少し不安がっている、ということくらいだろう。


何かのトラブルが発生したか。

それにしても元々の到着予定は増援と半日と変わらない。

今日になって伝令すら届いていないのは明らかにおかしかった。


ヴェルライヒが別働隊を出して攻撃を行なったか。

その可能性は多いにある。山を進ませれば少数を後方に回り込ませることは可能だ。

しかしありえない。それで何の意味がある、とクラレは顎に手を当てた。


今回最も恐れていたのは北に広がるクーレイル山脈を越えてきた軍が挟撃に入ることであったが、それはなかった。

行なうならば初日ほどのチャンスはなかったはず。

敵軍はクーレイルを越えてはいない、いや――それは早計だろう。

クーレイルからこちら側へ侵入した軍があったとして、その軍がこちらを無視して後方の遮断に走ったという可能性はどうか。

しかし初日に自分を挟撃し、自分を討つ以上のメリットがその行動のどこにある?


そう考えたところでクラレが目を見開く。


「……謀られたか」

「将軍……?」

「恐らくはクーレイルの山脈を越え、わしらの遥か後方へ敵が入り込んでいる。そしてそいつらの目的こそ竜の顎の奪還、そのためにこちらの輜重を掠め取った。……ヴェルライヒは囮だ、やつはここでわしを相手に時間を稼ぎさえすれば良いのだ」

「っ……!」


副官もそれに気付き、一瞬考え込んだ。

動きとしては十分にありえると彼も頷く。


致命的な誤断――しかしそう考えたことはある意味仕方の無いことであった。

彼はまったくの無能ではない。

地位を持ちながらも驕らず、自身の責務と名誉を尊ぶ貴族。

一面を見れば優秀な気質を持つと言えよう。

しかしだからこそ自分を最重要視し、中心に置いて物事を捉えてしまう。


ノーザン=ヴェルライヒがいくら優秀と言えどこちらの戦力は倍。

いくらかの戦力を持ってクーレイルから挟撃を行なっても、彼等には多くの被害が出るだろう。

失敗のリスクもある。

それよりも無傷のまま後方へ浸透し、竜の顎を狙う方が良いと敵は結論した。

クラレの頭は敵の行動をそう読み取った。


誰もが自分の能力を評価したいと思い、されたいと考える。

そういう意味でその結論は実に都合が良く、自分との正面対決を恐れたが故に敵は迂回したという考えは彼の矜持をくすぐる。

無意識下でそうであってほしいという願望が、その結論を彼の中で確かなものとする。


「……では、将軍」

「ああ。この戦いはすぐに終わらせる必要がある。……後方の警戒に回していた隊を前に出す。数の利を存分に使わせてもらおう。伝令、指示を――」


マルケルス軍の陣形は変化する。

戦列に厚みを持たせ、左翼に主攻を。

敵は右翼に主力を置いている。

こちらの右翼側が抜かれる前に敵左翼を抜き、勝敗をつける。


そこで動き出したのはヴェルライヒの軍。


「……斜線陣?」


動き出したのはこちらの右翼に対する正面――敵第一軍団だった。

中央から左翼へ階段状にタイミングを遅らせ、敵は前進を開始する。


「そのようですな。気付かれたことを理解したということでしょう。……流石はヴェルライヒ将軍、決断が早い」

「ふん、あちらがその気なら望むところだ。しかし――」


クラレは笑う。

進み出した戦列――しかし遅れるほどに列の乱れが見えた。


「流石のヴェルライヒと言えど、その高度な動きを行なうには練兵の時間が足りなかったようだな。乱れが見える。左翼から騎兵を出す。右翼を突破される前に敵の左翼を貫いてやろう。全軍前進だ」

