第61話 尊きもの
ベッドの上で眠るクリシェの頬を撫で、ベリーはため息をつく。
すぐ横に置いた椅子に、ほとんど一日中ベリーは座っていた。
戻ってきてから二日。クリシェはまだ一度も目を覚ましていない。
「……こんなに、やつれて」
白い頬は肉が薄くなり、目元に深い隈。
無茶をしたという話は聞いていた。
体を綺麗にし、髪を整え、ベッドに寝かし。
時折苦しそうな様子を見せる彼女の側でベリーはほとんどを過ごした。
熱もまだ下がらない。
医者は重い病ではなく過労が過ぎただけだろうと診断したものの、だからと言って少しも安堵なんて出来はしなかった。
魔力を扱う血肉は生身。常人に比べれば遥かに丈夫とはいえ、死ぬときは死ぬ。
ベリーはクリシェの額に濡れた布を乗せ、何度もずれた毛布を整える。
ノックの音が響き、入ってきたのはセレネだった。
「ベリー、クリシェは」
「……まだ、眠っておられます」
そう、とセレネは目を伏せ、ベッドに近づく。
仕事を終わらせてからはずっとセレネもここで過ごした。
クレシェンタが以前よりもセレネの仕事を手伝っている上、他の軍団長が主導となってセレネを気遣い仕事をこなしている。
日が落ちてからはずっとここにいることが多い。
「……熱いわね」
「はい。……でも昨日来たときに比べればまだ」
セレネは熱を確かめるようにクリシェを撫でて、袖で目元を拭う。
彼女が戻ってきた時のことを思い出したのだ。
ボーガンの遺体を焼き、戦死者と共に大々的な葬儀を行い。
その頃にはセレネも多少気持ちは落ち着いていた。
どうあれ、ずっと泣いているわけには行かない。
ボーガンの側であのまま泣き疲れて眠り、葬儀を行ない、そうして少しずつ心を取り戻し、食欲が湧かないながらも食べられるようにはなった。
ずっとベリーが気遣うように側にいてくれたことも大きい。
撤退はガーレン主導で上手く行き、しかし一つの問題があった。
クリシェとその百人隊が未だに帰ってきていないのだった。
いや、それは正確ではない。重傷の者を連れて帰ってきている者もいた。
重傷者一人に対して二人の兵士。
しかし一週間経っても未だにクリシェは山中にあった。
「……あの、お嬢さま、クリシェ様は」
ベリーはただただ不安げな顔で、セレネに尋ねる。
最初の三日ほどは、ベリーもセレネを気遣うようだった。
クリシェならば大丈夫だと、ベリーにもどこか安心があったのだろう。
しかし帰ってきた兵士の報告でクリシェが高熱を出していると聞いてからは、日に日に彼女の不安が強まっていた。
ここにいる全員がそうだった。
外から執務室に戻ってきたセレネの顔を見て察したように、しかしそれでもベリーは尋ねる。
クレシェンタも落ち着かなさそうに書類を仕分けていた。
「……任務継続に支障なし、って」
「そう、ですか」
全員がその様子を気にしながら、しかしどうすることも出来ないでいる。
竜の顎はギルダンスタインの制圧下。
山慣れした伝令を送るのが関の山――けれどクリシェは帰還命令に対し、そう答えた。
「……その、セレネ様、わたくしが――」
「駄目、立場を理解なさい。あなたはここにいるの」
「でも……」
セレネはクレシェンタの頭を撫でた。彼女は顔を伏せる。
恨む気はなかった。
この戦がなければ。
それを悔やんでも仕方が無い。
彼女のせいで戦が起きた。
だからと言ってそこで起きたこと全てが彼女の責任というわけではない。
選択肢はなかったわけではなかった。
選ぼうとするならば、無数にあった。
しかしクリシェのことを考え、情と理念、利益と不利益――全てを考え戦うことを選んだのは父であり、そして父は貴族としてそれに殉じただけなのだ。
「あなただけを責めたりしないわ、クレシェンタ。……あなたもお父様と同じで、わたしの大事な家族だもの」
「…………」