「は! 突撃旗を振れぃッ! 左翼騎兵に突撃の指示――狙うべきは継ぎ目だ! 中央からも応援に回せ!」


――戦場に喊声が響く。

3万から減じて2万7000。

しかしその声は大気を弾けさせる気迫を伴い、足音は地震のそれであった。

対するヴェルライヒの軍も応じるように左翼――第一軍団からの喊声。

最強を謳われた狼群――それを原型とする第一軍団の声は狂気に満ち、こちらの声を掻き消さんばかりであった。


両軍は距離を詰め、夥しい命がその間で押し潰され――そして無数の悲鳴と共に砕け散る。

両軍の衝突と同時に失われた命は、果たしていかほどか。


喊声に悲鳴が混じり、鋼が打ち鳴らされる音が響いた。

階段状にぶつかる戦列。音は次第に大きく高まり、雷鳴の如く。

鳴り止まぬ戦場音楽は次第にその不協和音を増大させ、狂わせていく。


草原を血に染めて。

この空間に誕生するのは現世の地獄であった。


「将軍! 右翼が押し込まれています!」


こちらの右翼を攻めるは広く戦場に名を届かせる猛者――グランメルド=ヴァーカス。

その男が持つのは六尺七寸――総身鋼の大戦棍であった。

鉄塊というべきその獲物は、甲冑兜の上から人体を押し潰し、肉を弾けさせ、その骨を粉砕する。

中央にあるクラレからも、遠目にこちらの兵士が宙を舞い血煙を上げる様が見えていた。


噂以上の化け物――あれには勝てまい。

クラレは冷静に判断する。

いざとなれば自ら刃を交える気でいたが、それは敗北を意味するだろうとわかっていた。

であれば、先に敵を打ち砕くほかない。


「中央から兵を割き右翼の増援に向かわせろ! 予備は左翼に用いる!」


騎兵による左翼の突破――しかしこれには失敗する。

後列に長槍を伏せてあったのだ。

騎兵突撃のタイミングで前にあった歩兵と入れ替わり、突破を防がれた。

しかし寸前で気付いた騎兵隊長の英断もあり損害は軽微。

騎兵はまだ生きている。

後で賞さねばならぬ、と頭の中で騎兵隊長の顔を思い浮かべる。


騎兵はそのまま長槍兵を迂回、回り込みを掛けて敵騎兵と噛み合う。

そしてこちらの左翼もようやく敵戦列に食いついた。

一時的な膠着――ここから予備をどう使い、動くか、それが重要になる。


乾いた唇を舐め、熱情に身を任せようとしたところで――


「将軍! クーレイルから敵の軍勢が……!」

「……なんだと?」


左後方を振り返る。

そして、そこに戦列を整える軍を見た。

山の裾から現れた軍は既に陣形を整えはじめ、その数は約一万。

こちらは斜線陣に合わせ戦列を傾け――つまり完全に背後を彼等に晒していた。


味方などではない。その旗に描かれるは雷と鷹の紋章。

――今は亡き英雄、クリシュタンドの軍勢であった。











「全て整いました」


伝令の声にクリシェは頷く。

いつも通り馬にも跨がらず――背の低い彼女には何も見えなかったが、状況は森を出る前に把握出来ている。

先行するのは第四軍団。

クリシェ達は彼等の作るその道を通れば良いだけだ。


「はい。第四軍団に合わせます。……キース」

「……は」

「言っていた通り、第四軍団は道を開けることに力を使い左右に分かれます。あなたはクリシェの代わりに後方の指揮を。第四軍団の両翼が包囲されないことを何より注意してください」


第三大隊長キースは敬礼する。

第四大隊長バーガとどちらにするか迷ったが、この前の囮で戦力が著しく低下している第三大隊はどうあっても前には出せない。


気の良い第二大隊長ファグランが率いるのは重装歩兵であるため前に出てもらわなければならず、弓兵を指揮する第五大隊長ガインズは射撃指揮で忙しい。

消去法で指揮はキースに代行してもらうという結論になった。


「ベーギル。クリシェは黒と先頭を。遮断されないよう突入点をちゃんと食い荒らしておいてくださいね」

「お任せを。血が滾りますな」


前方で突撃旗が翻り、喊声が響く。

エルーガ=ファレン率いる第四軍団5000が突撃を開始する。

鏃型の突撃体勢――中央突破のみを目的とした、エルーガには珍しい陣形であった。


次第にこちらと敵陣後方との距離が詰まっていく。

ふわりと軽く跳躍して、クリシェは敵情を眺めた。

こちらに展開するのは敵予備の3000。

更には前方、ノーザンに構えた戦列から兵力を引き抜いているのが見て取れる。

そちらが凡そ5000――しかしこちらの突破に間に合うまい。

衝突の瞬間こちらに展開されるのは、まともに戦列を組む余裕もない敵予備の3000だけだった。


全くの無防備といって良く、エルーガの言ったとおり、ノーザンは上手くやったらしいと感心する。

完全に敵はクリシェ達に背面を晒していた。

一撃で貫けば掻き集めた5000が参戦する前に片をつけられる。


前へ、前へ。

大地を踏みならしての全軍突撃――衝撃は一瞬だった。

敵後方予備を第四軍団の先頭が貫き、食い込む。

クリシェが驚いたのはその少し後。


衝撃によって乱れた敵陣を第四軍団が左右に押し分けたのだった。

3000の内大部分を第四軍団は取り除く。


「……ハゲワシ」

「っ、百人隊、突撃に移れ!!」


中央に生まれたのは僅かな空白地帯。

クリシェは一足早くそこへ斬り込み、目に付いた敵百人隊長を斬り殺す。

軽くなった代わりに鋭くなった曲剣は肉に吸い込まれるようだった。


更に百人隊長の首を裂き、兵長の頭蓋を兜ごと足で砕いて、そして伍長を三人。

黒の外套に二つに結んだ銀の髪。

二本の尾を左右に踊らせ血の雨降らせ、クリシェが作り出すは一時の麻痺。


――そこへ黒の百人隊、ダグラ達が突撃し食い荒らす。


「へっへぇ、一番乗りぃ!」


手に持つは大振りの曲剣。

クリシェの前に出たのはカルアであった。


両手持ちの柄。

手元は細く、先端に向かうにつれ広く――クリシェの剣が鉈だとすれば斧だろう。

反りは薄いが身は厚く、重みのある先端。

刃は三尺を少し越え、一撃には威力があった。

カルアはクリシェの眼前の敵を両断し、そのままに踏み込む。


「カルア、新しい剣は丈夫そうですね」

「さいっこーですっ、いやー、うっさちゃんみたいな曲剣いいなって思ってたんだけどっ」


カルアは上機嫌で会話しながら眼前の男の首を刎ねた。

頬は楽しげにつり上がっている。


「あたしは細かいのは苦手なんで、鎧ごと叩っ切っても大丈夫そーなの選んでみたん、ですっと!」


敵の胴を力任せに両断し、カルアが笑う。


「……確かにちょっと便利そうです」


雑に扱っても大丈夫。なかなかクリシェにも魅力的な言葉だった。

とはいえ普段持つにはやや大きく、血が飛び散り過ぎるのは問題だった。

綺麗好きのクリシェの好みからは少し外れている。


「カルア! 前に出すぎ!」


ミアがクリシェの横に現れ、彼女の第一班が続く。

更に二班がクリシェの左右を埋め、クリシェはきょとんと首を傾げる。


「こんなにいっぱい来ると、クリシェがちょっと動きづらいのですが……」


そして三人を斬り殺しながらそう唇を尖らせた。

ミアは告げる。


「わたしたちは軍団長の露払いをと隊長から」

「……なるほど」


クリシェは少し考え込んで、まぁいいか、と頷く。

体としては随分楽ではある。


「じゃあ任せます」

「はいっ、カルアっ!」


クリシェは動きを緩め、役割を切り替えた。