「どうあれ家族全員で選んだ結論。結果がどうあれ、責任があったとするなら全員に平等に、だわ」
「……はい」
彼女の頭を撫でてやる。
自分は既にクレシェンタという存在を受け入れ、そしてその上で彼女を守ると決めた。
名に誓ったことを破ることなど、それこそセレネの誇りが許さない。
それは貴族として――自身の役目に殉じた気高き英雄の娘として、あってはならないことであった。
ほんの少し目を閉じて、告げる。
「……話は軍団長達とつけてきた。今晩、わたしが迎えにいくわ」
「それは……」
「大丈夫、山だもの。夜の内なら問題ない。ベルナイクに慣れた第四軍団から気の利く護衛を何人か連れて行くから大丈夫」
帰還した兵士はクリシェが限界であると話していた。
ダグラが撤退を進言しても聞かず、遅延行動の継続をただ告げる。
敵の追撃を止め、軍の立て直しを図るためにも自分達はこれを継続する必要があり、そして自分の今の役目はそれなのだ、と。
役目をきちんと果たすまでは帰れない。
ふらふらの体でクリシェはそう告げるのだと、兵士達は彼女を心配するようにセレネに言った。
セレネの名で伝令を出しもしたが、クリシェはそれを無視した。
返答は任務継続に支障なし、という言葉。
行き帰りに二日は掛かる。伝令は無駄足だった。
当然かとも思う。
クリシェが最後に見たのは、彼女が愛するセレネが頬を打つ姿であったから。
最低だった。それを何度も後悔していた。
けれどそんなつもりはなかったなどと言い訳もできない。
事実としてクリシェは怯え、そう捉えていたからだ。
「今アーネに鎧の準備をお願いしてるわ。ベリー、軽い物を作ってもらえる?」
「……かしこまりました。それではすぐに――」
そこで、荒々しいノックの音が響き、返答も待たずに開く。
「セレネ様! クリシェ様がお戻りになられました!」
言われた瞬間、セレネは部屋を飛び出た。
毛布に包まれ抱かれる姿は赤子のようで、一目でわかるほどに苦しげだった。
すぐにベリーが医者の手配をし、セレネとクレシェンタはクリシェを抱くミアを部屋へと案内した。
毛布に染みこむほど血に濡れ、服を脱がせれば肩は腫れ上がっていた。
兵士達の傷だらけな姿を見れば、むしろそれだけで済んだのが幸いだろう。
アーネには湯を持ってくるように言って、その汚れた体を清め、ベッドに寝かせる。
頑強に作られたはずの彼女の愛剣はささらの如き無数の刃こぼれ。
柄に巻き付けられた布は血で固まり、彼女の両手の皮は無数の血豆が潰れていた。
どうにか時間を作ってもっと早く、伝令に任せず迎えに行けば良かった。
そう後悔して、彼女の側で眠った。
それから、まだクリシェは目覚めていない。
クリシェはいつだって必死なのだった。
わかっていたことだった。
期待に応えるためならば、彼女は無理を当然のものとする。
能力以上の力を使う。
いつだって基準は彼女のもので、彼女は彼女にとっての当然以外を認めない。
竜の顎の中央で戦い、ギルダンスタインから剣を奪い返し、セレネの代行を務め。
それらを休まずこなしながら、何より先にセレネの心配をして、様子を見に来た。
慰めようとした。
――それなのに。
セレネは顔を歪めてクリシェを抱きしめた。
「……お嬢さま、あまり思い詰めないで下さいませ」
「でも、わたし、この子に酷いこと……」
ベリーは口をつぐむ。
何を言ったってどうしようもない。
執務室も――この城砦も、どこか暗い空気が漂っていた。
英雄を失い、竜の顎での戦いに敗れたのだから当然とも言える。
ここはどこか息苦しく、けれどその理由の一番大きな所はクリシェに対する不安であった。
この上、更にクリシェまで失うとするなら――
そんな不安は考えないようにしたどころで、心の内ににじり寄る。
「せれ、ね……?」
二人は言葉を失い、クリシェを見た。
虚ろで不確か。