斬り殺した死体の肩に飛び乗り、周囲全てを視野に入れる。

その中から見いだしたのは一際質の良い鎧兜を身につけた男――将軍だった。

距離は半里。所要時間は――


どこまでも冷静に、無機質な紫の瞳がクラレ=マルケルスの瞳を射抜く。




その瞳と踊る銀の髪。

それを捉えたクラレは背筋が震えるのを感じた。


――何故、そこから。

クリシュタンド軍の突撃を見たクラレの心中にあったのは混乱であった。

判断を誤った。致命的に。


「将軍、お下がりを!」

「ならん、ここでわしが動けば全てが崩壊する!」


はじめからわしを狙っていたのだ――クラレはようやく確信する。

ノーザンが守勢で三日を過ごしたのは、自身を囮に見せかけるため。

消極的に動くことによってこちらに疑念を抱かせ、深読みをさせた。


最初からその裏を掻くつもりで――


「カルス! わしの槍だ!」

「は!」


従兵から槍を受け取り担ぐ。

逃げ場はない。ここで逃げれば陣は乱れる。

そうなればヴェルライヒの突撃は受けきれない。


展開する予備3000。

それが抜かれても引き抜いた前衛がこちらに来るまでの時間が取れればそれで良い。

敵は小勢。突破してきているのはクラレの首だけを狙った少数部隊だ。

それさえ凌げば痛打は免れなくとも首は繋がる。


「前から引き抜いた増援が合流次第、左翼――山を背面に軍を動かす! 山を背後を守る壁とし今日を耐えるのだ! 案ずるな、兵力は未だこちらが上だ!!」


声を張り上げ、左翼に目をやる。

先ほど突撃を敢行していた騎兵隊がこちらへ戻ってきていた。

これならば――


「へっへぇ、よぉっし、一抜けた!」


どこか脳天気な、そんな笑い声と共に飛び出したのは一人の女だった。

黒塗りの甲冑と黒い髪。

理性の飛んだような狂笑を浮かべ、斧のような大曲剣で眼前の兵士を両断する。


――両断だった。

肩から脇を一刀で鎧ごと切り裂き、血を浴びて笑っている。

そしてその後ろから現れる黒甲冑の兵士達。

精鋭を集めた予備隊の列はバターのように切り裂かれていた。


「っ……!?」


あまりに早すぎる。

並の兵ではないことは確かであった。

武器の統一もなされていない。

あるものは曲剣を、大剣を持ち、斧を持ち、鉄棍を振り回す。

千切れ飛んだ血肉を浴びて、彼等は現れた。


――あれは何だ。


「――将軍をお守りしろ!!」


周囲からの声より先に届いたのは左翼の方から。

騎兵隊であった。

馬の寿命を縮めるような襲歩によってこちらの救援に戻っている。

数十騎――数はそれほど多くない。

疲労のあまり馬が転倒する騎兵もあった。

しかしこの状況での騎兵突撃は命運を分ける。


生き残れたなら全員に個人的な褒賞をくれてやるとクラレは誓い――だが、黒の兵士から飛び出すのは一つの影。


踊る二本の銀尻尾。

馬の襲歩よりも早く駆けた何かが、騎兵隊の列を通り抜ける。

一拍遅れて無数の血煙が噴き出し、先頭付近の数騎が転倒する。

それは狙ってのことか、あるいは偶然か。

連鎖的に後続の馬列が転倒し、完全に突撃衝力が騎兵隊から失われていた。


「コリンツ! 騎兵の後始末をしろ!」

「はッ! 11班から16班、軍団長がお膳立てをして下さった! 美味しい獲物だ、食い散らかせ!」


隊長らしき男の声と共に、黒の兵士の一部が飛び出す。

これにもクラレは目を見張る。

踏み込みと跳躍の速度――全てが常人のそれではない。

飛び出した二十数名、その全てが魔力保有者で構成されているのだ。


彼等が持つ武器もよく見れば重量物がほとんどであった。

並の人間では持てないであろう、大剣や大斧。


――まさかこの黒塗りの兵士全てが。

半ば確信めいた気付きは、クラレの脳裏に絶望をよぎらせた。


悲鳴が周囲から響いた。

護衛に残るは僅か数十――そこにいた男たちの悲鳴であった。

黒い波に紛れ、銀色が踊っていた。


紫の瞳と一瞬、目が合う。

これで二度目だった。