けれど長い銀の睫毛の隙間から、美しい紫色が覗いていた。
「クリシェ!」
「クリシェ様っ」
セレネが顔を近づけ、一瞬クリシェは怯えた様子を見せた。
「ご、ごめ、なさい……」
辿々しく、悲しげに。
クリシェが紡いだ言葉の意味を理解して、セレネはその小さな体を抱きしめた。
「クリシェはっ、謝らなくていいの……悪いのは、わたしの方だから」
「せれね……?」
「ごめんなさい、叩く気なんてなかったの……怒ったり、クリシェのことを嫌ったりなんてしてないわ。……本当に、大好きなの」
クリシェは困惑するように顔をあげ、抱きつくセレネを横目に見る。
そしてベリーに目をやる。
ベリーは静かに涙を拭いながら、安堵するように微笑んだ。
「……申し上げた通り、ですよ。お嬢さまがクリシェ様を嫌うことなどありえません」
「そ、の……」
クリシェは尚も困ったように。
セレネに抱きつこうかを迷い、包帯の巻かれた手を動かす。
「……でも、せれね、泣いてます。……いっぱい、かなしそうです」
「嬉し涙というものです。とっても嬉しいときも、涙が出てしまうのですよ。二日も寝込んで、とても心配しておられましたから」
「……うれしなみだ」
「大好きなクリシェ様がようやくお目覚めになって、嬉しいのでございます」
ベリーの手が落ちかかった額の濡れ布を取り、髪を除けるように撫でる。
クリシェはぼんやりとしたまま少しくすぐったそうに、セレネに抱きつく。
「……くりしぇのこと、きらいになってないですか?」
「なってないっ、なってないの。……ごめんね、ほっぺた、痛かったでしょう?」
「……へーきです」
セレネは顔を上げて、クリシェの頬にキスをした。
ほんの少し目を開き、クリシェはほっとしたような顔を見せた。
こぼれ落ちたセレネの雫を拭うように、彼女の頬に手を当てて、親指でなぞり――
「ん……」
そしてほんの少し体を起こして口付けて、離れた。
クリシェの口元に微笑が浮かび、セレネもまたクリシェの頬に手を添え、口付ける。
優しいキスだった。
「ちゃんと、あなたのことを愛してる。……これからもずっと」
「……せれね」
安心したように体から力が抜けて、体が沈み込む。
「おきたら、きらいになってたりしませんか?」
「だから、なってない。……セレネという名前に誓って、クリシェのことを嫌いになることなんて、絶対にない。安心して休んでちょうだい」
クリシェは頷く。
呼吸はどこか荒く、時折小さく咳き込む。
セレネはその体をさすってやり、クリシェはぼーっとそれを眺めた。
「クリシェ様、お水は欲しくありませんか」
「……ほしい、です」
セレネがクリシェの体を優しく起こす。
ベリーは水差しを手に取り蜂蜜を中に垂らしてかき混ぜた。
零れないよう顎に布を当てながら、水差しをクリシェの口元にやり少しずつ飲ませてやる。
「ご気分はいかがでしょう。何かお召し上がりになりますか?」
「……ぇ、と」
「正直に仰ってください。お休みになりたいですか?」
クリシェは少しの間を空けて、おやすみしたいです、と言った。
気分が良くないのだろう。
何も食べておらず、空腹なはずだった。
あれだけ食欲旺盛なクリシェがそう言うのなら、よほどであると眉をひそめる。
「起きたときには食べやすいものを用意しておきます。今はお休みください」
「……はい」
「今日からしばらく体調がお戻りになるまで、クリシェ様はお休みです」
「でも、クリシェは……おしごと……」
「クリシェはお休み。お願いだから休んでいてちょうだい」
セレネに見つめられ、クリシェはこくりと頷く。
ベリーは微笑む。
「その代わり、クリシェ様がベッドから抜け出したくなるくらい甘やかして差し上げます。お嬢さまもクレシェンタ様も、クリシェ様をたっぷり甘やかしてくださるでしょうから、お体が治るころにはクリシェ様、お仕事なんて出来ないくらい甘えん坊になってしまうかも知れませんね」
「それは……クリシェ、こまっちゃいます……」
熱とは別の恥じらいに頬を赤らめ、セレネが苦笑する。
「しばらくはそれくらいでいいの。……わたしのお願い、聞いてくれるかしら?」
「ぅ……はい」
いい子ね、とセレネが頭を撫でると、クリシェは目を細めた。
「……セレネのおねがいなら、クリシェ、なんでも聞きます。……なんでもします」
クリシェは手を伸ばし、またセレネの頬を撫でた。
「だから、セレネにクリシェのこと……好きなままでいてほしいです」
――あれだけのことで、どれほどこの少女は傷ついたのだろう。
その目は透き通る無垢な宝石のようで、けれど不安げに、怯えるように静かに揺れる。
二日も目覚めず、体は傷だらけで、数え切れない人を殺して。
全部、セレネのために。
それでも彼女が願うのは、たったそれだけのことだった。
恨み言を口にしたって、罵られたって構わない。
子供のように喚きちらして顔が腫れ上がるぐらい叩かれたってそれでいい。
けれどクリシェにそんな気持ちは欠片もなくて、怖いほどの純情をただ向ける。
どこまでも綺麗で、飾り気もなく、透き通るような言葉と愛情。
言葉を失って。
また涙が溢れ掛けて堪えて、クリシェの額に額を押しつけた。
熱を帯びた彼女を感じて、その目を見つめる。
「お願いなんて、本当は聞いてくれなくたっていいの。無理をしなくたって、嫌だってわがままを言ったって、わたしはあなたのことがとても大事で、大好きなの」
「……セレネ」
「不安だって言うなら、クリシェが不安じゃなくなるまで毎日同じことを言ってあげる。……二度とあんなことはしないわ。あなたの信頼を裏切るようなことは、絶対」
――だからただ、信じて欲しいの。
セレネは金色の睫毛を濡らしながら、静かな、囁くような声で言った。
長い金の髪がシーツの上で、透けるような銀色と混ざり合う。
薄紅が柔らかく重なって、白金に沈んだ少女が微笑んだ。
「……はい」
そのまま彼女は瞼を閉じて、限界が来たのかすぐに静かな寝息を立て始める。
セレネはベッドを整えて、ゆっくりと離れた。
「……恋敵、冗談ではなくなってしまうのでしょうか」
「あ、あなたね……」
「ふふ、これでお嬢さまもわたしのことをからかえませんね……ぁ」
冗談めかした口調で。
ベリーは少女のようにくすくすと、楽しげに笑って――すぐに顔を俯かせた。
目元を細い指先でなぞるようにして、鼻を啜る。
「ごめんなさい。……あなたにも、迷惑を掛けたわ」
椅子に座ったまま、赤毛を揺らして首を振る。
両手で顔を押さえていた。
「そういう、わけでは。ちょっと、安心したら……それだけで」
セレネを気遣い。
そしてクリシェを不安がらせないように、我慢していたのだろう。
いつも見守ってくれている彼女だって、強くもないのに。
肩を振るわせて顔を押さえたベリーの前に膝を突いて、抱きしめる。
「……ありがとう、ベリー」
ベリーはまた赤毛を揺らして、セレネは笑う。
「ふふ、あなたもわたしのこと、意地っ張りだなんてからかえないわね」
「……意地なんて張ってません」
「そういうことにしておいてあげようかしら。でも」
その赤毛を撫でて、言った。
「似たもの同士なのかもね。……自分のそういうところは嫌いでも、あなたのそういうところは、すごく好きよ、ベリー」
「……わたしのはそういうのじゃありません」
「涙声になってるわよ」
苦笑して、その肩に頭を預けた。
取り繕って、意地っ張り。セレネとベリーは駄目なところが少し似ている。
けれど、だからこそなのかも知れない。
「だからきっと、同じものが綺麗に見えるのかしら」
静かにそう、囁いて。
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