クリシェ=クリシュタンド。

ボーガン=クリシュタンドの養女であった。

先日の戦勝式では遠目にドレス姿の彼女を見かけた。

どこか人形のように、静謐な美しさを持つ少女。


帝国との戦いで凄まじい活躍をしたなどという話は聞いている。

だが眉唾だろうと思っていた。

その人目を惹く外見があれば1のことも10に聞こえる。

精々前線で、悪くない動きができたという程度のことだろうと。

将軍の娘となれば、そうでなくとも持ち上げられる。


――しかし、そうではない。

目にすればわかる。

目の前にあるのは明らかな異物であった。


周囲を固めるのは軍の中でも選りすぐり。

単なる数十の兵士ではなく、三万から選び抜かれた数十である。

しかし戦場で踊るように、縦横無尽に飛び回る少女の刃は一度閃けば必ず一人の命を奪う。


黒甲冑の兵士達も確かに尋常ならざる強さであったが、明らかに彼女だけが異様だった。

兜も着けず、外套の下に覗くワンピース。

手甲と肉厚のブーツを除けば防具らしきものを着込んでもいない。

それで十分だと――戦場にあって自身がかすり傷一つ負うとすら思っていないのだ。

長い髪を尾のように揺らしながら、外套を翻しながら、それが掴まれることすらないと。


そこに隠されることなく映るのは傲慢とも言える絶対的な自信。

――それは少女の姿をした怪物であった。


クラレは怯えながらも、槍を握りつぶさんばかりに振り回す。


「この首を取りたいものがあれば名を名乗れッ!! このクラレ=マルケルスが直々に相手をしてやる!!」


生じた怯えを殺すために叫んだ。

もはやここに来て生きることを望まない。殺されるならば、せめて武人としての死を。


愚直に貴族としての誇りを守るため前に出た。

紫色の瞳が輝きを放つ――視線が交錯する。

怪物は僅かに目を細めると踏み込んだ。


「将軍!!」

「ドーラ……!」


副官ドーラがクラレを守るように体を滑り込ませ、


「うさちゃんのじゃーまっ!」

「――ぅ、あ……っ!?」


しかし横から現れたのは黒髪の狂笑。

その斧の如き曲剣にその体を鎧ごと両断された。

黒髪の女は勢いのまま、ドーラの死体を大地に叩きつけ――そして間から全てが消える。


既に少女は踏み込んでいた。


クラレにとって人生の、そして戦士として振るう最期の槍。

迷いは無く、幾度となく繰り返してきた動きのまま槍を操る。

大貴族に生まれ、幼少のみぎりから繰り返してきた血反吐を吐くような訓練。

死地で甘えをそぎ落とし、血肉で研がれ、この槍は無数の命を貫いた。

今日の槍は冴え渡っている――だが、少女はその槍の更に下を容易く潜る。

大地を舐めるような低姿勢での踏み込み。

彼女は完全に、クラレの想像を超越していた。


思考より先に槍を操り、石突きを少女に向け――放つは渾身の突き。

しかし少女の動き、そのしなやかさは槍に纏わり付く蛇の如く。

それすらをまるで障害にならぬように、少女は距離を詰めた。


槍の柄に巻き付くように。

槍の柄を伝うように体を捻って跳び上がり、クラレの眼前――馬の首に乗ると、少女は微笑む。


「……初めまして」

「っ……!?」


衝撃が胴を貫く。

蹴り落とされたのだと気付いたのは、宙を舞いながら、続く言葉を聞いてからだ。


「クリシェと言います、さようなら」


美麗な顔に花が綻ぶような微笑。

クラレが望んだ通りにクリシェは名を名乗り、別れを告げた。

彼女の言葉にクラレが言葉を返すことはない。

二度と言葉を発することもなかった。

その首は既に中程から、彼女の曲剣によって裂かれている。


蹴り落とされたクラレの首から噴き出す血は、その一滴すら美しい少女を汚すこともなかった。

少女はもはや死体に興味を示さない。

銀色無垢なお下げ髪を指で弄び、ただ周囲を睥睨した。


黒き外套、真白き肌と美しき銀の髪。

馬上にあって、少女の姿はどこまでも人の目を引き寄せる。


将軍を助けるために飛び出していた男たちは硬直し、そしてそれを斬り殺すは黒塗りの百人隊。

カルアは地面に落ちた将軍の首に剣を叩きつけ、完全に切断する。

そしてその刃の切っ先で首を貫き、高く頭上へ掲げた。


「この首を見よ! 貴様らの将は我らがクリシュタンド軍第一軍団長――クリシェ=クリシュタンドが討ち取ったッ!! もはや抵抗は無用、剣を収め降伏するがいい!!」


カルアが声を張り上げる。

ヴェルライヒとの衝突が始まり、僅か一刻足らず――突如掲げられた首と、その兜を見た男たちは一人一人と剣を下ろしていく。


「抵抗せず降伏すれば悪いようにはせん! 刃交えながらも我らは共に王国が民、将を失った以上、もはや戦いは無意味だ! 大人しく剣を収め降伏せよ!!」


続く声はダグラのもの。

クリシュタンドの兵達は戦場に響かせるように歓声を上げ、雷と鷹の旗を無数に掲げた。

一度始まった戦い――すぐにその熱が冷めることはなかったものの、鳴り響いていた悲鳴と鋼の声は次第に歓声へと塗りつぶされていく。


必死の抵抗を見せる一部の者こそあったものの、その大部分は命を賭けて戦う意義を見失い、その声を前に膝をついていった。





「はは、稀に見る圧勝ですな。流石はクリシェ様」

「ガイコツの働きがとても良かったです。道を作るのが上手ですね」


周囲にいた敵の抵抗を奪い、武器を回収させながら、クリシェは馬上のエルーガに微笑む。

エルーガは嬉しそうに邪悪な笑みを浮かべて周囲の敵を眺めた。

死神のような老人と怪物のような少女。

それを見ていたマルケルス軍の兵士達は怯えていた。


「ハゲワシ、ミア、悪くない動きです。今後も今日くらい動いてくれるとクリシェは楽でいいです」

「は!」

「それとカルア、いいお仕事でした。ハゲワシ、カルアは今回大活躍だったので適当に。目立たないながらも四班、九班も中々良い動きをしていたように思えます――」


クリシェが適当に兵士達の活躍を褒めていると、兵士達の列を割って現れたのは一人の男。

狼を象った兜と鎧は血に汚れ。

その手に持つはその背丈よりも長い大戦棍。

男は兜を脱いで膝をつく。


「……お見事なご活躍振りでした、クリシェ様」

「あれだけ状況が整っていれば誰だって簡単です。ヴァーカス軍団長」

「いやいや、それにしてもあれほど容易くやってのけるのはクリシェ様のお力ゆえでございましょう。俺がそれより早く食い殺してやろうと思っていたのですが……敵いませんな」


顔の傷痕を引き攣らせながら男――グランメルド=ヴァーカスは笑った。

そして大戦棍を肩に担いで立ち上がる。


「そのお体とそんな剣でよくもまぁ、これだけ容易く。先日の戦でも思いましたが、あなたのそれは俺の理解の外にありますな」

「クリシェは人を殺すのが難しいと思ったことはないのですから……向かってきてくれるなら軽く肉を削いでやるだけなので、簡単です」


クリシェは死体のズボンで曲剣についた血を大雑把に拭い、ポーチから取り出した布で丁寧に血の残りを拭き取る。

薄い刀身には刃こぼれ一つなかった。

グランメルドは彼女の剣を眺めて驚きを浮かべ、呆れる。

自分ならばこの薄い剣で何人を斬り殺せるか、10人を超えることはあるまい。


「恐ろしい方だ。……クリシェ様、ファレン軍団長。ひとまず本陣の方へ。将軍がそこでお待ちです。ひとまず今後の方針について軽く話をしたいと」


剣を鞘に収めたクリシェは頷き、エルーガを見る。


「……そうですね。ガイコツ、行きましょうか」

「ええ。少し性急ですが……」

「……ガ、ガイコツ?」


グランメルドは驚愕の視線でエルーガを眺めた。

エルーガは見返し、睨む。


「……何かね、グランメルド君。いや、今はヴァーカス軍団長と呼ぶべきか?」

「は、はは……いえ、どちらでも」


グランメルドは二人を先導するように歩き出しながら、静かに肩を震わせる。

エルーガは目頭を揉み、クリシェは不思議そうに首を傾げていた。

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